軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

「戦争遺跡の発掘」菊池 実(群馬県埋蔵文化財調査事業団・主席専門員)

人骨発見21周年集会
「専門家にきく!軍医学校跡地の発掘調査でなにがわかるか」

 群馬県埋蔵文化財調査事業団の菊池と申します。今日は私の研究テーマである戦争遺跡からお話をさせていただきます。前半を、戦争遺跡とはどういうものか、どのような遺跡が存在して、またどのような遺構があって、その特徴はどういうものかを後半は具体的な発掘調査を、戦争遺跡が発見された場合にはどのような調査を、どのような段取りで進めて行くのかということでお話をいたします。

 私が戦争遺跡の調査を始めたのは1993年からです。国内で調査を始めたのではなくて中国の東北部(旧満州国)所在の関東軍要塞の調査を、ハルビンの東北烈士紀念館、黒竜江省革命博物館、それから文物管理所と共同で調査を進めたのがきっかけでした。ではこれまで国内では戦争に関連した遺跡の考古学的調査はどうだったのか、実はほとんどそういう調査は行われていませんでした。考古学研究者からは何をやっているんだ、そんな新しい時代の事をやって意味があるのか、そういう風なことを盛んに言われました。ところが95年、戦後50年の時に大きな変化がありました。それは広島の原爆ドームについてです。3月に文化庁の特別史跡名勝天然記念物、及び史跡名勝天然記念物指定基準の一部が改正されました。それから6月、国は原爆ドームを文化財保護法の史跡に指定し、9月、世界遺産に政府推薦されました。96年12月、世界遺産一覧表に記載されて広島原爆ドームは世界遺産になりました。政府推薦された理由は「人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を伝え、時代を超えて核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の記念碑」という理由です。ただし、原爆ドームが保存されて世界遺産になるまでの経緯というのは実に30年に渡る取り組みがありました。1964年に広島の平和団体や被爆者団体などが原爆ドームの保存を広島市長に要請しています。市長がドームの保存を決意したのが翌年です。そして市議会が原爆ドーム保存を決議したのが1966年のことです。このように30年間の取組がありましたが、その間、被爆を伝える建物がどんどん消えて行きました。95年にはもう一つの原爆の被災地であった長崎でも浦上刑務所支所の保存問題がありました。

 それでは、広島原爆ドームに代表される近代の戦争遺跡とはどういうものか。まず一つはその時代的な範囲です。幕末開国頃から第二次世界大戦、アジア太平洋戦争の終結頃までをその時代の範囲と考えます。1868年の戊辰戦争から1877(明治10)年の西南戦争に至る間を除くと他国の領土での戦争であったという大きな特徴があります。戊辰戦争から西南戦争までは国内の戦争でした。それ以後は朝鮮半島、中国大陸、東南アジア、それから南太平洋地域にわたる戦争でした。国内を見ると、1944(昭和19)年6月にB29による日本本土初空襲がありました。それまでは銃後と呼ばれていた国内でしたが、このB29による本格的な空襲(1942年のドーリットル空襲を除いて)以後は、国内も戦場となりました。このように調査・研究の対象地域はアジア太平洋全域に及ぶということです。日本国内のことだけを考えてはいけない。国内の事だけでは近代の戦争遺跡を考えることはできないということになります。

 それでは、その戦争遺跡はどのような資料として残されているか、現状見られるかということです。まず大きな特徴としては非埋没資料と埋没資料に分かれます。この非埋没資料というのは地上に残っている資料です。例えば木造だとか、鉄筋コンクリ―ト造り等の建造物や構造物が挙げられます。その構造物の一つで、今注目されているものに、掩体壕と呼ばれる飛行機を格納した秘匿した施設があります。これは国内でもかなり残存しているということがわかってきました。それから土塁などの土木構築物が挙げられます。それから埋没資料とは、これは地中や水中に残こされている資料になります。これが考古学的な遺跡となります。遺跡が形成された大きな特徴としては、まず戦災による消滅が国内外にあります。さらに敗戦時における意図的な破壊が行われています。それから関連資料の焼却、地中や水中への処分が行われて証拠隠滅が徹底的に行われています。1945年(昭和20年)8月15日の敗戦を期して日本陸海軍・政府を含めて徹底的な証拠隠滅が行われています。このために戦争遺跡の調査を考えた場合に、この限られた時期の遺跡の調査・研究というのは非常に重要になってくるものと思います。証拠隠滅がどのようなに行われたのか、といった事実を明らかにすること、それを遺跡からどう読み取るのか、これが戦争遺跡研究の一番最後の段階となり重要視されるのではという思いでいます。

 それで実際に遺跡から情報をどのように引き出すのか、遺跡にはどのような情報が残されているのか、ということを考えてみます。遺跡にはかつてその場所で展開された歴史の営みが土地に刻みこまれた様々な遺構として残っています。そこで使われたさまざまな遺物が廃棄され、または何かの事情で使用が中止された状態で埋没しています。これらの遺構や遺物はかつて有機的に関連を持って機能していた時の相互の関係を化石の様に地下に固定させています。それから埋没している遺構・遺物は多くの場合、同時性を意味する平面的な関係とともに時間的な前後関係を意味する層位的な上下関係を有しています。遺跡から得られる情報は、調査技術と問題遺跡の絶えまない発展によって質量とも限りなく豊かになっていきます。

 そこで私が今まで取り組んできた遺跡について少しお話します。これは韓国の済州島に残る戦争遺跡です。私は93年から2004年まで中国東北部の調査を継続してきました。その後、韓国・済州大学校の先生から、済州島には日本軍の遺跡がいっぱい残されている、これについて共同で調査できないだろうかという相談を受けました。そこで05年から済州島に残る戦争遺跡の調査を始めました。様々な遺構が残っていました。左下が掩体壕です。飛行機の秘匿施設になります。コンクリート製で非常に頑丈に造られている施設なので壊すことができない、地元の農家の方々も本当は壊したいんだけれども壊せないということで今日まで残っています。国内では茨城県の神之池(ごうのいけ)海軍航空隊跡にコンクリート製掩体が残っています。右上は、済州島に残る特攻基地です。「回天」の特攻基地ですが、こういったものも残っています。国内でも「回天」や「震洋」の特攻基地跡は、まだ残っています。

 それでは埋没資料、地中や水中に埋没した資料にはどのようなものが残っているか。左が海没した零戦、これはニューギニアで見つかったものです。水中には沖縄近海も含めて、実は日米両軍の艦船や戦闘機などがかなり海没しています。こういった調査をするには、考古学のなかでも水中考古学という研究分野がありますが、そういった調査の対応は可能かと思います。それから右側の資料、これは先月沖縄に行ってきましたが、西原町で見つかった日本軍陣地壕の中から発見された人骨です。この上の写真に4体の人骨が写っています。1945年5月の段階で西原町が日米の激戦場となった時に、日本軍陣地壕が多数造られていました。今年に入って見つかった4ヵ所の陣地壕のうちの一つから、埋没していた土砂を取り除いたところ4体の並べられた人骨が見つかりました。調査担当(ボランティア活動で調査)の方からお話を伺いましたら、人骨の出土状況や残された状況を見ると、おそらく負傷した将兵が戦友に運ばれて壕の中に収容され、そのまま亡くなったのではないか、というようなことでした。この4体の人骨の少し離れた場所からもう1体の人骨が見つかりました。異様な雰囲気の人骨でした。頭骨がなくて手足の骨が散乱しています。それから肋骨が部分的に残っています。そしてその周りから日本軍の擲弾筒の破片が出てきたというんですね。これはどういうことなのかというと、陣地に残されたたった一人の兵隊がもはやこれまでと思い自爆した跡だということが分ってきました。実は沖縄ではこういった戦争遺跡はまだかなりあります。昨年から那覇市の真嘉比という所で、これもボランティア活動で遺骨収集が行われています。その過程で172体に上る日本軍兵士の遺骨が収集されましたが、調査はボランティアのために、細かい記録類作成というのが難しい、予算的にも難しいということです。それでも人骨出土の写真や地点の記録をとって何とか遺骨を遺族の元に帰したいと、収集が行われています。人骨の周辺からは所持品、例えば印鑑とか名前の記されたものなどが出てきています。それを厚労省に調べてほしいと遺族の方に返したいとおっしゃっていますが、スムーズに進まないという現状だそうです。沖縄では今後も人骨が検出されるでしょう。それから、つい最近では硫黄島の遺骨収集という話が新聞紙上に出ました。従来の厚労省の遺骨収集の方法は、過去において沖縄でもそうだったのですが、ガマなり洞窟なりを重機で掘って、ただ骨だけを集めてくる。そういった方法では一人ひとりの亡くなった最後の状況が全く記録されない。骨だけ集めてくればいいような、これまでの日本の遺骨収集というのはそういったことが行われてきましたが、そうではなくてきちんとした記録をとって一人ひとりの身元を確認して、遺骨を返すべきだろうということを先月沖縄に行って改めて実感しました。

 それから、戦争遺跡の大きな特徴の一つ、意図的な破壊、組織的に破壊されていることについてです。その代表例は、皆さんもよくご存じの中国東北部(旧満洲)の七三一部隊跡。そういった所に代表されます。国内でも一部にそういう破壊が行われていますが、大々的には国外における日本の施設関係が破壊の対象になってきています。

 それから、これは意図的な破壊と密接に結びつきますが証拠隠滅ですね、証拠隠滅が徹底的に行われています。2003年に問題が浮上した茨城県神栖の毒ガス問題、同年に中国東北部のチチハルで発生した毒ガス事件。いずれも関心がありましたので、現地に出掛けて行きまして現場を確認にしてきました。証拠隠滅が徹底的に行われたということが大きな特徴です。

 このような特徴を持つ戦争遺跡ですが、どのような種類があるのか、これは大雑把な分類ですが8つに括っています。政治行政関係、軍事防衛関係、生産関係、戦闘地戦場関係、居住地関係、埋葬関係、交通関係、その他ということです。これあくまで便宜的なもので、あらゆる遺跡が含まれるということを考えていいと思います。例えば、陸軍軍医学校跡も、もし分けるとすれば政治行政関係の中に入ってくるのかなあという感じはしますが、戦争にかかわったすべての遺跡が網羅されるということです。こちらの遺跡は、名古屋城の三の丸遺跡で発見された戦争遺跡、特に防空壕が多かったです。

それから遺跡からどのような遺物が発見されるのか、これも大きく6種類に分けてみました。兵器類、軍用品、日用品、建築資材、工具、電気器具などですが、戦争に関連するものですから、兵器類というのはごく一般的に出てきます。例えば銃砲や手榴弾、鉄兜などです。軍用品としたものに、例えば書類関係などもこの中に入れていいと思います。日用品関係では兵隊が日常使っていたもの、歯ブラシなど、実際遺跡から発見されています。こちらの写真は勤労奉公隊銘食器です。中国黒竜江省の綏芬河という所で、綏芬河要塞の調査を、綏芬河市、綏芬河の博物館、文物管理所と共同で調査しましたが、その要塞跡から採集された食器です。要塞跡からは人骨も発見されています。

 それでは、実際に調査を始める場合の段取りです。どのように調査を始めるのか。まず、調査の目的、遺跡の考古学的な解釈や地域の歴史的研究課題にもとづき、何らかの学問的課題を解くことを目標とします。日本の発掘調査というのは、基本的には学術調査と緊急調査(事前調査)と、二つに分かれますが、遺跡発掘調査件数の96%は、緊急調査です。土木工事に伴う、壊される遺跡の調査が主体になります。ですから学術調査というのはほとんど行われていない。各大学の考古学研究室が何々時代の何々を研究したいからということで調査するのがごくわずかに行われるだけで、ほとんどは土木工事に伴う調査です。私が所属する群馬県埋蔵文化財調査事業団は国の公共事業、例えば新幹線や高速道路など県の行う事業のほとんどは道路関係です。あと問題になっているのは八ッ場ダムがあります。そういったことで、開発に伴う調査が主体であるということです。しかし、開発に伴う調査であっても、そこには学術的な調査目的がきちんと設定されなければいけないと考えております。そこで一つ大きな問題となっているのが遺跡の時代範囲の取り扱いです。私が戦争遺跡の調査をはじめた90年代頃には、研究仲間から何でそんなに新しい時代のことをやっているんだとよく言われました。元々縄文時代の研究をやっていましたから、縄文時代の甕棺の研究、埋葬関係の研究をやっておりましたので、そこから一気に近代に飛んでしまったものですから皆さんに非常に不思議がられました。その後も調査・研究の蓄積を積んできて、それがやっと関心をもたれてきて、マスコミなども取り上げるようになりました。新聞でも最近はよく「戦争遺跡」という用語も頻繁に出てくるようになりました。そういった意味では10数年来取り組んできた事が報われつつあるかなあと思います。ところが文化庁は1998年に「埋蔵文化財の保護と発掘調査の円滑化等について」という通知を出しました。埋蔵文化財として扱う遺跡の時代範囲を全国原則として中世までとする。近世は地域にとって必要なもの、近・現代遺跡は地域にとって特に重要なものを対象とすることができるとしました。これは調査の対象とする時代を、私が学生時代の頃は、だいたい平安時代ぐらいまでがその研究対象でしたが、旧石器時代から平安時代まで。その後、研究が進んできて、中世になって、特に江戸遺跡が注目されてきて近世の遺跡の考古学研究が盛んになって来ました。そうやって考古学研究の時代が拡大されてきましたが、それに伴って開発側との摩擦が頻繁に起こってきました。新しい時代までを調査の対象とすると開発に伴う工事が遅れてしまう。それから調査費用がかかる。そこで文化庁は足枷をはめてきたんです。要するに中世までをきちっと調査すれば、基本的にはクリアされる、行政側の調査としては。だから遺跡に近世や近代の遺跡があってもその地域にとって重要でなければ調査しなくてもいいんだという切り捨てを行ってきました。95年に原爆ドームを文化庁は政府推薦して世界遺産にしながらも、一方では埋蔵文化財についてはこういった足枷をはめてきたんです。これにつきましては地域の近現代史や日本の近現代史を理解するためには欠くことのできない遺跡だという認識が非常に重要だと思います。そういう認識を持って調査に当たるということが重要です。ただ残念ながら日本全国の埋蔵文化財を扱っている、私が所属するような埋蔵文化財調査センターなりそれから教育委員会ですね、そこの担当者というのが、残念ながら全員がこれを共通認識として持っていないということがあります。圧倒的に多くは、新しいところはいいや、撹乱として処理してしまえ、ということで切り捨ててしまっているのが現状です。

 次に調査計画です。発掘調査の全工程の見通しと期間、遺物の整理研究と成果の公表の見通し、調査経費の確保、予算の設定などがあります。想定されるどのような時代の遺跡であって、調査面積がどれぐらいになれば実際どのくらいの期間が必要で、調査を終わっても次の整理作業の期間、それから報告書を出す、そういったものを見通す全体的な計画が必要になって来ます。調査の期間や予算については、遺跡の性格や時期によって大きな差があることは事実です。旧石器時代の調査、縄文時代の調査、それと江戸時代の遺跡の調査、そういったものはやはり違ってくるということです。これにつきましてはかなり経験がものをいう部分があります。最近はマニュアル化されていて、面積や想定される遺構量から調査期間がどのくらいで、それにかかる経費がどのくらいということでマニュアル化されています。それから調査の過程で現地説明会の開催やマスコミへの発表は必要になってきます。私が今の職場に入った頃は、埋蔵文化財の重要性を知ってもらいたいということで盛んに現地説明会を行ってきました。調査も長期におよべば何回も行ったりして、その都度新聞を発表して見てもらうということを行ってきましたが、最近は予算も厳しく制限されていて、現地説明会を行うこと自体も非常に難しくなっている状況でする。

 最後に記録や出土遺物の整理作業、報告書の刊行があります。報告書が刊行されなければ調査は未完だということです。県や市町村の中には報告書を刊行していないというのは結構あります。調査だけは何とか費用が出てもその後の手当をしてこないというのは結構あるんです。そのために10年、20年経っても遺跡の報告書が出ないで遺物は野ざらしになっているというのがありました。だからこうした状態にならないように注意しなければならない。そこまで予算の中にきちっと見られているのかということが重要になってくると思います。

 それから調査をする体制の問題です。「調査体制と調査範囲」ということで挙げましたが、日本で行われている圧倒的多数の緊急調査は教育委員会、埋蔵文化財調査センター、それから民間調査組織を中心に編成されます。調査には考古学の専門知識と調査技術を持つ担当者、それから調査代理人、調査補助員、作業員、測量の専門業者など遺跡の規模にもよりますが、数名から数十名で調査を行います。私が今まで関わってきた調査では国の関連事業や県の大きな事業だったものですから、遺跡の面積が大きかったとこともあり、多い時は百数十名ぐらいの作業員さんを使っていました。昨年度まで発掘調査をしていましたが、この時は60名ぐらいの作業員さんでした。最近は調査担当者が作業員さんに直接指示をして遺跡の調査をするという体制ではなくなり、民間の調査組織を介在させてそこに作業員さんを管理してもらい、私たちは調査代理人に指示をして調査する、そういう流れになってきました。それでもそれぞれの土地によって遺跡の状況は違いますので、その地域に精通した担当者が隅々まで見ていかないと良い調査は出来ない、記録作成上不備な調査になってしまうことはあると思います。そして緊急調査の場合は、工事の対象となる遺跡を全面発掘するということはまず大前提です。一部の部分的な発掘だとかそういうことはあり得ません。すべてを調査するということになります。調査に当たっては国家座標や土地の区画にそった発掘区の設定をし、きちんとした記録を残せるように、将来にわたって記録を残せるような段取りを行います。

 次に「調査の方法」です。まず試掘調査というのがあります。これは遺跡があるかないかどうかを確認するために行います。細長いトレンチを掘って土の堆積状態やどのような遺物が検出できるのかを確認します。どのくらいの深さで遺構は確認できるのか、地表面から数十センチである時代の遺跡は確認できる、あるいは1メーター数十センチ下げないとある時代の遺跡は確認できない、そういうことの判断をする為の試掘調査を行います。試掘面積は調査目的によっても異なりますが、だいたい5から10%を目途としています。ただし、5%では遺構確認の確率は非常に悪くなります。特に旧石器時代の試掘調査では20%や30%ぐらいまでいれないと遺跡に当たらないという事があります。私たちが調査しているところでは、地表面から数十センチぐらい下げて遺構が確認できますが、それでも数%程度の試掘では難しいです。私がかかわった遺跡の一例です。教育委員会の試掘の結果、住居跡が30軒ほどであろうとデータを出してそれに基づいた計画が出されましたが、実際に調査を始めたら200軒、数倍に及ぶ住居跡が出てきました。そのために調査期間の見直しや予算の見直しが行われました。そういうことがありますので遺跡のどこに試掘を設定するか、何カ所設定するか、その事によって目的とする遺跡、遺構が検出できるのかどうか、非常に重要だと思います。今回の問題では、この試掘調査の如何というのが重要視されなければならないと思います。試掘調査の結果、目的とする遺跡の存在が明らかになれば、表土を剥ぎます。開発に伴う場合には全面を掘削する。この場合、バックホーという大型機械を使っています。ここで一つ注意しなければならないのは、調査を担当する人の意識にもよりますが、新しい時代の遺構は従来「撹乱」と称して調査対象外とされてきました。バックホーによって一気に破壊してきた。そこから様々な情報が得られる時代のものについても、新しいということだけで撹乱と称して破壊してきたことがありました。今までの開発に伴う調査では圧倒的多くはこういう状態でした。次に目的とする遺構が確認出来たら人力によってジュレンという発掘機材を使って遺構を検出していく。よく古い時代の住居跡やお墓だとか分るのかと聞かれますが、土の色の変化、固さの変化、人為的に掘られたものなのか、あるいは自然の作用によってなのかというのを判断して行きます。これについては相当な経験が必要とされます。初めての人はジョレンで掻いて遺構を確認できるかというと全くそういうことはできません。相当経験を積んでこなければ確認はできません。だからここで遺構が検出できるかどうかの、一つの山があると思います。遺構が検出できて、実際に掘って行くということになった場合は、その遺構がどういった埋没状態であったのか、どういった状態で埋もれていったのかを確認するためにまずセクションベルトというのを設定します。それは例えば大きなものであれば十字に設定をする。小さなものであれば一方だけベルトを設定して、ベルトを残して両脇を掘り下げていくということになります。遺構の規模にもよりますが、小規模なものであれば移植ゴテというもので発掘をします。発掘現場をご覧になった方も多いと思いますが、移植ゴテで少しずつ掘っていく作業です。ただし規模の大きなものはどうするのか、埋土上部の土はスコップで掘って行く。徐々に掘り下げていった方がよいのではないかと思います。ここでまた重機を入れるかどうかの問題もあります。場合によっては水道屋さんが水道管を埋設するために掘る小さな重機がありまね。それを使って埋もれた土を掘削する場合もあります。そのためには、もう一度その遺構がどのくらいの深さがあるのか、数十センチなのか、或いは1メーター以上もあるのか、事前に確認するためにもスコップや移植ゴテを使って細心の注意を払って掘り進めるということが重要ではないかと思います。

 掘り下げて行くと、いろいろなものが出てくると思います。それらのものは可能な限りその場所に残しておくということが大切です。遺物の現位置は非常に重要です。ここから様々な情報を得ることが出来ます。ただし非常に微細なものは残していくと全体の発掘が出来なくなる場合には取り上げることはありますが、大きな遺物や特徴的なものは可能な限り残すようにして掘り下げる。それから土層断面の確認です。遺構が自然に埋もれたのか、人為的に埋没しているのか、どのような過程を経て埋没していったのかを観察し、記録するということも重要です。これは土層の断面を詳細に観察して記録します。まず土の色調、硬いか軟らかいか、土の中に含まれる粒子、例えば住居跡などであれば焼土だとか、ローム粒子だとか、或いは群馬ではよくありますが火山灰などが含まれているのか、判断していきます。これについても遺構を検出する以上に相当な経験がものをいいます。土の堆積を細かく分けて、それぞれの土の堆積状態、土の状態をきちんと記録にとる、これはやはり経験がものをいってしまいます。ただし人為的に埋もれている場合、人間が一気に或いは機械か何かを使って埋めた場合には土の堆積状態は非常に単純になりますので、これの識別は比較的簡単にできるものと思います。調査を進めていって遺物はいろいろ出てくる。当然写真記録をとります。遺物出土状況の写真、完掘した状態の写真、これは記録写真としては非常に重要です。もう一つ重要な記録の作成としては、平面図、断面図、遺物の出土状況図の作成があります。どのような平面的な分布をしているのか、それから遺物の上下関係、これを記録します。要するにものの細かな出土状況を観察する、記録をとるということが重要です。ここでもし仮に図面を作成していないということになればこれは完全に調査の失敗になります。誰も後に検証できないからです。ものがどこからどういう状態で出土したのか、これと共伴する遺物はどうなのか、そういうことの記録をとっておかなければ、調査をしたことにはならない、というよりも遺跡を完全に壊してしまった、完全な失敗調査になります。

 次に「想定される遺構」ということで考えてみました。名称を付けるとしたら「廃棄土坑」になると思います。調査の現場では、土坑というのは一般的に検出される遺構です。お墓だとか様々なものがあります。ここでは人骨などを廃棄している可能性があることから「廃棄土坑」という名称を付けたらいいと思います。冒頭、川村さんから森村誠一の本ですとか、赤旗の新聞記事が紹介されました。1982年の森村さんの本に15メーター四方で深さ10メーター、それから赤旗の新聞記事では縦7メーター深さ2メーターという、元軍属の方ですか、実際に廃棄に関わった方の証言がありました。この規模を見たときにあくまで個人的な感想ですが、15メーター四方で深さ10メーターということになると、関東ローム層を相当に掘り下げることになります。これの掘削は、重機を用いないで人的でやると相当困難な作業になります。1945年8月の敗戦時、日本軍は組織的な証拠隠滅を徹底して行いました。今回想定される遺構もまさに証拠隠滅の最たるものだと思いますが、8月15日という切羽詰まった状況下、時間的な余裕がない中で、相当な人手を使って行ったとしても、これだけの規模の掘削を行えるものなのか、ちょっと疑問です。かなり難しいのではないかと思います。8月末の段階でマッカーサーは厚木に到着しています。群馬県に米軍が進駐してきたのが9月4日です。そういう状況下で証拠隠滅を図る、それを組織的にやったとしても相当無理があるのではないか。短期間でやらなければならないのは鉄則だと思いますが、その中でこれだけの規模のものを掘り上げるというのは、どうなのかなあ、それだけの時間的余裕はおそらく与えられていなかっただろう。そうなると、縦7メーターというのはおそらく長さが7メーターということでしょう、深さ2メーターという、これぐらいの規模であれば可能であろうと思います。実際に掘って見て15メーター四方で深さ10メーターということになったら、それはそれで組織的に徹底してやったということがかえってわかりますが、想定ではその半分ぐらい、深さ2メートルぐらいではないでしょうか。ローム層はソフトローム層とハードローム層とに分れていますが、ローム層をスコップを使って掘り下げるというのは容易ではないです。これは大変な作業です。

 それから次に「想定される出土遺物」です。これについても最初に紹介されましたが、人体標本ですね。先ほど楢崎さんから人骨についての取り扱い方の紹介がありました。実は我々も考古学の専門家として古墳だとか中世の火葬墓だとか、これまで人骨の出土した遺跡をたくさん調査してきましたが、人骨に対してはなかなかそこまで目を向けられなくて、先ほどお話を聞いていて、調査の過程で取り扱い方に失敗してしまった事例が多いなあ、というのが改めて感じたん次第です。だからこそ人類学の専門家によるきちんとした観察、図面の作成の指導、それから取り上げに当たっての諸注意というのが非常に重要視されます。また考古学の立場から重要なのは、共伴遺物の観察と記録化ということになります。一つはガラス容器が当然に出てくると思います。これは容器の特徴、陽刻の有無、制作年代の検討が必要です。出土状態をきちんと記録をとって、というのが大前提になります。この陽刻の有無というのは、例えばビール瓶などには会社名が陽刻されています。また医療品容器などにも製作した会社のロゴマークなどがあると思います。そういったものを確認していくということで制作年代なども検討できます。近現代の考古学研究ではガラス容器も比較的研究されてきています。それから医療器具、一点一点の器具の用途を確認します。これについても出土状態を記録にとって、その上での確認ということになります。それから書類です。証拠隠滅に伴って書類は相当量が廃棄されています。そういうものが発掘されることがこれまでたびたびありました。一つは東京都埋文センターが調査した、市ヶ谷の防衛庁のところです。尾張藩の上屋敷遺跡の調査をしたときに、そこにはかつて参謀本部があった、その場所から簡易防空壕が発見され、参謀本部第三課・編成動員課が焼却した書類が発掘されました。陸軍文書で333冊ほどだったということです。これについては都の埋蔵文化財センターは埋蔵文化財の取り扱いをしませんでしたが、この時代を特徴づける代表的な遺物であると私は考えています。その後防衛省が東京都から移管を受けて、重要な書類を確認しながら保存処理をして、現在防衛研究所図書館で市ヶ谷台資料として公開されています。その資料というのは、1943年から45年にわたる時期の資料で、今までほとんど確認できていなかった資料がかなり多いということがわかってきました。こういった事例は東京都だけではなくて、群馬県の高崎歩兵第一五連隊跡の発掘調査でも、焼却処理された文書が見つかっています。焼却されたのになぜ残るのかということですが、分厚いんですね書類は。燃やしたと思っても周りだけが燃えて中身がそのまま残ってしまう。これは電話帳などを燃やしてみれば分かりますが、本当に周りだけがちょっと火がついてすぐ消えてしまう、中身は燃えずに残っています。それが何十冊、何百冊もあるんですから、さらに8月15日というどさくさの中で処分するわけですから、完全に燃していないんです。火を付けてすぐに土をかけて埋めている。そのために文書が残っている。こういったことはいろんな所で出てきています。たとえば中国黒竜江省の虎林市という所、ロシアとの国境地帯に関東軍の要塞があります。ここを発掘したときも守備隊の文書が出てきているんです。その一部は現在同地の博物館に展示・公開されています。書類というもかなり残っている可能性が高いということですね。

 最後に、調査をして様々な記録を作成した、それからどうしていくのかということです。それは出土遺物の洗浄・注記・接合・復元、それから遺物の実測・図化・写真撮影。遺構の図面修正・トレース。撮影した写真の整理。事実記載の原稿執筆と科学分析、考察。そして報告書を刊行する。私たちは開発に伴う調査を主体に行っていますが、例えば一年間遺跡を調査するとだいたい整理期間は一年から二年かかります。もちろん遺跡によって様々ですが。ですから発掘調査と同等の期間を最低限確保しておかなければ、整理作業から報告書の刊行までを行えないということになります。報告書の刊行をもって調査は完了ということになります。ここまで出来なければ、調査は未完であり、これが永遠に出なければ完全に調査は失敗。誰も検証できないということになってしまいます。今回は、厚労省のどういう部署が、どういう方が担当として実際の調査を進められるのか、大変に関心もありますが、これまでお話したことが基本的に出来なければ調査の担当にはなれないということは、考古学の立場から言わせていただきたいと思います。これで私のお話を終わらせていただきます。

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2010.7.18

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