The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College
鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)
6月12日(日)、参加者21名。田園都市線三軒茶屋駅から太子堂区民センターへ。長谷川順一さんと、会場を取ってくれた中山さん合流。
長谷川 順一
かつて共産党の新宿区議会議員を務め、引退後は、新宿平和委員会の会長として防衛庁の移転に反対した。今、防衛省市ヶ谷記念館に東京裁判の歴史を刻む活動に取り組んでいる。石川県金沢市から世田谷区へ。昨年、保坂展人区長の記事をきっかけに世田谷の戦争遺跡を調べ始め、世田谷平和マップを作成した。
参考文献 省略
東海林 次男
配布した資料をもとにこれから回るコースを説明。1930年代の地図には、駒沢練兵場をはじめ兵営の建物が描かれている。この一帯は、民有地と軍用地の境で、「陸軍用地」境界標柱が残っている。また、多くの兵舎は空襲を受けなかったので残り、被災者や引揚者の住居「世田谷郷」となり、1946年、米よこせ世田谷区民大会の会場になった。
上が1983年の地図で、今回歩いたコースが記してある。防衛庁施設研究所、自衛隊中央病院、世田谷公園などとある所が駒沢練兵場、栄養学校とある所が糧沫廠の跡地。
下が1932年の地図で、中央駒沢練兵場、そのやや上(北側)に糧沫廠が見える。
省略
川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)
富士山頂に航空医学研究所(軍陣衛生学教室富士分業室)があった。1938(昭和13)年8月の開所式には寺師義信軍医学校長と小泉親彦医務局長が出席。
新潟競馬場には軍医学校の防疫研究室が疎開し、新潟出張所として使用した。内藤良一が所長。新潟カトリック教会や鍋茶屋という高級料亭も接収。新潟出張所は戦後、東芝系列の生物理化学研究所新潟支所になり、今はデンカ生研という血液製剤などを作る製薬会社に引き継がれている。
次に防疫研究室の実験場。信濃川上流の大きな中州にできた。七三一部隊にいた金子順一が1944年4月、ここで細菌液の飛散実験を行う(金子順一論文)。風船爆弾に細菌を載せて北米を攻撃する目的で実験をやったのではないか。
千葉県船橋市にある中山競馬場に、陸軍軍医学校の防疫部が移転し、血清とワクチンを製造していた。1944年に開設して、10万リットルのガス壊疽血清を作るという指令で、800頭の馬が集められた。
指令通りだと15000頭の馬が必要になる。無茶な話。
戦後、中山出張所の器材は千葉県血清製造所に引き継がれ、競馬が再開されると市川に移転、千葉県血清研究所になる。日本脳炎のワクチンなどを生産していたが2002年に閉鎖。赤レンガ倉庫の保存運動があり、一年に一回開放されている。
それから毒ガス演習が行われた楢葉実習場。千葉県の袖ケ浦だが、JR袖ケ浦駅は昔、楢葉駅と言い、その昔は奈良輪村といった。
楢葉村にキリスト教系の三育学院という学校があり、1944年9月、学校長や牧師が治安維持法違反で全員検挙、三育学院も閉鎖に追い込まれた。
目をつけたのが陸軍軍医学校で、広い敷地に校舎も農場もあった。校舎は宿舎に、農場では毒ガスの実習を行った。今、その農場は東京ディズニーランドに花を卸している花卉栽培場になった。ちなみに三育学院は大多喜町に移転、存続している。
伏見出張所では石井式濾水機の検定を行っていた。京都には石井式濾水機に使用する濾過筒を生産する松風工業という会社があった。
橋 本精士は薬剤師として東大の伝染病研究所に出入り、その時に伝研にいた小島三郎からドイツ式の素焼きの濾過筒を見せられ、日本でも作れないかと渡された。橋本は濾過筒を作り、1928年に特許を取得、1930年の化学工業博覧会に出品、それが石井四郎の目に留まった。
ドイツ式のものは壊れやすく、橋本さんは軍の使用に耐える濾過筒を作り上げ、そのために体を壊し、39年に亡くなる。濾過筒は現在でも横浜の日本濾水機工業で生産されている。
濾過筒等の部品を集めて石井式濾水機を組み立てていたのが日本特殊工業。日本特殊工業は濾水機だけでなく、衛生機材全般を一手に引き受けていた。七三一部隊が使った素焼きの陶器爆弾も日本特殊工業が納めていた。社長の宮本光一は石井四郎と懇意で、新宿区若松町の土地を石井四郎の自宅に提供。戦後は内藤良一と一緒にミドリ十字を創立している。
日本特殊工業の工場は品川の埋め立て地にあったが、現在は介護ホームと都営アパートになっている。
七三一部隊が使った素焼きの陶器爆弾(宇治式爆弾)を生産していたのは佐賀県嬉野市塩田町にある貞包(さだかね)製陶所。その製陶所には本物の宇治式爆弾が一つ保存されていた。
宇治式爆弾は空中で破裂して細菌の汚染範囲が広がる。これは中国の浙江省や湖南省で使われたようだ。
最後に陸軍軍医学校の渋谷分室。内藤良一が乾燥人血漿を作った場所で、渋谷区神宮通二丁目にあった救世軍の士官学校だった。
血漿には凝固作用があるので、戦傷した人の止血に使われる。粉末状の血漿が重宝される。
内藤良一はアメリカから真空ポンプを買い、これで血漿を凍結真空乾燥する。今で言うフリーズ・ドライ製法。
戦後、渋谷分室の器材は東京都の血漿研究所に払い下げられ、日本製薬に引き継がれる。内藤良一は乾燥血漿の技術を利用して日本ブラッドバンクを設立し、朝鮮戦争で米軍が使用した。
渋谷分室の場所は今、原宿京セラビルになっている。京セラ会長の稲盛和夫さんは、石井式濾水機の濾過筒を生産していた松風工業に戦後入って、そこから京都セラミックという会社を興した。
軍陣医学は医学の進歩の阻害要因。軍陣医学には「国境」があり、情報は敵と味方で遮断される。そういうことが戦争に勝つために正当化される。
ご清聴、有難うございました。
(2016年5月6日 加筆修正)
寒河江市市史編纂専門委員の宇井啓さんからのお便り2通:内容省略
平野 利子
今年は女性が参政権を得て70年、そして18才からになる。悔いのない一票に。
日時:7月17日(日)
会場:若松地域センター2階第2集会室A・B
講演:富樫 雅彦 さん(武蔵大学講師)
<今年の富樫雅彦さんのお仕事>省略
2016.7.3
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