The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College
鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)
9月24日10時、航空公園駅・YS-11の前から、案内の埼玉歴史教育者協議会所沢支部の篠原謙さんを含め、23名が出発。
旧川越鉄道沿いの土塁から、飛行機新道を通り、途中所沢憲兵分遣所跡を見る。公園内に戻り航空教育団のリーダー・フォール大佐の胸像を見る。
大正天皇の碑、滑走路跡、飛行船「雄飛号」格納庫跡、木村・徳田両中尉の慰霊塔、健空神社跡など、戦後進駐した米軍基地跡とも重なる航空発祥の地を散策、最後に航空発祥記念公園ロビーで午前の部を終わる。案内の篠原さんは、日本の航空技術の発展を謳った同公園と記念館の展示姿勢に対して、本当に日本の航空技術の発展に役立ったのか、侵略の道具として誤った方向にゆがんだ発展をしたのではないか、と疑問を呈した。ここでいったん解散。
午後は、記念館を見学後、今も返還されずに残る米軍通信基地の周辺を延々と歩きながら、返還交渉の闘いの経過を聴く。
講演記録:楢崎 修一郎 さん
「戦史」に基づいて、
クェゼリン環礁はマーシャル諸島の中のサイパンやグアムの東側で、世界最大の環礁と言われ、1944年1月に玉砕しているが、当時日本軍は、2か所に飛行場を建設していた。現在、米軍基地があり、非常に軍事機密が高い所。
2014年7月16日の読売新聞に「浜辺で戦没者の遺骨か 激戦地温暖化の波 砂の流出で8柱確認」ということで、日本兵と思われる8体が確認された。アメリカの人類学者が確認したので、私に確認して来いということで派遣された。
エニンブル島の砂場の海岸には、長年のゴミが1メートルくらい集積していた。波に洗われる現場で、14年3月に人骨が発見され、日本兵ということが確認できた。
同年11月の発掘では、事前にゴミを撤去してもらい、現地人20名で暑い中やってもらった。
砂地は非常に掘りやすく、カルシウムが多いので人骨は残存もよい。最初に3体がうつ伏せの状態で、両手を挙げて発見。恐らく、米兵に後ろから銃殺された。しかも直前に万歳したんだろう。真ん中の方の後頭部の後ろに銃創がある。手が前の方に移動していることから、止めを刺されたと思う。こういう状態が分かるのは世界的に見ても非常に珍しい。
今度は下層人骨。さっきの骨の下に2体。ここにも1体。2体はこれも非常に異常な状態。下の方は若い兵士で上の方は年配の将校。この方が右手で、下の兵士の顔の下に手を入れていた。しかも覆いかぶさっている、下の兵士は両手をお腹においている。恐怖におびえる少年兵を将校が庇っている状態が垣間見えてくる。
起きた順番は、まず下層の2人が銃殺されて、もう1体の方は死体だった。上層の3人は見ていて自分たちが銃殺されるというのは覚悟の上。それで、「天皇陛下万歳」と言ったんだろうと、私は推定する。
さっきの読売新聞にあった収骨済みの人骨を私が詳細に鑑定すると、9体とわかった。アメリカの鑑定は一体少なかった。
サイパン島は1944年6月に米軍が上陸し、7月7日に万歳突撃で玉砕。南から上陸し、北に追い詰める。
米兵は海岸一帯で4311名を確認して埋葬。あまりにも数が多く、腐敗するので、ブルドーザーで大きな溝を掘って、頭を外側に向けて並べて配置しているが、こういう事例はむしろ例外で、雑然と配置したものが多い。
集団埋葬地1。MB1、Mass Burial(マス ベリアル)とついているが、2011年10月に表面採集ということでやってみると、銃弾、裁ちバサミ、ペグ(トロッコや鉄道のレールを止めるもの?)、床屋さんのカミソリなどが見つかった。現地の在郷軍人や普通の男性も参加したと言われている。それからこういう武器弾薬多数。手榴弾、擲弾筒、九九式破甲爆雷などが多数出てくる。非常に危険な発掘。
当時の日本軍の肉弾攻撃は、九九式破甲爆雷を米軍のシャーマン戦車等にくっつける。米軍の方も磁石がつかないように工夫している。
サイパンの上層部の保存状態は比較的よく、この方はフルネームの印鑑があり、故郷が絞られた。歯からDNA鑑定をした結果、香川県の工兵隊の中尉と判明。南方において初めてDNA鑑定で分かった。それ以外はほとんどがシベリアで発見されたケース。シベリアの場合には記録があるので、6割7割の確率で個人鑑定ができるが、南方の場合は難しい。印鑑が決め手になった。
下の方は保存状態が悪い。恐らく米軍が死体を埋めた時に、蠅が集らないように亜ヒ酸を撒くということで、その影響か。
数が非常に多く、2012年9月は、135体も鑑定した。歯の治療痕、治療して金(きん)を被せている。他の戦場では亡くなった死体から金の被せものを米兵が抜くという行為が多数記録に残っているが、サイパンの場合には、非常にきれいな状態で残っていた。
悲劇はその後起き、スーサイドクリフ、バンザイクリフから次々と民間人や兵士の方が飛び降りて命を落とした。
サイパンには中部太平洋の碑というのがあり、この裏手の木に、2012年9月の時には十数頭、黄色い蝶々がいた。12月に行くと蝶々の数が減っていて、翌年3月に行ったらまったくいない。はたと思うと、2012年9月には135体で十数頭、12月には28体で3頭、2013年3月には2体で0頭の蝶々ということで、蝶々1頭が戦没者10体分ではないか。日本人は季節によるんじゃないのと言うが、現地の人は、蝶々というのは精霊が宿るものということで、ありがとうと言ってくれたんだろうと私は理解している。
次は不沈空母の島テニアン島。サイパン島の南にある。テニアン島にはサイパンを落とした後、44年7月24日に米軍が上陸し、わずか1週間たらずの8月2日に万歳突撃をして玉砕。8月3日に組織的戦闘が終了。
70年を経ても野外で遺骨が見つかる。2013年3月16日。テニアンの場合には生き残った人々もスーサイドクリフから身を投げ、サイパンと同じような悲劇が繰り返された。ここの特徴は、女性と子供の数が多い。テニアンの焼骨式では、集めたものを現地で焼く、つまり私は焼く前までに鑑定を済ませなければいけない、日々徹夜をしなければいけないということ。で、本当に不思議だが、ある洞窟から、大人の橈骨(前腕の骨)が発見されたというので行ってみたが、よく見ると赤ん坊の橈骨。ここで焼くとピーという音がして子どもが泣いているようで、みんなで涙した。冷静になれば橈骨は空洞なので、風が通ることによって泣いたように聞こえたんだと思う。
テニアン市長と、HPOのカルメンさんにはずいぶんお世話になった。カルメンさんは残念ながら癌で亡くなった。市長も今落選中。この市長のお父様も市長で、日本人のご遺骨を探しに行ってそのまま行方不明になった。
テニアン島を米軍が支配した後、ここから東京大空襲、広島・長崎の原爆投下の飛行機が飛び立つ基地になる。
パラオのペリリュー島。ここは最初に私が1992年に行った。ペリリュー島の北にフィリピンがあって、マッカーサーがフィリピンを攻めるときに、ここに残っている日本軍がフィリピンを攻撃しないように急遽ここを攻める事にした。
ペリリュー島には洞窟が約500あり、入口が小さいものもあれば大きいものもある。まだまだ洞窟の中に骨が多数残っている。
ペリリュー島は、2012年12月、台風に襲われ、多くの木が倒れて流された。その時、現地の人は日本軍が本部として使った洞窟に逃れ、犠牲者を一人も出さずに済んだ。
(以下、次号)
2017.11.26
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