The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College
奈須 重雄(NPO法人細菌戦資料センター理事)
テーマは、七三一部隊の細菌戦とその被害。材料は、金子論文と参謀本部参謀の井本熊雄さんの日誌と細菌戦裁判の資料、高橋正彦の農安・新京のペストに関する報告書の4つ。
金子論文は、金子順一が博士論文として東大の医学部に出した「PXの効果略算法」という論文。1938年から細菌戦の理論面の研究を始める。論文は「陸軍軍医学校研究報告」という公文書。
この論文の「既往作戦効果概見表」で、細菌戦が行われた場所も日付もはっきり示した。ただし、被害者数は多すぎて疑問が残る
金子の略歴は、七三一部隊から東京の陸軍軍医学校防疫研究室、登戸研究所も兼任していました。戦後は主に武田薬品工業でワクチン部門の製造・研究に勤務していた。
今までは細菌戦に関しては、参謀本部の参謀や陸軍省医務局の日誌に散見される。それを吉見先生と伊香先生がまとめて発表された。
朝目的方向ノ天気良好ノ報ニ接シ97軽一キ出発
〇五三〇出発、〇六五〇到着。霧深シ。H〔高度〕ヲ落シテ捜索、H800附近ニ層雲アリシ為1000m以下ニテ実施ス(増田少佐操縦、片方ノ開函不十分、洞庭湖上ニ函ヲ落ス。
アワ〔ペスト感染蚤〕36Kg、其後島村参謀捜索シアリ。
常徳附近ニ中毒流行(日本軍ハ飛行機一機ニテ常徳附近ニ撒布セリ。之ニ触レタルモノハ猛烈ナル中毒ヲ起ス。)
猛烈ナル「ペスト」流行、各戦区ヨリ衛生材料ヲ集収シアリ。
「命中スレバ発病ハ確実」
広信 Px(イ)毒化ノミ。
(ロ)ノ鼠ニ注射シテ放ス。
廣豊(イ)
玉山(イ)
(ロ)
(ハ)米ニP〔ペスト菌〕ノ乾燥菌ヲ付着セシメ鼠―蚤―人間ノ感染ヲ狙フ
江山 C?井戸ニ直接入レル。
?食物ニ付着セシム。
?果物ニ注射。
常山 右同〔同上〕
衢県 T、PAノミ
麗水 T、PAノミ
『井本熊男業務日誌』(吉見義明鑑定書「日本側の文書・記録にみる731部隊と細菌戦」より)
常徳は1941年。1942年には浙韓作戦終了後に、広信、廣豊、玉山の三地域に細菌撒布。これが井本日誌等に書いてあり、中国側の資料も併せて間違いないと言われていた。浙江省の衢県と麗水にも撒いた。
1997年から10年間裁判が行われた。この中で第一審の時に判決の中で確定された細菌戦の被害。
湖南省の常徳では現地で調査委員会によって被害者名簿がつくられている。
金子の表に、筆頭に農安と書いてある。二番目に農安・大賚とある。農安についてはある程度分かっていたが、農安大賚に関しては、この論文が出るまで、誰も知らなかった。私は今のところここに非常に関心があって調べている。
地図に示したのは、ペストの常在地帯。この地域を二つに分けてペストの調査所が設けられた。自然流行は鼠が感染して蚤が媒介して人に伝染するので、旧満州で六月くらいから発生し始める。それ以前から春になるとペスト調査所の人たちが農村中心に予防接種を始める。線路図を見ると調査所があった前郭旗、更に行くと大賚がある。何でこんなところに細菌戦をやったのか?
ペスト班の班長・高橋正彦論文が農安のペスト流行についての報告書にいろいろな調査結果が書かれている。調査データを出したいがために、細菌戦をやったと想像できる。
農安の県城には日本人もいた。そういう所にも平気で細菌戦をやる。データを取るために。
『高橋正彦論文集』(陸軍軍医学校防疫研究報告)
『昭和15年農安及新京ニ発生セル「ペスト」流行ニ就テ』等
もう一つ重要なのは、ペストのワクチンはこのとき未完成。ペスト調査所の人はもうその何年も前からワクチンを接種している。大野外実験だ。
私たちが現在まで把握している被害者数と金子さんが書いた被害者数に大きな開きがある。この開きをどうやって埋めていけばいいのかなあと思っている。細菌戦裁判が行われたときに調査グループが現地でいくつかできて、非常に頑張っているが、当時に比べたら今は調べる人がいなくなってしまった。そういう形で裁判の結果と金子論文の数の溝を埋める作業がどうやったらできるかということを非常に悩んでいる。
(以下、次号に続く)
鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)
9月27日(日)、中野駅北口に集まった25名の参加者は、徳川時代の犬の保護施設、「お囲い」から陸軍電信隊・気球隊の跡地であり、その後陸軍中野学校が設置されたことを学んだ。
そこから豊多摩監獄に向かう道筋に、旧野方警察署の跡地を発見する。ここは反戦川柳家・鶴彬が監禁され赤痢を発症した場所。川柳家・高鶴礼子さんから事の顛末を伺う。
豊多摩監獄は、正門と塀の一部が法務省矯正管区矯正研修所内に残っている。今回は、小林多喜二が豊多摩監獄に収監されていたこともあり、「多喜二奪還研究室」の藤田廣登さんが参加、監獄に関する詳しいお話を伺うことができた。
その後、平和の森資料館、百観音明治村の戦跡、丸山塚公園の古戦場跡を経て山崎記念中野民俗資料館で解散。
鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)
今年は、東アジア近現代史連続セミナー、生協パルシステム東京 レッツゴー!ピース委員会、神奈川県歴史分科会史跡踏査委員会の三団体から依頼。今回は、「生協パルシステム東京 レッツゴー!ピース委員会」の感想を紹介。
岡野 美佳(生協パルシステム東京 レッツゴー!ピース委員会)
昨年に続き二回目の新宿フィールドワークを、参加人数16名で10月7日に行った。
陸軍戸山学校、陸軍幼年学校、将校集会所、軍楽隊演奏場、陸軍軍医学校防疫研究室などの跡地を回った後、納骨施設ではお花を供え、陸軍軍医学校跡地を回った後、若松町の住宅街をぬけて、座学の時間も取る。七三一部隊そのものについてももう少し聞きたかった。鳥居さんに感謝。
場所:陸軍軍医学校跡地・人骨発見現場
案内料:5000円/1回
参加人数:40名まで
※2015年時点での情報です。最新情報は『ガイド派遣』のページをご覧ください。
京都新聞夕刊:医学者が問う731部隊 研究会が論文集《2015年11月5日》
読売新聞:ネットニュース《2015年11月07日》
毎日新聞都内版:2015年01月30日
佐倉朔さん 85歳(さくら・はじめ=人類学者、元札幌学院大教授)27日、肝不全のため死去。
川村 一之(元新宿区議会議員)
人骨問題で功労者の名前を三人挙げるなら、鑑定を決断した当時の山本克忠新宿区長と人骨の保管に尽力した厚生省の岡田誠治課長補佐、そして人骨の鑑定を行なった佐倉朔さん。
佐倉さんの思い出は尽きないが、最期になったのは財務省が軍医学校跡地の発掘調査を行なった夏。私は、四肢骨に注目した。
人骨の「四肢骨」についてはあまり注意を惹かなかったが、佐倉さんは鑑定で「防腐処理がなく軟部が付着していた可能性が大きい」と指摘し、人骨の会の集会では「軟部がないから分からないが、想像すると凍傷実験の可能性が考えられます」と述べられていた。
奥様のはがきで、佐倉さんが今年の一月に亡くなられていたことを知り、ここに人骨問題究明へのご尽力に感謝するとともに今後も人骨問題の究明に取り組んでいくことをお誓い申し上げる。
2015年10月20日 記
日時:12月6日(日)12時50分集合 13時出発
集合:東京メトロ丸ノ内線本郷三丁目駅改札口
資料代:500円
佐倉朔先生の追悼文を募集
2015.11.15
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