人骨発見27周年・厚生労働省調査結果公表15周年、開催す
7月17日(日)、若松地域センターに於いて、人骨発見27周年の集会を開催した。
今回は人骨発見時の当事者でもあった元新宿歴史博物館学芸員の富樫雅彦さんから、最新の縄文人骨の発掘調査・研究の現状をお聞きした。参加者は20名弱。
「縄文時代人骨に関する研究」その①
講演録:富樫 雅彦 さん(武蔵大学講師)
練馬区の「ふるさと文化館」に勤めている。それと武蔵大学と岡山理科大学で考古学や博物館関係の教鞭を執っている。その他に文化遺産を社会に役立てるための冊子の編集をお手伝いしている。
関心は、人間は死ぬとどうなるか、宇宙人の存在(我々も宇宙人)。公共考古学を専門としている。考古学という学問は、現代に立って過去の人間の行為を研究し、未来世代の子供たちの生きる権利を保証する学問でもある。
人骨から何がわかるか?
私は専門家ではないので、論文や報告書、専門の先生方から直接間接お伺いしたことをお話する。
最近は人骨の性別や年齢だけでなく、DNAで人間のグループを分析したり、親族関係を見たり、病気や食生活(栄養状態)、生活習慣、生業等がわかるようになった。人骨は遺跡から出土する。出土状態から埋葬の様子、身に着けていた物、副葬品などで生活状況がある程度わかる。
小竹貝塚の人骨
小竹貝塚という富山県にある縄文時代の人骨が91体出土した事例。頭蓋骨に穴が開けられたもの。外耳道骨腫(水中に長く潜っていて骨の瘤ができる)があるもの。眼窩の孔があり(クリブラ・オルビタリア)飢餓状態を示すもの。頭頂骨に斧による穿孔のあるものなどが見られる。
「皮なめし」の痕跡
大腿骨の食痕。縄文時代には死後しばらく置いておく殯(もがり)という習慣があった。この時にネズミに齧られた可能性が考えられる。殯が禁止されたのは645年の「大化の改新」の翌年に出された薄葬令。次に歯に見られる痕跡。抜け落ちたり傾斜しているものが見受けられる。これは、皮なめしをした痕跡。
その他、腰痛、カルシウム不足、上腕骨に骨まで達する刃物の跡なども見られる。縄文時代の人骨は、生きているときも死んでからも平穏な状態ではなかった。
縄文人の寿命
人類学者の小林和正先生が東大にあった235体の人骨を分析した結果から、教科書には縄文人の寿命は30歳などと書いてあるが、見直す必要がある。聖マリアンナ医科大学の長岡朋人先生の研究では60代以上の人骨が三割。平均寿命を40歳くらいまで引き上げていいのではないか。とすると古代から戦前くらいまで日本人の寿命はほとんど変わっていない。戦後、栄養状態がよくなって急激に寿命が延びた。
縄文人骨の年齢
縄文時代は一万六千年前から一万数千年続いた。見つかっている人骨を見ると、一番古い草創期・早期で72体、前期で103体、中期が356体、後期が982体、晩期が942体。
男女構成はほぼ均等。年齢構成では20~40代が多い。17歳以下では骨自体が確認できないが、乳幼児の骨は非常に多いと思う。
具体例として、長野県の北村遺跡では、壮年、熟年が多く老年が少ない。千葉県の小作貝塚は壮年が多くて老年がいない。静岡県の蜆塚貝塚は、青年の割合が多く3体のうち2体に鏃(やじり)が射ち込まれている。
貝塚遺跡に集中する人骨
縄文時代人の墓は非常に多いが、人骨が検出される墓は極めて少なく、貝塚遺跡に集中している。貝殻が土の中に溶け込んで土壌を中和するので人骨が残る。人骨のもつ情報量はとても多く示唆的。
ミトコンドリア・イブ
遺跡ごとに出土する人骨の分析が縄文社会の解明に寄与する。
ミトコンドリアは細胞の中の器官で独自のDNAを持ち、母親から子どもに遺伝する。その塩基配列を解読すれば、母系をたどれる。現生人類の大元は旧石器時代に東アフリカにいたミトコンドリア・イブにたどり着く。
南からきた日本人
日本人集団のミトコンドリアDNAはM7aというタイプ。アフリカにいたL3からMとNが分かれる。M集団は南側回りでアジアに来る。M集団のM7aは四万年くらい前に東南アジアや中国の南に到達し、三万五千年から三万八千年前くらいに日本列島に、舟で入ってきたと言われている。最近沖縄で白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴という所からM7a、M7b、M7cに関連する二万年前の人骨が出てきたので、沖縄に旧石器人がいるという事がほぼ確定した。
北からきた日本人
N集団は北回りでアジアに来て、二万五千年になるとシベリア辺りから急激に南下を始める。その時代は氷河期の中でも一番寒い時期。それがN9bというハプロタイプ。二万五千年から二万三千年前の旧石器時代の遺跡がシベリアからなくなる。北海道にいた人も南下し、最寒冷期が終わると北海道の人たちが北上する。それは北海道産の黒曜石の分布で証明されている。
こんな風に旧石器時代の日本列島には、大きく2グループのハプロタイプが入りこんでくる。N9b、M7aは日本に住む現代人の中でも確認できる。
縄文時代に多様化
縄文時代になると別のハプロタイプであるA、G、B、Fなど南方起源、北方起源、いろんなハプロタイプを持っている人たちがいっぱい入ってきている。
もう少し細かく見ると、東アジア全体で女性のミトコンドリアDNAの組成は変わらない。これは結構大事。Y染色体遺伝子を分析すると、組成はあまり変わらないが、日本は他の地域よりDEというタイプが多い、これは軍事や漁撈等、何らかの目的で、男性集団だけで大量に移動するというケースが考えられる。ミトコンドリアDNAやY染色体遺伝子を分析すれば、日本にたどり着いている人の複雑な現象を明らかにできるのではないか。
ミトコンドリアDNAの分析は16500の情報を見るだけなので低料金でできる。Y染色体遺伝子の方は手間もお金もかかる。今一番進んでいるのは次世代シークエンサーという分析方法で、塩基配列を全部解読するので百万円オーダーの費用がかかる。
DeNAという企業は、DNA鑑定を三万円くらいでやってくれる。我々にとって身近になってきた。
小竹貝塚のハプロタイプ
富山県の小竹貝塚は海岸線から4キロ離れた内陸部にある。発見された91体の人骨のうち、ミトコンドリアDNAが抽出できたのは13体のみ。歯を抜いた部分の窪みに残った細胞を取って分析する。
小竹貝塚のトコンドリアDNAのハプロタイプを見ると北方系、南方系入り交じり、自然発生的な親戚関係とは思えない集団がいたことになる。
炭素窒素同位体比分析
炭素窒素同位体比の分析をすると食生活の違いがわかる。縄文時代の遺跡には内陸性と海岸性がある。海岸部にある北海道前期の貝塚は海生の哺乳類を、同じ海岸部でも東北地方では普通の海の魚を食べていることがわかった。それに対して内陸部にある遺跡は栗やドングリなどのC3植物を食べていることがわかった。
同じ遺跡の同じお墓から出てきた骨でも、男女で炭素窒素同位体比が違う場合もある。縄文人のお父さんは、狩りに行き、お母さんはドングリや焼き畑の芋とかマメを食べている。弥生時代になっても実はあまり変わっていない。死ぬ前の十年間の食生活の実態が垣間見える。
小竹貝塚の食生活
小竹貝塚は富山湾に面していたが、海退が進む。ここにドングリばかり食べている男性がいて、女性は海産物を食べている。海岸近くで住んでいた人と内陸部に住んでいた人との間に何らかの交流、物々交換があったのではないか。それが発展して、嫁や婿のやりとりがあったのではないか。
最近発見された市谷加賀町二丁目遺跡について、縄文中期の人骨は、淡水魚、雑食の比重が高く、草食動物やC3植物も食べていた。それに対して、後期は海の魚の比重が高くなる。後期になると海進が進み、飯田橋辺りまで海水が来たので、海の魚や貝などを採るようになった。ところが、ドングリなどのC3植物しか食べていない人が一人あった。
(以下次号)