軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』108号・要約

七三一部隊犠牲者遺族:王亦兵さん
スーパーインポーズ法による人骨の身元確認を求める申立て

文責:根岸 恵子

 12月15日、人骨の会は納骨施設に安置されている人骨に対して、スーパーインポーズ法による身元判明を求めた王亦兵さんからの申立書を政府に提出。金田誠一衆議院議員立ち合いのもと、内閣総理大臣、外務大臣、厚生労働大臣に対して手渡された。王亦兵さんの申立書と共に、写真が存在する6名の七三一部隊被害者の本人確認を求めた要請も共に行った。
 外務省は、アジア大洋州局中国課の岡田誠司首席事務官、川合淳外務事務官が出席。厚生労働省については、大臣官房厚生科学課 鹿沼均課長補佐、坂本浩亨課長補佐。この後記者会見を行った。

申立書を渡す究明する会の渡辺さん
記者会見に臨む究明する会メンバーと金田誠一議員(左から3人目)
ジャパンタイムズ記事

THE JAPAN TIMES (ジャパンタイムズ) 2004年12月16日(木)

人骨発見15周年:その2

人骨(ほね)と歩んだ15年

  • 川村 ――
    •  元七三一部隊員の篠塚良雄さんは今日こられないので、軍医学校で発見された人骨はどういうものかについて、常石代表から説明する。
  • 常石 ――
    •  篠塚さんは七三一部隊で蚤を増やす仕事をやっていた。陸軍軍医学校で七三一部隊のために三種類の蚤分離機が作られていた。それは「陸軍軍医学校防疫研究報告第二部」に書かれている。
       この「陸軍軍医学校防疫研究報告第二部」の一部は1987年の末ぐらいに児童文学作家の山中恒さんが入手し僕が分析して、七三一部隊というのは出先の一機関に過ぎない、本部は陸軍軍医学校の防疫研究室にあるということが分かり、1988年に発表した。
       それから一年経ってこの骨は出てきた。湯浅謙さんの「消せない記憶―湯浅軍医生体解剖の記録」という本を読むと、人体実験は七三一部隊以外の普通の戦闘部隊でも行われていた。だから軍医学校跡地で発見された骨は、七三一部隊からのものとは限らない。
  • 川村 ――
    •  人骨が発見されて、私たちが知ったのは7月25日の新聞報道。その後、牛込警察は自分たちの扱う骨ではないということで、新宿区が引き取ることになりました。当時の広報課長に話を聞くと、「眉間に穴の開いた人骨が出てきた。マスコミから見せてくれと大変だった」そうだ。それを知っていたからこそ、建設省や厚生省は新宿区にこの骨を預けて、知らない間に火葬・埋葬させようと思ったのではないかと、私は推測する。
       新宿区は7月31日になって、埋火葬の方法について厚生省にも問い合わせている。文書で2回出しても、返ってくる答えは早く火葬・埋葬してほしいということ。8月10日になって新宿区は、人骨の調査を国立科学博物館等に委託をする、調査結果は公表する、ということを決定する。
       その後、住民や市民グループから人骨の保存、真相究明を求める請願や陳情が出され、新宿区議会は9月の定例会でそれらを採択、新宿区長が新宿区で鑑定をするという経過を辿っていく。それらの陳情を出された皆さんがいる。その代表として越田さんにご報告を。
  • 越田 ――
    •  骨が発見されたのが1989年7月。僕はアジア民衆法廷準備会のメンバーで、過去の日本の戦争犯罪等々について究明するグループの一人だった。静岡の森さんから促され、新宿区議をされていた川村さんに、四谷の内田雅敏さんの弁護士事務所に来ていただき事情を聞いた。骨が発見されたそばに住んでいる渡辺さんたちもやはり究明・陳情を行い、それぞれ新宿区役所の厚生部福祉課に何度か陳情にかよった。
       1990年、当時アジア民衆法廷準備会の同じ共同代表だった高橋武智さんの紹介で常石先生と会った。
       七三一部隊の被害者にも会いたいということで、まず渡辺さんと事故で亡くなった見津君が予備調査に91年6月に出かけ、初めて七三一部隊被害者遺族といわれる人に会った。そして本格的な調査は8月、20名弱の調査団を組み、私がその団長を努めた。これはいろいろな意味で収穫があった。初めて遺族の方々にも会い、骨と、我々が七三一部隊について勉強してきたことがだんだんくっついてきて非常に立体的になった気がした。
       そして、ドキュメンタリー作家の近藤昭二さん、プロデューサーの小林佐智子さん等とハルビンのレストランで犠牲者遺族の思いに答える方法はないかと相談し、日弁連人権擁護委員会に申し立てることになり、さっそく東京に戻ってから渡辺さんらと弁護士に会いに行き、当時古臭い日弁連の建物で話した。それがやがて七三一の訴訟にもつながる。
       それから、その時盧溝橋のそばの抗日戦争記念館で七三一部隊展を開催していた。館長から日本でも七三一部隊展をやらないかと言われた。東京に帰ってきてから渡辺さんたちとも相談して、93年7月、やっと日本でも七三一部隊展を開くことになり、その時展示については常石先生からもたくさんの資料をいただき、僕も模型とか展示品の係りになった。我々科学するものの戒めとして、わかっている範囲で展示することを心がけた。部隊展は少なくとも30万人ほどの人たちに見てもらったし、元部隊にいて良心の呵責をもっている人たちと出会うことができた。
       今、20才前後の学生相手の仕事をしているが、若い人たちにも継承していかなければいけないと思うし、単に事実を伝えるだけではなく、国家の大義名分のために犠牲になった人たちのことを伝えながら、そういうものに常に疑問符をつけていかなければいけないのではないかということと、科学というものは我々のために本当になっているのか、あるいはなっていない科学をどう区別するかということを考えることが我々の現代的な意義ではないのかなと思う。
  • 川村 ――
    •  今のお話のように、91年6月に渡辺さん、見津さんが先遣隊として中国に行き、敬蘭芝さん他七三一部隊の犠牲者遺族の方と巡りあった。そして91年8月に私を含めて大勢の人がハルビンに行ったが、その一人の小林さんは疾走プロダクションで番組を作った。今日はそのビデオを見たい。
  • 小林 ――
    •  こんにちは。私は20年近くドキュメンタリー映画を作ってきて、新宿区民で最初からこの会に入っていたということもあって、番組を作らないかという話があり、訪中団に参加した。近藤昭二さんの紹介でTBSテレビのブロードキャスターという番組で企画が通り、費用を出していただいた。私も初めて現地に行き、遺族と思われる方々に初めてお会いしたが、本当に優しい方だった。敬蘭芝さんというが、牡丹江という小さな町に夜行列車で行ったときに、満員の列車の中でずっと私は小さいので抱っこしてくださって、本当に有難かった。そんなことがあって帰ってきてすぐに編集し、徹夜徹夜で3週間くらいで放送日ぎりぎりに仕上がったのだが、裏番組を抜いてものすごく視聴率が良く、局の人から礼を言われた。
       日本の中で、初めて中国の(七三一部隊の)犠牲者の遺族の人たちに取材をさせてもらえた作品。

《ビデオ上映》

  • 川村 ――
    •  敬蘭芝さんの申立を持ち帰り、日弁連人権擁護委員会、政府、新宿区に対して人骨問題の真相究明、身元の確認を要求した。そして、敬蘭芝さんはその後、自分の夫の被害について日本に謝罪を求める裁判をされた。今、ちょうど高等裁判所での結審が近づいている。ということで、日弁連人権擁護委員会の委員だった中野比登志弁護士にお出でいただいた。
  • 中野 ――
    •  私は日弁連の人権擁護委員会に92年4月に新任で入った。連休前に声がかかり、緊急な事件であるから早急に処理をしなさいという。予め梓沢弁護士が下調査をしておられたが、日弁連として正式に扱うようになったということで、梓沢さんを含め三人で取り組む事になり、4月28日に越田先生、渡辺さん、小林さんとお会いして急いでほしいといわれる。日弁連では一般的に2~3年かけて調査するが、それでは間に合わないということで、とりあえず国と区に対してそれぞれ現状維持をしろという要望書(実質的には命令書)をつくり、すぐ日弁連の機関に諮り、5月17日に、異例のスピードで執行。その時は全然中国のこと知らなかったし、七三一部隊のことも森村誠一先生の「悪魔の飽食」を読んだくらい。
       それから七三一の勉強を始め、まず被害者に対するシンパシーが必要なので、8月に森先生のスタディーツアーに参加してハルビンの七三一部隊を訪ね、帰ってから本を読み、近藤さんにお会いして話を聞き、私はいけなかったが田村さん(篠塚さん)のお宅にも行き、それからアメリカに行って聞き取りを行い、94年の夏くらいに書き上げ、12月に勧告書を出した。
       91年頃は弁護士会で戦後補償関係の訴訟はほとんどなかった。日弁連の中でこれを契機にして戦後補償をやろうという話になり、93年の京都大会で、人権擁護委員会の一年の最大の行事の中でこの問題を取り上げ、盛り上がったが、具体的な動きにはならなかった。その後どんどん訴訟が生まれ、今は50件か60件、勝ったり負けたりだが社会に対しては一つの運動として認知され、ある種の発展に寄与していると思う。
       私はこの申立をたまたま担当したことから、こういう訴訟のグループの中に入り、もちろん七三一もやっているし、毒ガス、慰安婦の裁判もやっている。社会的にも意義があったし、私にとっても非常に意義のある申立だった。ありがとうございます。
  • 川村 ――
    •  中国からの申立がこのように扱われる中で、新宿の人骨はずっと公営社という葬儀屋に安置されていた。新宿区は89年9月に人骨の鑑定をやるといったが、実際に鑑定が行われるまでにはいろいろな障害があった。92年4月になって札幌学院大学の佐倉さんの鑑定が公表され、相当の反響があった。常石さん、解説してください。
  • 常石 ――
    •  新宿区は、当時の厚生省に対して区長名で2回、区議会議長名で1回調査を要求するが、それに対して厚生省は「速やかに手厚く葬って」ほしいと答えている。そこで新宿区はきちんとした鑑定なしに火葬しないと約束をする。それで、佐倉さんの鑑定が91年秋くらいにこっそり依頼された。僕がそれを知ったのは三ヶ月くらい後。びっくりして、でもまあそういう方がきちっと鑑定するのだから、結果を受け入れるしかないと思った。新宿区は最初に佐倉さんに頼んで、それから慈恵医大、聖マリアンナ医大等に頼んでいるが、話は潰れている。これは多分当時の厚生省の圧力で潰れたと思っている。そういうことを踏まえて、新宿区はこっそり頼んでのっぴきならない状況になってから知らせたのかなあと思う。佐倉さんの鑑定が公表されたのは1992年4月だが、その一月くらい前に当時の厚生大臣山下徳夫さんは、この問題はうやむやにはできないという国会答弁をした。その時に、きっと佐倉さんの鑑定は相当厚生省に厳しいものになると予感した。
       佐倉さんの鑑定で非常に大きかったのは、日本人以外の骨がたくさん含まれているということをきちんと断定されていること。異常な骨だということは佐倉さんでなくてもすぐに分かる。佐倉さんは慎重な人だから「日本人による単一集団とはとても思えない」という言い方をしているが、それは日本人以外が多数という意味であり、もしかしたらほとんど全部が外国人、中国人、朝鮮人が圧倒的と考えた方がいいと思う。日本人が死者を弔うのに頭なしでずっと放置するということはあり得ない。首から下がない、それじゃ首から下だけでお葬式やるのか、これはどう考えてもおかしい。だから直感としては外国人のものであることは分かっていた。でも、具体的なきちんとした裏付けがほしい。それを佐倉鑑定が出した。
       最近、「骨の会」15年間活動していく中で、いかに政府という所はいい加減な所かというのがよく分かってきた。政府の仕事は、自分たちで勝手に法律を作って国会を通して、自分たちが働きやすいような法律の下で働いている、すごいお手盛り。それからすると新宿区や東京都は、いろいろな新知事さんになるからそれぞれで変わるが、まだ直接民主主義ができる場だと思う。数年前に国立感染症研究所の中に骨が安置されたが、そういうことなしに骨の問題がここまで来ることはなかったと思いながら、ここまでの経緯を注視している。本当にありがとうございます。
続:中央大学生フィールドワークの感想
納骨施設に献花をする
雨に濡れ地下道跡がくっきり

*陸軍軍医学校跡地とその周辺を巡って T.K(男)
*陸軍軍医学校跡地を歩いてみて N.R(男)
*人骨問題のフィールドワークをして T.M(女)
*陸軍軍医学校跡地とその周辺をめぐるフィールドワーク O.S(女)

2004年:第二回人骨問題研究会開催

「樺太先住民族と北大人骨問題」

文責:安松 狢

 2004年12月12日(日)、新宿消費生活センターに於いて、人骨問題研究会を開催。
 北大人骨問題について、ウィルタ協会会員で北海道立北海道文学館学芸員でもある青柳文吉さんに当時者かつ研究者の立場からのお話を伺った。参加者は約20名。北大人骨問題の背景にある少数民族問題に関して、内容の濃いお話を伺うことができた。

お話に熱の入る青柳文吉さん

2005.1.15

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