The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College
生物考古学研究所・人類学者:楢崎 修一郎
人類学者としてアフリカ、インドネシア、シリア、アメリカ等で発掘調査を行ってきた。特にインドネシアでは約十年間の発掘調査。ここ十年は主に群馬県出土の縄文時代人から近世人骨の鑑定をしている。実は佐倉先生の助手として1991年8月の数日間、この戸山人骨の鑑定に当たった。
本日は、「一、人骨の特徴」・「二、発掘方法」・「三、戸山人骨」・「四、発掘調査に期待されること」の4つに分けてお話をする。
人骨は、生まれた頃は約350個。成長するにつれて癒合し、約200個になる。歯を含めると、乳歯・永久歯合わせて52本の歯が生えるので実際は258ある。歯を除いた206個のうち、手と足の部分だけで全体の半分以上の骨がある。私は、発掘の際に手や足の骨をきれいに出すのではなく、ごっそり採った方が取りこぼしは少ないと助言している。
人骨からは、性別・死亡年齢・顔立ち・身長・プロポーション・体格・生活痕・習慣的姿勢・病気・産児歴・摂取した食物・利き手・血液型・埋葬方法・人工変形風習・年代・集団等の情報を得ることができる。
昔は、「人種」という言葉を使っていたが、最近は使わない。人類の歴史は約700万年から600万年くらいあるが、現代人(ホモ・サピエンス)のルーツは、約20万年前から15万年前にアフリカで生まれたと考えられている。
① 性別
・頭蓋骨
男性の額は後ろに後退しているが、女性では壁が立ったようになる。眉弓は、男性は発達していて女性はあまり発達せず、前頭結節がある。側頭骨の乳様突起は、男性では非常に大きく女性では小さい。
・寛骨
大坐骨切痕と恥骨下角は、女性では鈍角だが男性は角度が小さい。男性は仙骨が真ん中に飛び出ていてとても子どもが産めないが、女性は大きく開いている。また、耳状面前溝は子どもを産んだ名残。
② 死亡年齢
死亡年齢は、成長期は、歯の萌出状態や骨の癒合の度合いでかなり正確に推定可能。成人では、頭蓋縫合の癒合の度合いや歯の咬耗度で推定。
③ 身長
身長は、上腕骨・大腿骨・脛骨等の四肢骨の最大長と身長との相関関係から、式にあてはめて推定。ただ、破損していない四肢骨が必要。
④ 集団
・世界の集団
集団推定の指標となる部分は顔面。アジア系は扁平、短頭で、寒冷気候に適応。アフリカ系は熱帯気候に適応。長頭で、顔面部は凹凸多く突顎。また、手足も胴も長い。ヨーロッパ系の人は、アフリカ系ほど突顎ではないが、顔面部は凹凸あり、鼻が高い。
・日本人の集団
縄文人の特徴は、髪の毛が癖毛・二重瞼・大きい耳たぶ・大きい鼻・厚い唇・濃いヒゲなど熱帯適応。顔面部は凹凸あり。上顔高(顔の高さが)が低い。私の経験から、サングラスや眼鏡をかけた時に眉毛がサングラスや眼鏡に隠れる人は縄文系で、上にぽつんと出ている人は弥生系という傾向にある。弥生人の特徴として、髪の毛が直毛・一重瞼・小さい耳たぶ・長い鼻・薄い唇・薄いヒゲで寒冷適応。顔面部は凹凸がなく扁平。
弥生時代は、在来系(縄文系)と渡来系(弥生系)が混在。古墳時代はミックスしたような顔。これは当時の支配層の人々で、庶民は土坑墓に埋葬されたために人骨の保存状態が良くないと思われる。中世になると長頭が特徴になる。その理由には諸説ある。
日本国内にも在来系・渡来系・中間系と三タイプの人がいるため、骨から日本人であると断定するのは難しい。
発掘現場で、花・線香・御神酒等を供える場合が多いが、科学分析を想定すると止めた方がいい。特に、特定の宗教はまずい。私自身は、発掘の際、心の中で無宗教でご冥福を祈る。
人骨は乾燥させるとかなり強い。土に埋もれている状態では、水分を含んで非常に弱く、ぐずぐずしている。乾パンと同じと考えたらわかりやすい。
人骨が出土したら日陰で乾燥させる方が良い。これは急激な温度差を与えない方がいい。その後、最小限のクリーニングを行い写真撮影・実測(写真実測)を行う。過度のクリーニングを行うと人骨は破損する。専門家と相談すべき。
出土人骨を撮影する際には、遺跡名・遺構名・人骨番号等の情報を入れた「看板」や北マークがついた状態と無い状態のものを撮影すると良い。発掘調査は、やり直しがきかないので、なるべく多く記録する必要がある。考古学では、「化粧」といって、写真撮影の前に、スポンジに水を含ませて遺物をきれいにするが、人骨には注意が必要。
実測図は、人骨が出土した状態を図面にとったもの。考古学では、20分の1でとる場合が多いが、人骨はできれば10分の1の方が良い。
発掘現場では人骨の保存はなるべく行わない。保存液をかけたら鑑定の際に除去が大変。特に水性ボンドの塗布は、食性分析や年代測定に影響を及ぼす。
まず、乾燥させることが重要。その後、取り上げた時には湿気を含んでいるので、ビニール袋よりは紙袋に入れる方が良い。細かい人骨はタッパーやチャック付きビニール袋で取り上げても良いが、その際はフタをせずに乾燥させる。カビや長い間水に浸かっていると年代測定にも影響が出る。また、綿やアルミホイルにくるむのは年代測定に影響が出ると言われ、注意が必要。
ラベルは、紙製のものだと湿気で腐食するので、その場合はチャック付きビニール袋に入れたり、マイラーという湿気で腐食しないものをラベルに使う方法もある。
戸山人骨は、1989年7月22日に発見。鑑定は札幌学院大学の佐倉朔先生(当時)。私は、数日間助手をつとめた。鑑定書では62体分だが、実際は100体以上。そういうことは他にはまずない。古墳時代人骨の場合は、残存状態の良い側頭骨の数から最少個体数を推定する。右か左の多い方の数が最少個体数。両方を足すことはしない。
人骨の多くがモンゴロイドの特徴を備えている。すなわちアジア系。古モンゴロイド(在来系・南方系・縄文系)と新モンゴロイド(渡来系・北方系・弥生系)がある。その日本での比率は、渡来系の人の方が多い。
きちんと記録を取りながら発掘調査を行えば、実際には人骨の接合も出来るかもしれない。人類学の立場からは「あらゆる可能性も考慮しつつ、先入観を排し、出来る限り中立の立場で、科学的冷静さを保ちながら臨むことが重要ではないか」と思う。
群馬県埋蔵文化財調査事業団主席専門員・菊池 実
今日は、前半は戦争遺跡とはどういうものかについて、後半は具体的な発掘調査の進め方をお話する。
戦争遺跡の調査を始めたのは1993年から。中国東北部(旧満州国)所在の関東軍要塞の調査を、ハルビンの東北烈士紀念館、黒竜江省革命博物館、それから文物管理所と共同で調査を進めた。国内では戦争遺跡の調査はほとんど行われておらず、研究者からは批判された。ところが95年3月に文化庁の特別史跡名勝天然記念物、及び史跡名勝天然記念物指定基準の一部が改正され、6月に国は原爆ドームを文化財保護法の史跡に指定、9月に世界遺産に政府推薦された。96年12月、世界遺産一覧表に記載されて、広島原爆ドームは世界遺産になった。それまで30年に渡る取り組みがあった。1964年に広島の平和団体や被爆者団体などが原爆ドームの保存を広島市長に要請し、翌年に市長が決意、66年に市議会が原爆ドーム保存を決議した。その間に、被爆を伝える建物がどんどん消えた。
近代の戦争遺跡とはどういうものか。時代的な範囲は、幕末開国頃からアジア太平洋戦争の終結頃まで。戊辰戦争から西南戦争までは国内の戦争、それ以後は、アジア太平洋全域に及ぶ。
戦争遺跡はどのように残されているか。非埋没資料と埋没資料に分かれる。非埋没資料というのは地上に残っている建造物や構造物など。飛行機を格納・秘匿した掩体壕は、国内でもかなり残存している。それから土塁などの土木構築物が挙げられる。それから埋没資料は、地中や水中に残されている資料。戦災によって消滅したり、敗戦時における意図的な破壊、焼却で、地中や水中への処分が行われ、徹底的な証拠隠滅が行われている。戦争遺跡の調査は、この時期の遺跡の調査・研究が重要。証拠隠滅がどのようなに行われたのか、という事実を明らかにすること、それを遺跡からどう読み取るのか、これが戦争遺跡研究の一番最後の段階となり、重要視される。
遺跡にはかつてその場所で展開された歴史の営みが土地に刻みこまれた様々な遺構として残っている。遺跡から得られる情報は、調査技術と問題遺跡の絶えまない発展によって質量とも限りなく豊かになっていく。
私が今まで取り組んできた遺跡について。これは韓国の済州島に残る戦争遺跡。韓国・済州大学校の先生から、共同調査を持ちかけられ、2005年から始めた。掩体壕や「回天」の特攻基地も残っている。こういうものは国内にも残っている。
埋没資料にはどのようなものが残っているか。海没した零戦がニューギニアで見つかった。沖縄近海も含めて、日米両軍の艦船や戦闘機などがかなり海没している。考古学のなかに水中考古学という研究分野があるので、対応は可能。西原町で見つかった日本軍陣地壕の中から4体の人骨が発見された。1945年5月の段階で西原町が日米の激戦場となった時に、日本軍陣地壕が多数造られた。今年に入って見つかった4ヵ所の陣地壕のうちの一つから、この人骨が見つかった。調査担当(ボランティア活動で調査)の方の話では、おそらく負傷した将兵が戦友に運ばれ、そのまま亡くなったのではないか、という。ここから少し離れた場所でもう1体見つかる。頭骨がなく手足が散乱している。その周りから日本軍の擲弾筒の破片が出てきた。これは自爆した跡だということが分ってきた。沖縄ではこういった戦争遺跡はまだかなりある。昨年から那覇市の真嘉比では172体に上る日本軍兵士の遺骨が収集されたが、調査はボランティアのために細かい記録類作成というのが難しい。それでも人骨出土の写真や地点の記録をとって何とか遺骨を遺族の元に帰したいと、収集が行われている。それから、つい最近では硫黄島の遺骨収集という話が新聞紙上に出た。従来の厚労省の遺骨収集は、重機で掘ってただ骨だけを集めてくる。それでは一人ひとりの亡くなった最後の状況が全く記録されない。きちんとした記録をとって一人ひとりの身元を確認して、遺骨を返すべきだ。
戦争遺跡の大きな特徴の一つは、意図的・組織的な破壊。その代表例は、中国東北部(旧満洲)の七三一部隊跡。それから、証拠隠滅が徹底的に行われている。茨城県神栖や中国東北部のチチハルなど遺棄毒ガスの現場は、証拠隠滅が徹底的に行われた。
戦争遺跡の種類は、政治行政関係、軍事防衛関係、生産関係、戦闘地戦場関係、居住地関係、埋葬関係、交通関係、その他と分類する。例えば、陸軍軍医学校跡も、もし分けるとすれば政治行政関係という感じはする。戦争にかかわったすべての遺跡が網羅される。
大竹 一郎
9月26日、皇居、大手門からフィールドワーク開始。参加者は20人。江戸時代の建物は門と番所ぐらい。天守閣は、明暦の大火で焼けて基礎のみ。あとは城の石垣である。江戸城本丸跡の公園近くに「此処に松の廊下ありき」という案内板。江戸城の通用門であった平川門の隣に不浄門がある。浅野内匠頭はこの門から外へ出された。他には江島生島事件の大奥女中・江島も。糞尿はこの門から外へ出されていた。
『昭和20年8月15日午前零時半、徹底抗戦を叫ぶ陸軍省軍事課員の井田正孝中佐と同軍務課員の椎崎二郎中佐が師団長室へ押しかけ、近衛第一師団長、森赳中将を銃殺し、同席していた中将の義弟、白石道教中佐を斬殺した』(講座日本の近代「逆説の軍隊」)現場、旧近衛師団司令部見学。師団長室を見たかった。
最後は、九段会館(旧軍人会館)の碑文と西南戦争で使用された砲であった。
第三回「秋山好古が学んだ陸軍士官学校」
ガイド:長谷川 順一 さん
11月21日(日)12時45分~集合 JR市谷駅改札口
撮影:川村
2010.10.24
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