軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』178号・要約

戦時下の陸軍軍医学校

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)

 「人骨」が発見されて27年を迎える。10年後ぐらいに敬蘭芝さんが新宿区役所を訪れて、「人骨」の保管状況を尋ねた。その後、新宿区は段ボール箱から桐の箱に移し替えた。

 七三一部隊は人体実験で使用した被験者を「丸太」と呼んだ。戦争は人を人と見ない。軍医も同様である。陸軍軍医学校とは医師をそのような軍医にする学校であった。多くの軍医は戦地で手の施しようのない兵を呆然と眺めていた。空襲と本土決戦を前に陸軍軍医学校は各地に疎開、山形で軍医の早期養成に携わり、千葉や新潟で血清やワクチンの増産に励んだ。石井四郎が起死回生の細菌攻撃を夢見る一方、稲垣克彦はペニシリンの自主開発に賭けていた。敗戦と同時に文書を焼却され、証拠隠滅が図られた。

 陸軍軍医学校は1886年の陸軍軍医学舎の発足を起点とする。戦争の拡大と軌を一にして肥大化している。

 病理学専門の平井正民軍医大佐は「軍陣医学」とは「戦争に勝つということ、又は与えられた任務を遂行するという考えの方が強く、…作戦の都合で…(患者の)処置を無理に考えなくてはならない」と述べている。

 軍医学校の乙種学生は学校を卒業し医師免許を取得した学生を軍医にするためのものだが、当初、定員が100名、教育課程が一年であったものが、1944年12月に入学した二十五期の学生数は380名に達し、教育期間も五ケ月に短縮される。医師も消耗品扱いになった。

 敗戦前後の陸軍軍医学校の出先機関と疎開先を見る。多くは山形県に疎開しているが、山梨・新潟・千葉・京都など多岐にわたる。私の調査はまだ終わっていない。訪問調査をしたのは、山形市、寒河江市、大江町、甲府市、新潟市、船橋市、市川市、袖ヶ浦市、大多喜町、京都市、渋谷区など。山形県大江町では玉川旅館の御主人で大江町元収入役の井上捷三さん、本郷東小学校元校長の鈴木孝雄さん、寒河江市では教育委員会の保科文俊さん、市史編纂専門員の宇井啓先生と木沢良一さん、新潟市では「新潟県と731部隊」足跡調査委員会の事務局長だった木村昭雄さん、新潟カトリック教会のRaul Valadez(ラウール・ヴァラデス)神父、梨園「佐久間」の佐久間勉社長、市川市では千葉県血清研究所元職員の島田行信さん、富士分業室では寺師良樹さんと富士山測候所を活用する会の中山良夫さん、土器屋由紀子さん、ペニシリン委員会では森永製菓三島工場の十倉康充工場長、濾過筒では日本フィルター(株)の橋本ひろみ社長、日本濾水機工業(株)の橋本祐二会長、楢葉実習所では三育袖ヶ浦キリスト教会の小原望牧師と三育学院図書館の相川由紀夫さんなど各地の学校職員、図書館職員の方には大変お世話になりました。

(2015年12月25日)

2016年お花見ウォーク特別企画
講演会:戦時下の陸軍軍医学校

日時:4月3日(日)開場18時~ 講演18時15分~20時
会場:戸山生涯学習館2階C学習室
講演:川村 一之(元新宿区議、人骨問題研究会代表)
参加費:500円

人骨発見26周年集会講演録その3 常石 敬一②
敗戦70年――七三一部隊は何をやったのか
二つの博士論文の中身
 金子論文と平沢論文を見る。
 平澤のドクター論文は、イヌノミがペストを媒介するかどうか。さっき奈須さんが、ペストの媒介昆虫はケオピスネズミノミと説明してくれたが、それ以外にイヌノミもペスト菌を媒介できる事を人体実験で証明したのがこの博士論文の主論文。その他の4本は副論文。ところが副論文では兵器として効率よくペストノミを作るためどうするか。そのためにネズミはどうしたらいいのか。こちらは全部ケオピスネズミノミの話で、主論文だけがイヌノミの話。これでも京都大学はドクターを出す。

 次に、金子の論文。各論文は、流体を高いところから落とした時の広がりなどに関する研究で、これらが発表されたのはすべて44年。川村さんから風船爆弾との関連を指摘された。実際に風船爆弾は44年11月から第一号が飛び始める。こういうデータは七三一部隊にとって、風船爆弾に積み込んだ時の基礎データにもなり得ただろう。風船爆弾は高度一万メーターぐらいのところを飛んで行って、米国の陸地に到達すると高度を下げ千メートルぐらいでちょうど破裂するようになっていた。

おわりに
 平澤正欣の博士論文は明らかに人体実験。ドクターの請求をしたのは1945年5月。その後8月15日に敗戦の詔勅、9月2日に停戦を受け入れる。で、京都大学がドクターを出したのは敗戦直後の9月26日。今話しているのは七三一の問題ではなくて、戦後日本医学界というのは一体どうなっているのかということ。金子の博士号は44年12月に申請して、東京大学が博士号を出すのは、4年後の49年1月10日、もうすぐ朝鮮戦争が始まる頃。何でこういうものが博士号として通ってしまうのか。戦後日本の医学界ってどうなっているのか。

 例えば物理学は、名古屋大学物理学教室の坂田昌一さんの研究室なんかを中心として、戦後、上下関係のないフラットな研究者同士の教授も大学院生も自分の能力に応じて対等に話ができるような研究室をつくってきた。それに対して、医学界ではずっと白い巨塔のようなものの存在が言われてきた。

 戦後の日本医学界ひいては日本社会はどうなっているのかということを、金子と平澤のドクター論文を一つの軸にしながら考えていきたいと思っている。 (了)

2015年7月19日

2016年お花見ウォーク 第1部

期日 4月3日(日)13時~16時30分(予定)
資料代:500円
集合:13時出発
場所:JR総武線大久保駅北口改札口
コース:陸軍科学研究所 ⇒ 陸軍軍医学校

【栃木】過去から未来への教訓に
谷中廃村の記録映画「鉱毒悲歌」が環境大賞

東京新聞:《2015年11月11日》
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/list/201511/CK2015111102000194.html
※2015年時点での情報で、現在はリンク切れです。(2020.06.04)

2016.3.26

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