軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』182号・要約

「縄文時代人骨に関する研究」その②

講演録:富樫 雅彦 さん(武蔵大学講師)

追葬と副葬品
 複数の人骨が墓から発見される事例。
 次に副葬品。ナイフ、垂れ飾りがある男性。集団のリーダー格かも知れない。男性の場合は磨製石器―斧とか、鳥の骨の装飾品。女性の場合は生活用具と装飾品。凹石というドングリ類をすり潰す粉ひきの道具は女性のお墓の中に高い確率で副葬されている。それから大陸性と思われる耳飾りや犬が埋葬されているケースもある。
貝殻が酸性土壌を中和
 人骨が発見される一般的な事例は貝塚遺跡。普通、人骨は土壌の酸性度の関係で溶けて残らないが道具だけは出てくる。
 これは市谷加賀町二丁目遺跡の人骨の出ている状態。白いものは貝殻。縄文時代後期の貝殻が捨てられて人骨が残った。
 それから、軽いマウント(山)上に石が置かれていて墓だという事がわかる。骨が出て間層をはさんで石が乗っかっている。だから石は墓標と説明できる。

脳の容積
 東アフリカのミトコンドリア・イブの出た所の人間は脳の容積が小さい。寒い所にいる人、最後に人類が行き着いた南米の南端の人が大きい。様々な適応努力をしてきた結果、脳の容積が大きくなる。Y染色体遺伝子の系譜で見た拡散の図をみると拡散しながら新しいものに進化している。

市谷加賀町の人骨
 これは国土交通省が最近売っている武蔵野台地のデジタル地形図。市谷加賀町二丁目遺跡から人骨が発見された。谷のこちらに縄文時代の集落が張り付いているということが判ってきている。
 この方は俯せて寝させられている。この人もうつ伏せ。この人は縄文時代後期で頭の部分しか残っていない。埋めた後に頭の上に土器を被せた。このあたりの人骨ブロックは、すでにあった人骨を山状にかき集めている。恐らくこの人を入れるために、前に埋葬された人骨を一か所にかき集めたと解釈ができる。
 こちらの人骨はこの土器が潰れた時と同じ時期で、縄文時代中期。頭蓋骨に土器を被せていた。この人骨を復顔した。この男性、頭を棍棒か何かで殴られているが、殴られても生き続けていたことが、傷に薄い骨膜が覆っていることでわかる。

廃屋墓
 これは廃屋墓。捨てた家に遺体を置いていくというお墓の型式。文京区の千駄木貝塚でも同じものが見つかっている。そこいら中にあった。ネズミの食痕が見られる人骨。これは風葬の習慣があった証拠。
マイルカの腰飾り
 この男性はマイルカの下顎骨で作った腰飾りを付けている。飾りは集団の偉い人だとわからせる印だったと思われる。それが東京湾の千葉県側。この地域の大きな貝塚から一個づつ出てくる。
 彼らは東京湾を自分たちのテリトリーとする漁労集団。貝塚を形成した一集団の長(オサ)がこういうものを付けていた可能性が高い。
 市谷加賀町二丁目遺跡から出てきたマイルカの腰飾りは、千葉の有吉南貝塚遺跡から出てきた人とほぼ同じだが、下顎骨の関節部分がまだ未加工な状態。この腰飾りを付けていた人物を集めて調べると、下肢筋肉が弱い壮年の男性が多い。縄文時代から世襲が始まっていて、そういう人たちは生業から外されている可能性がある。

アイスマン
 こう呼ばれた5500年前の男性がアルプスで見つかった。右肩の肩甲骨の内側に石鏃(せきぞく)が刺さっていた。誰かに矢を射られて傷つき、その後に斧か何かで頭を殴られてトドメを刺さされた。何であんなところまで刺客が来るのか。
歯がすり減っていて、「皮なめし」をしていたと思う。それから刺青が随所にある。これは鍼灸療法のツボに当たっている所だ。とすると、今の東洋医学は5000年前にはヨーロッパでも行われていたという解釈も可能。
 遺体とともに道具も出土している。ブロンズ製の斧(従来の説から1000年くらい遡る)、リュックの骨格と底板、石器を作る加工具、弓矢、矢筒には矢が14本。植物性のひもや束ねられた動物のアキレス腱(弓の弦)、腰に巻いていたポーチには、薬になるキノコ、道具類の錐や石器が入っていた。靴は縄で骨格を作って中に乾いた干し草のようなものをたくさん入れていた。ナイフ、樹皮でつくった丸い筒型の容器もあり、種火か何かを入れて管理していたのではないか。着衣では外套、帽子、股引、前掛け、上着もあり、外套には持ち主が縫い直した補修痕が見える。

最後に
 これまでお話ししたDNA関係は、人類学の篠田謙一先生の一連の研究を参考に、またスティーヴン・オッペンハイマーの『人類の足跡一〇万年全史』(草思社)も参考にした。
 最後に、一つ目は中国の山東半島と同じ耳飾りや指輪が日本の遺跡から出ていること。二つ目は富山県の遺跡から出土した土偶が三つ編みをしていること。それらから、縄文時代中期を中心に大陸系の人たちが日本海側に上陸して、縄文時代の集落に入り込み、今の我々の先祖の一部になっていったのではないか。

ニュース181号の補足資料
181号
推し進められる軍学共同

鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)

 2015年から安全保障技術研究推進制度が始まり、防衛省が資金提供する研究に民間研究者を公募するようになった。防衛装備の集中・一元化を図るために防衛装備庁が発足したのは2015年。同年、装備品の研究開発に大学や研究機関の研究者の知恵と力を導入しようと創設した。大学をはじめ、理研やJAXAなどの研究機関や富士通、三菱重工などの民間企業が応募している。
 日本学術会議では、「軍事目的の研究はしない」と宣言しているが、その方針が大きく揺らいでいる。私たち、戦時中の医学者たちが戦争に加担した歴史を見つめてきた人骨問題を究明する会でも、この問題に無関心ではいられない。

聖教新聞:科学の役割デュアル・ユースの時代に ”人類のため”は時代遅れか
《2016年9月15日(木)》

東京砲兵工廠ウォーク顛末記

鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)

 参加者22名。白山通りから旧後楽園球場跡(ドームホテル)に残された工場の煉瓦基礎、野球博物館(日本に野球を紹介した功績で殿堂入りした正岡子規)、73名の野球関係の戦死者の名前が刻まれた石碑、小石川射撃トンネル跡、諸工伝習所記念碑、東京都戦没者霊苑、更に富坂を西に上り、工廠の西側境界をぐるりと回る。小石川後楽園には、工廠を象った石造りの記念碑などがある。後楽園の正門側に廻り、そこからJR中央線に向かって外堀通りの手前辺りが工廠正門跡。

橋桁のプレートには1904の文字
小石川後楽園内庭の砲兵工廠記念碑
アンケート結果報告
内容省略
歩平先生の志を受け継ぐ未来へ
「歩平先生を偲ぶ会」のご案内

12月4日(日)中野区産業振興センター大会議室

東京陸軍第二造兵廠ウォーク

12月11日(日)13時出発
JR板橋駅東口改札口集合
案内:丸山 洋明
資料代:500円

日本陸軍の武器製造・研究・開発の中心地は水道橋の東京砲兵工廠であった。一方火薬・爆薬については、1876(明治9)年、旧加賀藩下屋敷跡に陸軍砲兵本廠板橋属廠として火薬製造所が操業を開始した。その後板橋から滝野川・十条・王子・赤羽地域にかけては火薬・火具などの製造・保管をはじめとする軍関係の施設が集中し、一大軍都と化していった。
東京砲兵工廠内にあった陸軍工科学校の分校が、1908(明治41)年に板橋に開設される。今回のフィールドワークを前回と重ね合わせると、明治維新後に拡大膨張した軍事大国日本の姿が思い描かれる。

圧磨機圧輪記念碑
弾道検査管
人骨発見30周年プロジェクト 参加者絶賛募集中?

 究明する会では、3年後の30周年を記念して、発見された「戸山人骨」のデジタルデータをはじめ、今までの人骨問題に関する研究の蓄積をまとめた「人骨問題解説DVD」(仮題)を作製予定。実行委員募集。

2016.11.20

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