軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』177号・要約

人骨発見26周年集会講演録その2 常石敬一①
敗戦70年――七三一部隊は何をやったのか

 七三一部隊が何をやったか、部隊関係者が敗戦時に隠さなければいけないと考えていたであろうことについて話す。

8月15日:「特殊研究処理要綱」

 スライド2の「特殊研究処理要綱」の「二.実施要領」には「2、関東軍七三一部隊及一〇〇部隊ノ件 関東軍藤井参謀ニ電話ニテ連絡處置ス(本川参謀不在)」とある。これは七三一部隊と家畜に対する生物兵器の開発をやっていた100部隊の証拠隠滅を図れと、関東軍司令部の参謀に連絡したというメモ。このメモを作った新妻清一さんは陸軍中佐(敗戦時)で軍事課員。彼は1945年8月15日から11月13日までに、関東軍に指示を送ったり、GHQと連絡を取り合ったりしていた。その関係文書ほぼ二ヵ月分がファイルされて、現在「新妻清一所蔵文書(原本)」として防衛省防衛研究所に保管されている。この中に私信も含まれ、ネットで見られるのは表紙だけ(スライド6)。ポイントは、8月15日の段階で、陸軍省は、七三一部隊というのは証拠隠滅が必要な部隊と認識していて、その命令を関東軍に伝えていた。

 スライド3の「1945年8月9日?」について。8月9日ぐらいから七三一部隊の証拠隠滅開始。僕は1973年から89年まで長崎に暮らしていた。8月9日は長崎にプルトニウム爆弾が落とされた日。11時に長崎だが、その6時間以上前にソ連が日本に宣戦布告をした。「平房燃ゆ」というのは、元七三一部隊の部隊員で神戸の溝口さんが、七三一部隊で迎えた敗戦前後の事をまとめた手記。9日午前6時頃、この時石井四郎はハルビンの部隊長官舎におり、太田大佐が関東軍司令官から「重要施設の破壊、証拠隠滅」の作戦命令を受けた。

 8月14日。それまで日本本土その他と行き来していた石井がハルビンの本部に飛行機で帰ってきて、最後の列車が出るから全員それに乗って逃げろ、という指示をする。
 翌15日、敗戦の詔勅の放送。16日午前3時停戦命令。太田大佐は、部隊に対して「我が部隊の証拠となる、典範令、写真、日記帳・等一切足元にて焼却せよ」「分隊長よく監視せよ」と命令。
 8月24日、釜山で「全力を挙げ何も残すな、全部積み込め」と言っている。まだ細菌戦をあきらめていない。その後、溝口さんは、釜山で、石井の命令で細菌戦の道具は海に捨てたと言っている。どこかで書いているものを探しているが、自分たちは負けた。敵に知られないように証拠隠滅を考えた。そのことを具体的に見ていく。

8月16日?:「石井敗戦ノート」

 スライドの4は石井ノートの表紙。これは、石井の身の回りの世話をされていた渡辺さんという方が持っていた、石井から預かっていた手帳。それを青木富貴子さんが2003年に発見。二冊あり、一冊が「1945-8-16 終戦当時メモ」で、1945年8月16日から書きはじめたもの。もう一冊は「終戦メモ」で45年の年末から1946年にかけて。石井は西暦を使っている。ここにどんなことが書いてあったか。

 スライド5の「秘密性の高いものは?」の5つの資料のうち4つが石井のノート。この中で石井が丸を付けているのが、「十二班」、「丸太」、「PX」。それ以外に「ホ号」。それから8月8日、「ソ連対日宣戦布告 十二班ノ破壊」と書いてある。ソ連が戦闘を開始するのが9日。それから「方針 婦女子、病者、及高度機密作業者及××××は万難を排して能う限り速やかに内地へ帰還せしむ」、それから「内地へ出来る限り多く輸送する方針丸太―PXを優先する」とある。

 次にスライド5のもう一つの資料、「尚内藤中佐の意見:タとホ以外、一切を積極的に開陳すべし」という記述。これは1945年11月9日に、増田知貞という軍医大佐から新妻中佐に宛てた手紙の一部で、後から追加で書き込んだもの。増田は内藤が、米軍の事情聴取に対して全部話すが、タとホは別と書いている。新妻は旧陸軍と米軍との折衝にあたっていた。
 PXはペスト菌を体内に持ったノミのこと。ホ号、ホ作は細菌戦。12班というのは人体実験を行うために受け入れる人の健康診断を行った所。丸太は人体実験の被害者たち。つまり人体実験と細菌戦、特にノミをペストに感染させる方法、の試行だけは隠すという事が共通の理解になっていた。

9月?:新妻文書

 スライド6は「北野中将へ連絡事項」。この文書やスライド2の「特殊研究処理要綱」が新妻清一所蔵文書に収められている。ネット(アジア歴史資料センター)では非公開だが、防衛省防衛研究所の図書館で見ることができる。実はこれ新妻さんが持っていたファイルを共同通信の太田さんが見つけて、その前から僕新妻さんとは付き合いがあり、それぞれその資料を利用した。その後、亡くなった新妻さんの意思に従って文書を全部CDにした後で防衛庁に寄贈した。
 この中に入っていたのが「北野中将へ連絡事項」。北野は敗戦翌年の1月9日に上海から日本に米軍機で帰ってくる。その時にこれを渡される。「一.○及『保作』ハ絶對ニ出サズ」。46年1月の段階で、まだ米軍に人体実験の事実、細菌戦―生物兵器を使っていたことはばれていない。「七・八棟」という12班にいた人体実験の被験者が収容されていた監獄は、中央倉庫と説明しろ。田中班はペストの研究をしていたことにする。分らないのは八木澤班。自営農場を使用して、自給自足的な事をやっていたという説明をしろということか。八木澤は、戦後日本で、ペニシリン協会で働く。
 ここのポイントは、1946年になっても人体実験とか生物兵器の試用はまだ米軍にもばれていなかったし、これだけは隠しとうそうという意志がはっきり出ている。それは陸軍全体としての意志だろう。

秘密の暴露

まずPXとか保研・ホ研とか保作・ホ作、あるいはホ号やホという言葉が、いつ出てきたか。PXは、石井ノートでは45年の8月。それから金子順一論文のタイトルが43年の12月14日で、防疫研究報告第一部の論文の第60号。防疫研究報告第一部というのは極めて機密性が高く身内だけでPXという言葉が使われた。
 それからホ号は細菌戦。石井ノートでは45年8月にその記述が出ている。それから金子のPX論文が参考文献としてあげている浅見の「『ホ』号作戦効果情報(昭和18年11月)」のタイトルに出ている。40年11月30日、吉橋参謀から井本参謀へのメモのやり取りの中にも出てくる。
 ホも増田から新妻への手紙の中で内藤の言葉として引用されていた。ホの大陸指発令というのは井本日誌、これが41年。それから長尾参謀から井本、これも参謀間のメモの中でホの実施の現況っていうのが42年8月。「北野中将へ連絡事項」では保研とか保作となっている。この指示はたぶん有末機関が作ったもので、内藤等に聞いて作っている。PX、ホ号、ホ…これらの言葉を使っているのは皆軍人。部隊の中でも笠原四郎など民間から来ている技師たちは使っていない。
 今度はスライド8の12班、タ、それに○。これは人体実験についてで、まず石井は12班というのを石井ノートで言っている。実はこの12班というのがよく分らなかった。分ったのは甲斐手記―帝銀事件の捜査日誌。1948年、帝銀椎名町支店で12人が青酸化合物で殺された事件で、甲斐捜査係長が、毎日の捜査会議のメモを取っていた。甲斐手記を通じて、12班が人体実験の被験者になる人たちの健康管理をする、受け入れの部門だったことがわかった。だから12班を石井は一番気にしていた。

金子①?⑧&平澤1?4の博士論文

 金子順一の博士論文。表紙には「金子順一論文集」(昭和19年)の記述があり、さらに秘の印が捺されている(スライド9)。UT51-医29-197の請求番号で国会図書館に請求すると読める(関西館からの取り寄せ)。主要論文が①の「雨下散布ノ基礎的考察」で、非常に基本的なもの。元々は陸軍防疫研究報告第一部41号。出版されたのは1941年8月11日。もうひとつが③の「PXノ効果略算法」。これは同じく第一部60号。③、⑤、⑦の論文タイトルに出てくるXは全部ノミ。
 8つの論文で博士論文になる。これを東京大学に金子が申請したのは敗戦の前年44年12月15日。東京大学が博士号を出すのは49年1月10日。
 東大の先生が審査したとき内容が本当に分かったのか。みんな今日は奈須さんの話を聞いたから、PXがぺストノミと知っている。この論文にはPXの説明がない。通常論文書くときに、独自の言葉には意味を定義するが、それがない。それなしにこれがドクター論文として受け入れられる。伝統的に日本というのはドクター論文なんてきちんと読まないのか。審査委員たちは提出された論文をしっかり読み中身を理解していたのか、あるいは審査が形骸化していて、読みもせず博士号を出していたのか。実態は後者だと思っている。

 次にスライド12の平澤正欣のドクター論文。この博士号は京都大学医学部で1945年9月26日に認められた。彼の論文は「『イヌノミ』Ctenocephalus canis Curtisノ『ペスト』媒介能力ニ就テノ実験的研究」(満洲第七三一部隊〔部隊長 陸軍軍醫中将 石井四郎〕陸軍軍醫少佐 平澤正欣)で、国会図書館の図書請求番号はUT51-60-Q534。スライド12には、「発症さるハ、(ペストノミの)付着後、六~八日経テ頭痛、高熱、食思不振、…」頭痛を訴えた、サルが?。こういう人体実験をやっていることがみえみえの論文でドクター請求をして学位をもらっている。
 平澤正欣は45年の5月31日に博士論文を京都大学に申請、10日後飛行機事故で死亡、その後博士号授与。主論文は「イヌノミ」に関する論文。参考論文4本(スライド14及び15の1?4)。お腹を空かしたノミの能力。手足のないノミの能力。ばらまいたノミはどう生息するか。ペストに汚染されたノミをつくるためのネズミの運動制限、なんていうことを、44年3月20日付でぞろぞろと発表している。

金子①?⑧&平澤1?4の博士論文(スライド14および15)
(金子の論文が①~⑧。1から4までが平澤の論文。)
  1. 結論:要之蚤は飢餓によりてペスト媒介者としての能力減少する事なく、餓死直前まで完全なる能力を発揮す。→空腹なのでヒトに取りつきやすい?
  2. 第5章総括:蚤が強大なる風圧による機械的衝撃、或いは爆弾炸裂時の爆風圧により障害を受けたる場合於ける蚤のペスト伝播者としての能力に変化を調査する為、実験的に小顎鬚を第2関節……
  3. 平坦地面および雑草地で生存期間が長いのは、ノミの背光性により草陰や土砂の間に入り込むためと推測。アスファルト、ガラス、おがくず、屋根瓦、板……は上記2つより劣る
  4. ペスト菌を持った蚤を作るにはペスト菌を保有したネズミの血を吸わせる方式を採用していたが、そのネズミの四肢を切断することが一番効率的。従来の金網籠収容法は四肢切断法に劣る。
    • ② 100mの低空飛行から液体70l.を雨下、進行20mの所の水滴の径は0.5mmだが水滴数は最大、30mでの径は1.0mmで体積は最大。分裂総数10億個と推定
    • ⑤ 落下は流体のような動きとなり、性別や個体大小に影響はされず、落下抵抗は主に足に依存することが分った
    • ⑦ 野外実験は無理なのでいくつか仮定・前提をおいての試算。5,000mだと100kgのX(ノミ)。1,000mだと10kgで足りる。低空の方が有利、という結論
    • ⑧ 細菌液を充填した細菌爆弾の火薬の問題。液体をどう変化させられるか:効果を上げるには、中心管内および弾頭内装填を併用する必要がある

(次号へ続く)

佐倉朔先生 一周忌追悼

内容省略

市報さがえ「SAGAE」

2016年 No.1645 1月5日号 より転載

軍医学校の疎開に関する記事

「フィールドワーク 東京大学と戦争」参加記

安松 狢

 参加者24名。学徒動員についてわだつみのこえ記念館で高橋武智理事が説明。その他1942年の日本医学会総会と七三一部隊の関係。医学部本館標本室に収められている猟奇的な標本類について、など。

わだつみ会と展示物を説明する高橋さん(左の写真、右から2人目)
わだつみのこえ記念館内
アンケート結果報告
内容省略
お花見ウォーク

4月3日(日)「毒ガス戦と人骨問題」13時出発
JR総武線大久保駅北口~
案内:鳥居
「戦時下の陸軍軍医学校」18時15分~
戸山生涯学習館2階学習室C
講演:川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)
資料代:500円

最新考古学講座

【講師】富樫 雅彦(武蔵大学講師)「縄文人骨について」(午後2時~4時)
第1回目:1月30日(土)、第2回目:2月13日(土)、第3回目:2月20日(土)
【会場】新宿区立教育センター中研修室(新宿区コズミックセンター5階)
【問合せ】中央図書館 資料係 03-3364-1421

【備忘録】

フィールドワーク案内(大久保~若松河田)
神奈川県歴史分科会史跡踏査委員会 参加者29名

2016.1.24

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