軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』121号・要約

続報:「人体の不思議展」疑問をもつ会の要望にさいたま市から回答届く

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)

「人体の不思議展」に疑問をもつ埼玉の会(代表:中里 武)がさいたま市に提出した要望書に対するさいたま市の回答が10月18日付けで代表あてに届いた。

内容は以下の通り。

  1. 行事の目的などが名義後援の基準を満たしており、使用を承認した。
  2. 標本が正規の手続きに基づく献体であることを証明文書により確認しているとの回答を得たので、名義後援承認を取り消すとの判断に至らなかった。
  3. 展示方法に対する会の意見は主催者に伝えた。
回答全文

[人体の不思議展]埼玉展が開催されました(2007年2月4日まで)

疑問を持つ埼玉の会のメンバーが見学に行った感想

中里 武・増田 博光(内容省略)

15年戦争と日本の医学医療研究会に参加して

鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)

湯浅謙さんと吉田氏
 11月26日、東京大学医学部教育棟において、第20回15年戦争と日本の医学医療研究会に参加。記念講演は戦争責任資料センターの吉田裕:一橋大学教授。テーマは「戦争史研究と医学・医療問題ー軍事史と医学史の接点を探るー」1980年代以降、個別具体的な戦争犯罪研究が本格的に始まり、その視点からの軍事史研究の進展があった。戦場そのものの分析に軍事医学、軍事衛生という視点が不可欠。資料は焼却・廃棄されたもの、散逸したもの、あっても非公開のものが多く、収集に困難を極めるが、医学、教育学、精神医学などの側からの学際的なアプローチもすでにあり、今後も期待される。
 私たちの今後の活動の方向性を考える上で、有益な講演であった。
人骨発見17周年集会:『七三一部隊-実像と虚像』

講演録・その2

スライド10

 アジア歴史資料センターからとった。 http://www.jacar.go.jp/
 昭和11年8月8日付。タイトルは「編成完結の件」、内容は軍馬防疫廠(100部隊)と関東軍防疫部(731部隊)が昭和11(1936)年8月5日に編成を完結したという報告書。

スライド11

 防疫部で何をやっていたかがわかる文書。左は「香港上海方面よりする『コレラ』等の侵襲を防護せんとす」。右は昭和15年8月25日、関東軍防疫部を防疫給水部に変えたという資料。

スライド12

 米国が保管していたレポートA、G、Q。米国議会図書館で見られる。行って見られるのはコピーで、本物はぼろぼろでプラスティックケースに入っている。これらは人体実験が暴露された後の1947年春に来日したノーバート・フェルが調査した結果をまとめたもののうち残っているもの。Aは炭素菌、Gは鼻疽菌の人体実験レポート。Qは1940年に新京、農安で流行したペストについてまとめたもの。

スライド13

 フェルの後、ヒルとビクターが夏以降に来日し、人体実験の中味を調査。その一覧表がスライド13~15。
嘱託は小島三郎、細谷省吾、内野仙治ら大学の教授たち。小島と細谷は赤痢のワクチン開発を受け持っていた。軍医は石井のような人たち。技師というのは吉村寿人のように大学から出向してきた将校待遇の民間人。ペストの人体実験は180人。

スライド14

 一方新京の流行では66人でうち有効標本数64(Qレポート)。

スライド15

 孫呉(流行性出血熱)というのは、現在は腎症候性出血熱といわれるが、これで101人殺害している。これの標本のほとんどが石川太刀雄丸という技師が、1943年にハルビンから金沢大学に持っていく。

スライド16

 左はA、中がG、右がQレポート。AとGの被験者はマルタと呼ばれていたが、Qレポートには患者のイニシャル、年齢、性別などの個人情報がある。

スライド17

 内容は部隊員の博士論文。タイトルは「イヌノミのペスト媒介に就ての実験的研究」その下に「満洲第七三一部隊陸軍軍医少佐平澤正欣(まさよし)」。右は「イヌノミによるサル攻撃」と書いてある。「発症サルは付着後6-8日にして頭痛、高熱、食欲不振訴え同時に局部琳派腺の…」と書いている。
サルの頭痛はどうやってわかるのか?
 誰が見ても人体実験をやっていることがわかる論文が堂々と京都大学医学部に提出され、京都大学は博士号を出した。七三一部隊の蛮行は公然の秘密だった。

スライド18

 日本軍が行った生物兵器攻撃(試用)の歴史。1939年のノモンハンの後、40年に寧波で細菌攻撃、42年に浙江省と江蘇省の境界の浙カンに大規模な作戦をやる。1940年には農安と新京でもペストが流行。これが人為的なのか自然の流行なのかを見極めるには疫学的な分析が有効。

スライド19

『凄惨人実的細菌戦』(1993年刊)。著者の黄さんと歩平さんから1994年にいただいた。寧波でペストで亡くなった人の記録。

スライド20

 スライド20の系列2は寧波の日にちの経過と死者発生数のグラフ。系列6は中国東北部銭家店でペストが大流行したときに患者の発生状況。系列2では最初にピークがあって以後急速に収束するが、系列6はだらだらと流行が続く。

スライド21

 スライド20の系列4は新京での患者の発生状況。パターンを見ると自然発生と判断できる。

スライド22

 石井機関による生物兵器の使用が虚像に終わった例。1944年12月12日付の捕虜尋問調書によると、42年の浙カン作戦で細菌攻撃を行った地域に予想外に早く日本軍が入り、患者が一万人出た(師団のほとんどすべて)。うち死亡が1700人。一般兵士にワクチンを与える余裕はなかった。

全画像

―以下次号―

「敬蘭芝さんを偲ぶ会」開催

 10月14日。基調講演:松村高夫氏

山梨大学「梨甲祭」で人骨パネルを展示

宇佐美 淳

 2006年11月3日と4日の2日間、山梨大学甲府キャンパスにて学園祭「梨甲祭」が開催された。地元山梨県甲府市の甲府空襲、南アルプス市の御勅使河原(みだいがわら)飛行場跡(通称「ロタコ」)のパネルと同時に、昨年縁あって見せて頂いた「「人骨」は訴える」のパネルを展示した。今回梨甲祭で学術的な展示等が行われたのは数少ない。毎年同様ではあるが、模擬店やライブばかりが大学祭ではない。2日間で年齢や国籍を問わず当初の予想以上の約50名の方に展示を見て頂いた。大人のエゴにならない平和運動を模索したい。

2006.12.26

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