軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』180号・要約

第二回フィールドワーク 特別企画
世田谷平和マップ
~世田谷区の戦争遺跡を歩いてみよう~

鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)

 6月12日(日)、参加者21名。田園都市線三軒茶屋駅から太子堂区民センターへ。長谷川順一さんと、会場を取ってくれた中山さん合流。

世田谷平和マップ

長谷川 順一

長谷川 順一 さん

 かつて共産党の新宿区議会議員を務め、引退後は、新宿平和委員会の会長として防衛庁の移転に反対した。今、防衛省市ヶ谷記念館に東京裁判の歴史を刻む活動に取り組んでいる。石川県金沢市から世田谷区へ。昨年、保坂展人区長の記事をきっかけに世田谷の戦争遺跡を調べ始め、世田谷平和マップを作成した。

戦争とインフラ
 戦跡を語る切り口として戦争とインフラの関係を論じたい。
 情報インフラとして海底ケーブルが世界中に張り巡らされている。道路は、江戸時代の五街道を中心に東京から放射状に広がる道路と横につなぐ環状線がある。明治維新後、東京奠都となった。江戸城中心に要人邸・中央官庁・警察・近衛・軍隊の拠点を置いた。世田谷方面は、駒場・駒沢練兵場は旧大山街道(国道二四六号線)沿いに拡大。鉄道は、甲武鉄道が新宿駅まで来て、更にそこから飯田町駅まで延ばすが、東京砲兵工廠と青山練兵場を繋いで、兵器と兵士を戦場に運ぶ狙いがあった。

参考文献 省略

世田谷平和マップ
 昭和30年の白地図にマッピング。作成に際して、加害、被害、抵抗の歴史を入れた。
 駒場・駒沢の練兵場は目黒区との区界にある。本土空襲になると、久我山等に高射砲陣地があった。北烏山近辺は空襲がない事になっているが、高射砲陣地への空襲で寺町が焼けている。世田谷区は調査不足。
 抵抗の歴史。世田谷には、幸徳事件の顛末に怒り、天皇に公開直訴を画策した徳冨蘆花の屋敷があり、今は蘆花恒春園として一般公開されている。成城学園や和光小学校も世田谷。
 最後に、防衛省市ヶ谷記念館建設時に、東京裁判の記録も入れる合意があったが、完成してみたら陸軍士官学校の再現でしかなかった。東京裁判開始70年を期してこれを実現する運動をこれから考えている。
於太子堂区民センター
自作の世田谷平和マップを解説
出発の前に

東海林 次男

千人針を掲げる東海林さん

 配布した資料をもとにこれから回るコースを説明。1930年代の地図には、駒沢練兵場をはじめ兵営の建物が描かれている。この一帯は、民有地と軍用地の境で、「陸軍用地」境界標柱が残っている。また、多くの兵舎は空襲を受けなかったので残り、被災者や引揚者の住居「世田谷郷」となり、1946年、米よこせ世田谷区民大会の会場になった。

世田谷の戦争遺跡を歩く
 野砲兵第一連隊の酒保跡、馬の鞍を作る工場として使われていた世田谷会館、馬魂碑と馬頭観音を観た。
 そこから世田谷公園に向かい、公園内の区立平和資料館を観る。資料館を出て、陸上自衛隊三宿駐屯地正門へ。駐屯地以外に自衛隊中央病院、陸上自衛隊衛生学校、防衛装備庁電子装備研究所・先進技術推進センターの看板がある。世田谷公園や駐屯地、目黒の東山地区までを含むこの一帯は、戦前、駒沢練兵場だった。
 続いて食糧学院へ。校舎横の境界石、ここには糧秣廠があった。その倉庫は今もあり、生活協同組合及びヤマト運輸の倉庫として利用される。
 最後は、駒沢練兵場の排水溝の後を見学。池尻稲荷神社付近で神社から見える駐輪場の中に陸軍境界石が残る。
世田谷韓国会館(旧野砲兵第一連隊兵舎)
旧駒沢練兵場糧秣廠 栄養学校の角にある境界石
ヤマト運輸倉庫
ここは陸軍の排水溝なのか?…
柵の外側の駐輪場の中に陸軍境界石を見つける
1:10000地形図 「世田谷」「渋谷」1983年編集 1984年発行 国土地理院
1930年頃の目黒・世田谷の軍事施設1万分の1「世田谷」 1932(昭和7)年 大日本帝国陸地測量部

上が1983年の地図で、今回歩いたコースが記してある。防衛庁施設研究所、自衛隊中央病院、世田谷公園などとある所が駒沢練兵場、栄養学校とある所が糧沫廠の跡地。
 下が1932年の地図で、中央駒沢練兵場、そのやや上(北側)に糧沫廠が見える。

フィールドワーク感想
省略
イベント情報

省略

戦時下の陸軍軍医学校
―軍陣医学とは何か(後半)

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)

  • 富士山頂
  • 富士分業室の開所式に出席した寺師軍医学校長(左)と小泉医務局長(右)(寺師良樹氏提供)

     富士山頂に航空医学研究所(軍陣衛生学教室富士分業室)があった。1938(昭和13)年8月の開所式には寺師義信軍医学校長と小泉親彦医務局長が出席。

    富士山頂の航空医学研究所(『軍医団雑誌』1938年9月)
     寺師は航空医学の先駆者。大正時代にイタリアの航空医学研究所で勉強、軍医学校長退任後は佳木斯(チャムス)医科大学の校長になる。そこに赴任した吉村寿人に、731部隊の細菌戦の研究を止めるように忠告している。
  • 新潟
  •  新潟競馬場には軍医学校の防疫研究室が疎開し、新潟出張所として使用した。内藤良一が所長。新潟カトリック教会や鍋茶屋という高級料亭も接収。新潟出張所は戦後、東芝系列の生物理化学研究所新潟支所になり、今はデンカ生研という血液製剤などを作る製薬会社に引き継がれている。
     次に防疫研究室の実験場。信濃川上流の大きな中州にできた。七三一部隊にいた金子順一が1944年4月、ここで細菌液の飛散実験を行う(金子順一論文)。風船爆弾に細菌を載せて北米を攻撃する目的で実験をやったのではないか。

    関屋競馬場跡の碑がある関分公園
    防疫研究室の実験場(信濃川の中州)
  • 中山
  •  千葉県船橋市にある中山競馬場に、陸軍軍医学校の防疫部が移転し、血清とワクチンを製造していた。1944年に開設して、10万リットルのガス壊疽血清を作るという指令で、800頭の馬が集められた。
     指令通りだと15000頭の馬が必要になる。無茶な話。
     戦後、中山出張所の器材は千葉県血清製造所に引き継がれ、競馬が再開されると市川に移転、千葉県血清研究所になる。日本脳炎のワクチンなどを生産していたが2002年に閉鎖。赤レンガ倉庫の保存運動があり、一年に一回開放されている。

    中山競馬場のメモリアルゲート
    千葉県血清研究所開所当時の免疫馬の採血(『千葉血清のあゆみ』より)
    閉鎖された千葉県血清研究所に残る段ボール箱
  • 袖ケ浦
  • 花卉栽培場になった旧楢葉実習所

     それから毒ガス演習が行われた楢葉実習場。千葉県の袖ケ浦だが、JR袖ケ浦駅は昔、楢葉駅と言い、その昔は奈良輪村といった。
     楢葉村にキリスト教系の三育学院という学校があり、1944年9月、学校長や牧師が治安維持法違反で全員検挙、三育学院も閉鎖に追い込まれた。
     目をつけたのが陸軍軍医学校で、広い敷地に校舎も農場もあった。校舎は宿舎に、農場では毒ガスの実習を行った。今、その農場は東京ディズニーランドに花を卸している花卉栽培場になった。ちなみに三育学院は大多喜町に移転、存続している。

  • 京都
  •  伏見出張所では石井式濾水機の検定を行っていた。京都には石井式濾水機に使用する濾過筒を生産する松風工業という会社があった。
      橋 本精士は薬剤師として東大の伝染病研究所に出入り、その時に伝研にいた小島三郎からドイツ式の素焼きの濾過筒を見せられ、日本でも作れないかと渡された。橋本は濾過筒を作り、1928年に特許を取得、1930年の化学工業博覧会に出品、それが石井四郎の目に留まった。
     ドイツ式のものは壊れやすく、橋本さんは軍の使用に耐える濾過筒を作り上げ、そのために体を壊し、39年に亡くなる。濾過筒は現在でも横浜の日本濾水機工業で生産されている。
     濾過筒等の部品を集めて石井式濾水機を組み立てていたのが日本特殊工業。日本特殊工業は濾水機だけでなく、衛生機材全般を一手に引き受けていた。七三一部隊が使った素焼きの陶器爆弾も日本特殊工業が納めていた。社長の宮本光一は石井四郎と懇意で、新宿区若松町の土地を石井四郎の自宅に提供。戦後は内藤良一と一緒にミドリ十字を創立している。
     日本特殊工業の工場は品川の埋め立て地にあったが、現在は介護ホームと都営アパートになっている。
     七三一部隊が使った素焼きの陶器爆弾(宇治式爆弾)を生産していたのは佐賀県嬉野市塩田町にある貞包(さだかね)製陶所。その製陶所には本物の宇治式爆弾が一つ保存されていた。
     宇治式爆弾は空中で破裂して細菌の汚染範囲が広がる。これは中国の浙江省や湖南省で使われたようだ。

    化学工業博覧会に出品した濾過筒
    (橋本ひろみ氏提供)
    宇治式細菌爆弾製造に使用した受け皿
  • 渋谷
  • 渋谷分室に接収した救世軍士官学校

     最後に陸軍軍医学校の渋谷分室。内藤良一が乾燥人血漿を作った場所で、渋谷区神宮通二丁目にあった救世軍の士官学校だった。
     血漿には凝固作用があるので、戦傷した人の止血に使われる。粉末状の血漿が重宝される。
     内藤良一はアメリカから真空ポンプを買い、これで血漿を凍結真空乾燥する。今で言うフリーズ・ドライ製法。
     戦後、渋谷分室の器材は東京都の血漿研究所に払い下げられ、日本製薬に引き継がれる。内藤良一は乾燥血漿の技術を利用して日本ブラッドバンクを設立し、朝鮮戦争で米軍が使用した。

    渋谷分室跡に建つ京セラ原宿ビル
     渋谷分室の場所は今、原宿京セラビルになっている。京セラ会長の稲盛和夫さんは、石井式濾水機の濾過筒を生産していた松風工業に戦後入って、そこから京都セラミックという会社を興した。
     軍陣医学は医学の進歩の阻害要因。軍陣医学には「国境」があり、情報は敵と味方で遮断される。そういうことが戦争に勝つために正当化される。

     ご清聴、有難うございました。

(2016年5月6日 加筆修正)

「戦時下の陸軍軍医学校」の反響

寒河江市市史編纂専門委員の宇井啓さんからのお便り2通:内容省略

コラム

平野 利子

 今年は女性が参政権を得て70年、そして18才からになる。悔いのない一票に。

人骨発見27周年 厚労省調査結果公表15周年
縄文時代人骨に関する研究

日時:7月17日(日)
会場:若松地域センター2階第2集会室A・B
講演:富樫 雅彦 さん(武蔵大学講師)

<今年の富樫雅彦さんのお仕事>省略

2016.7.3

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