軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』105号・要約

人骨(ほね)が暴露した日本というシステム

軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・代表 常石敬一

 人骨が発見された89年、昭和天皇が亡くなり、戦争責任について議論しやすくなった。先日ペンシルバニア大学で行われた「医学の暴走」という国際会議で、同大学のF・R・ディクソンは、日本の七三一部隊研究の進展を三つの段階に分けた。第一は戦後5年のほどのハバロフスク裁判と日本共産党による暴露、第二は1980年代の実証的研究、第三は「事実が市民に普及した段階」で、その中身として七三一部隊展の全国巡回などをあげている。アメリカにおけるよりもはるかに活発な議論が日本にあった。

 1989年は自民党政権が揺れ、経済はバブルの真っ只中、社会では幼女連続殺人事件などがあった。海外では天安門事件や南アフリカの黒人差別撤廃、ベルリンの壁の崩壊などがあり、世界では人間の自由な意思を国家権力が押し止められなくなってきた。日本でも戦後処理が進むが、小泉政権はその針を逆転させようとしている。

 日本が経済破綻におののいている時、「骨の会」では人骨の保管と身元確認のための立法活動に取り組んできた。そこで見えてきたのは、法律は広くも狭くも解釈でき、自衛隊などは認められているが、人骨の調査は厚生労動省の仕事になっていないということ。各官庁は自分たちが楽をするためにたらいまわしをする、その元凶は立法府と行政府の癒着にある。

投稿:科捜研はどの人骨を鑑定したか

川村 一之(調査会法市民会議事務局長)

 警視庁科捜研は、どの人骨を鑑定したか。そのなかに銃創痕のある人骨が含まれていたのか。マスコミ関係者は、佐倉鑑定が出る前に人骨の銃創痕を知っていた。警視庁と厚生省は当初から人骨の由来を知っており、これが公けになれば、厚生省は新宿区に早く埋葬せよとは言えなかった。

 銃創痕のある人骨とはどういうものか、佐倉鑑定(1992年3月30日)によれば、死後何らかの理由で拳銃によって頭を撃ち抜かれた標本。熟年の男性で、骨質の保存状態は良く、脳などの多量の軟部が付着していた。

 一方、科捜研の鑑定(89年7月27日)は、90年の都議会・前田ゆみ子都議の文書質問の回答及び衆議院法務委員会(91年3月12日)での鈴木喜久子衆議院議員に対する警察庁刑事局・井口憲一鑑識課長の答弁で以下のことが示された。五個の頭蓋骨のうち二個は男性、一個は20歳代の女性と推定。「本件の骨は、死後少なくとも二十年以上経過している」ので、刑事事件の対象外とした。

 結局、科捜研の鑑定とB1人骨の佐倉鑑定との接点は、「成人男性」という一点だけである。また、科捜研の鑑定にある「二十歳台の女性」については、佐倉鑑定におけるA6の人骨であろうと推測される。科捜研の鑑定報告書は公表されず、情報公開法に基づいて開示請求をした時には「不存在」とされ、廃棄されてしまったようである。

 今となっては、発掘当時の埋蔵文化財の調査員か、牛込警察の捜査員に頼るしかない。発見から15年を迎える現在、もう一度原点に戻って関係者の証言を聞きたいと思う今日この頃である。

2004年7月2日

【戸山ヶ原フィールドワーク】随行記

鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)

6月6日
中央大学長谷川曽乃江先生のゼミでは、雨の中を今年も戦争遺跡見学の一貫としてフィールドワークを挙行。
参加者は約20名。

6月22日
学習院高等科男子部では、総合学習の一貫として青空の下、フィールドワークを行った。
参加者は引率の越田稜先生を含めて20名。

近衛騎兵聯隊厩舎跡
戦後建てられた石碑

「彰古館」探訪

加藤 健一(調査会法市民会議)

 6月1日、「彰古館」見学ツアーに参加。参加者13名。場所は世田谷区三宿。戦前は旧軍の駒沢練兵場。今は陸上自衛隊の三宿駐屯地。このなかの衛生学校の一角に「彰古館」がある。「彰古館」は明治初期からの軍の衛生、防疫に関する資料が展示されている。

 案内してくれたのは総務課の木村陸士長。担当した時、資料(史料)物品は未整理状態で、それを約7年前に整えたという。展示物は新宿区戸山の陸軍軍医学校で空襲などから焼け残ったもの、疎開先の山形県から戻ったものの一部。書類などは敗戦時にほとんど焼却処分されてしまっている。日本は近代戦争で、初めての敗戦。やたらに焼却処分をしてしまったので、今になって旧軍の防疫・衛生の歴史を再構築しようと思っても出来ないと言う。

 展示は、歴代軍医トップの肖像画。医務局長、軍医総監など三十四代まで揃っている。明治初期に使われた薬、外科手術用のメス、ヤキゴテ。明治期の内戦で負傷した患者達の絵。顕微鏡、レントゲン装置などもあった。

 「石井式濾過装置」「石井式遠心分離機」なども陳列。石井四郎は細菌戦を行なった七三一部隊の部隊長。木村さんは、「こういう方(石井)は本当に例外。旧軍の多くの衛生関係者は、兵士の命を救う事を至上命題として一生懸命に取り組まれた。残念です」と述べた。

陸上自衛隊衛生学校・中は撮影禁止なので正門で記念撮影

参加者からの投稿

増田 博光

自衛隊は敵

人骨発見15周年集会 人骨(ほね)と歩んだ15年

日時:7月25日(日)午後1時30分~5時

会場:新宿区若松地域センター3Fホール

資料代:500円

2004.7.17

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