軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』189号・要約

磁器製細菌爆弾を製造した貞包製陶所

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)

磁器製細菌爆弾の弾体を前に撮影
(1994年10月20日)

 2018年1月、実家の佐賀で細菌弾を探してくれていた貞包利文さんから、細菌弾が見つかったと連絡があった。

  • 細菌弾との出会い
     私と細菌弾との出会いは20年前。現在の佐賀県嬉野市塩田町にあった貞包製陶所は1938年頃、日本軍の指示により磁器製細菌爆弾の弾体を製造した。1983年1月14日付の佐賀新聞に紹介された。
     これを手掛かりに貞包製陶所を訪れたのは94年10月。製陶所は営んでいなかったが、磁器製細菌爆弾を大事に保管している貞利(さだとし)さんに会い、細菌弾製造に使用した受け皿の台座をいただいて持ち帰った。
     昨年11月、中国の731部隊罪証陳列館の金成民館長と歓談したとき、館長から調べて欲しいという要請を受け、20数年ぶりに現地を再訪した。
  • 貞包宅の庭に置かれた陶磁器
    (2017年11月29日)
  • 塩田町再訪問
     貞包貞利宅を再訪したのは2017年11月28日。貞利さんは1年前に亡くなり、空き家は佐賀市に嫁いでいる娘さんが管理しているとのこと。翌日も娘さんは現れず、置手紙を残して戻った。12月1日になって貞包貞利さんの娘・悦子さんから連絡があり、長男の利文さんを紹介してもらった。
  • 塩田町の焼物
     11月28日は貞包宅を後にして、「志田焼の里博物館」と「志田焼資料館」に向かった。
     11月29日の午前中は、嬉野市歴史民俗資料館と嬉野市塩田図書館で資料調査を行った。
     「塩田町史 下巻」(1984年)や「『塩田のやきもの展』展示図録」(1991年)に貞包製陶所の歴史が記載される。特に「図録」の記述により、1886年に貞包弥平次が貞包窯を創業、2代目が多作、3代目が貞次に継承され、貞利へとつながっている同族経営会社であることがわかった。
  • 「志田焼の里博物館」(2017年11月28日)

    細菌弾を製造した貞包製陶所(1932年)
  • 貞包利文さんと面談
     利文さんは埼玉県在住。12月10日に、JR西川口駅近くで話を伺う。最初に20数年前に塩田町を訪問した時の写真と図書館でコピーした資料を渡して見てもらった。
     父親の貞利さんは1926年生まれで、2016年10月に他界。9人兄弟で貞次(さだじ)さんの三男である。もう一つの細菌弾を保有している福岡県久留米市在住の貞悟(ていご)さんは貞次さんの長男。貞悟さんは細菌弾の製造も手伝っていた。
     利文さんは細菌弾について概要、次のように語ってくれた。
    陶磁器製造に使用した天草陶石を運び入れた塩田津の港(2017年11月29日)
     「爆弾は玄関に飾ってあったのは記憶している。いつの間にか無くなっていた。今度、探してみたい。子どもの頃は母屋が別の場所にあって、そこにはいくつも爆弾があった。上部のふたを開けてゴマの保存容器にしていた。家を建て替えた後、旧母屋を倉庫として利用していたが、私が22~3歳の頃に火事になり、旧母屋は跡形もなく焼失、爆弾も無くなった。
     父貞利が、旧母屋から何らかの目的で別の場所に保管していた爆弾だけが残ったのではないか。もし見つかれば、川村さんに預けて保管してもらってもいい。」
  • 細菌弾の追跡調査
     利文さんとの面談後、2つの細菌弾に関する追跡調査が始まった。
     まず貞利さんの兄である貞悟さんが保管していた細菌弾を調査、貞悟さんの御子息・喜員(よしかず)さんが現在も久留米市に在住していた。私は12月13日付で喜員さんに細菌弾の保管状況を調査している旨の手紙を出して協力を求めた。その手紙を見て喜員さんが電話をくれた。喜員さんは、「家宝なので今は手放したくないが、もし自分に何かあった場合にはお宅に連絡する」と話された。今年に入って、貞包利文さんから連絡があり、2つの細菌弾の所在が判明した。
     貴重な細菌弾は個人の保管ではなく、今後は公共的な場所で将来にわたって保管・保存し、社会的に認知していく必要があるだろうと感じている。所有権は所蔵者に留めたままにして、博物館などが所蔵者に代わって保管・展示等を行うようにすれば社会的に意味があるのではないか。
佐賀新聞:1983年1月14日

(2018年1月12日記)

戦没者遺骨収集に関する人類学的鑑定 その3

講演記録:楢崎 修一郎 さん

  1. 飢餓に苦しんだ島
     日本のパールハーバー、ミクロネシア連邦トラック。処刑も行われた島、マーシャル諸島ミリ環礁。水葬の島、ミクロネシア連邦メレヨン環礁。この3つをお話する。
    1. 日本のパールハーバー:トラック環礁
    2.  トラック環礁、今はチュークと言う。1944年2月17~8日、米軍艦載機による空襲を受け孤立。
       トラック諸島は、かつて大和・武蔵等の戦艦が停泊した島。当時の日本軍は島に四季や曜日の名前を付けていた。今回行ったのは、トル島といってかつての水曜島。モエン島から、毎日ボートで往復2時間くらいかけて通う。水曜島の東海岸に集団埋葬地がある。
      トラック諸島に停泊中の戦艦大和・武蔵
      水曜(トル)島の東海岸に集団埋葬地
       ボートは、海が干潮なので沖に留めて、毎日100メートルくらい海中を歩いた。発掘した場所はタロイモ畑で、全部で13体見つかった。これは保存状態が良いもので畑から外れた所にあった。遺物には海軍のバックルがあり、旧海軍の軍人と判明した。1体は大腿骨が見えるが、頭部が家の下にあるので埋め戻して帰って来た。昨年、別のグループがこの方を回収したと聞いている。
       因みにここは全部で100人の方が埋葬されているという情報があり、元戦友の方からそのうちの55人くらいの人の名前が判明している。この方もDNA鑑定で該当する方がいるかも知れない。
    3. 処刑も行われた島:ミリ環礁
    4.  ミリへの長い道のり。成田空港からグアムに行って1泊。飛行機を乗り継いで5か所目でマジュロ着。マジュロからパワーボートで約7時間。内海は穏やかだが外海は非常に荒い。
       ミリ環礁エネゼット島の集団埋葬地。当初予定していた場所は、土地所有者から発掘料一体1万ドルを求められたので、他の場所を探し回って、ようやくここで発見した。ここは6体、全部頭は北側。現地の人は南側らしい。1体だけ異例だったのはこの方。他の方はみんな上を向いた状態で体を伸ばした状態(伸展葬で仰臥)。この方だけ伏臥というが、うつぶせの状態で埋葬されていた。米軍の攻撃はなかったが、飢餓状態で椰子の実を1個盗んだだけで絞首刑になったり銃殺されたりした。
       1日発掘して、夜は観察・計測。英文で報告書を書いて、非常に過酷なところ。電気もガスも水道も一切ない。
       最後に1体発見し、焼骨式の朝、土地所有者から発掘料を求められ、、泣く泣くこの方も再埋葬してきた。日本政府は支払いは拒否している。そういう場合は再埋葬・記録して、いずれ掘る。
      ミリ環礁エネゼット島の集団埋葬地
    5. 水葬の島:メレヨン環礁
    6. メレヨンの位置
      メレヨンは日本軍の暗号名でウォレアイ
      ヤップ島からこの船で片道2日
       メレヨン環礁はヤップ島経由で、船で行く。今の名前はウォレアイ。元々ウォレアイ環礁の一つの島がメレヨンで、米軍に悟られないよう暗号名として使った。
       ここも制空権、制海権を失って孤立し、飢餓に苦しんだ島。
       ここには海軍と陸軍がいたが、どちらも75%程度の戦死率。ほとんどが餓死。陸軍の場合にはこの辺に埋めていったらしいが、海軍は伝統的に水葬なので、モトゴショウという島まで大発という上陸用舟艇で持っていって水葬した。当時の現地の人は、フラリス島一か所に集められ、餓死者は一人もいない。この辺に残っている骨は、すべて日本兵。
       ヤップ島から日本政府・厚労省が借り上げた船で片道2日間かかる。島民はみんな裸同然。その年にインターネットがつながって、小学校にはインターネットが入る。
       さて調査を進めると、大きな椰子の根っこに絡まった人骨や遺物が出てきた。タロイモ畑の中からも骨が出てくる。これは別の所だが、全身がよく残っている。水に漬かった骨は保存状態が良い。白く見えているのはすべて椰子の根に絡まった骨。戦友が亡くなったら椰子の木を植え、その根っこに骨が絡まった。現地調査はわずかに2日間。
       このメレヨン島は戦後大問題になる。文部大臣までやった安倍能成が、世界(「メレヨン島の悲劇」(『世界』昭和21年2月号)・編集部注)に論文を投稿。陸軍の場合、将校の死亡率は33%、下士官は64%。兵卒が82%と、階級が下になるほど戦死率が高い。海軍司令官の安田海軍大佐は、昭和21年、敗戦の翌年に自決。陸軍司令官の北村少将は2年間、各地の遺族をおわび行脚をし、2年後の8月15日に割腹自殺。これが非情にも戦場における現実。
      畑から人骨が出土
      椰子の根に絡まった人骨
      水に漬かった人骨は保存がよい
  2. 終戦後も戦闘が続いた島:樺太
    ロシア調査運動収骨
     その後1945年広島、長崎に、テニアン島から飛び立ったB29によって原爆投下。8月15日終戦。しかし、終戦後も戦闘が続いた地域がある。1945年8月9日からソ連侵攻、8月11日に南樺太の国境付近で激戦開始。この戦闘は、8月23日まで続く。
     樺太(サハリン)では、ロシア調査運動とピオネールという二つの民間団体が、日ソ両側の遺骨を収骨している。そういう情報を得て派遣された。11月末から12月初めに派遣され、雪の中で焼骨式も行う。ロシア調査運動が収骨した骨は1体に見えたが、実際には2体。ピオネールがやった所は、最初4体に見えたが、実際は6体。このようにきっちり鑑定をすると数が増える。
    ピオネール収骨
サイパン・JPAC
 1944年7月7日、日本軍最後の万歳攻撃の時に戦死したが、遺骨は発見されず、戦闘中行方不明者とされていた。2013年3月、日本側の調査で発見され、認識票から氏名が判明。アメリカの人類学者が発掘して、ハワイへ持ち帰った。JPAC、アメリカの場合は9カ月くらいかけて鑑定している。DNA鑑定で本人と確認され、2014年4月25日、70年ぶりに故郷で埋葬された。このように日本もアメリカ兵、日本兵、どちらも発掘する。
 各地の戦場で日本兵の頭骨を持って帰ったものがアメリカ各地にいっぱいある。それが現在、ぞくぞくと日本大使館に届けられる。そういうものも私が鑑定して、日本に帰している。
2013年3月 サイパン・JPAC

 最後に、今年の8月、4度目のサイパンへ、通算15度目の遺骨収集に出かけます。最後の一人が収集されるまで努力します。

<質疑応答>
省略
2017年度連続フィールドワーク第3回:東京大学と戦争

日時:1月28日(日)13時出発

2018年お花見ウォーク「人骨問題と慰安婦問題」

4月1日(日)13時出発
早稲田駅3ab出口方面改札口集合
コース:陸軍軍医学校、東京第一陸軍病院、陸軍砲工学校、陸軍戸山学校跡を巡り、最後に女たちの戦争と平和資料館(wam)を見学
資料代:500円+wam入館料(500円)

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頒価850円のところ、戸山人骨鑑定写真データ(102枚)を付けて、割引価格800円。

<【重要なお願い】>

昨年12月26日に、平成30年分の年会費ということでお振込みされた方。振込用紙にお名前がありません。至急、ご連絡を。

2018.1.21

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