軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』197号・要約

【人骨発見から30年】人骨問題はどこまで解明できたか

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)

  • プロローグ

     2000年3月14日、金田誠一衆議院議員は、厚生省が作成した「人骨の由来に係る調査の概要」を入手、その文書に基づいて丹羽雄哉厚生大臣、額賀官房副長官に迫った。

     この日、衆議院厚生委員会の委員長代理を務めていたのが安倍晋三衆議院議員である。

  • 「人骨」発見

     「人骨」が発見されたのは1989年7月22日。世はバブル景気の最盛期。円高と地価高騰という税収増加の中で国家的なプロジェクトが始動。新宿区でも、防衛庁本庁舎の市ヶ谷移転、国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)の戸山移転が次々と実施された。

     7月の参議院選挙で自民党は歴史的敗北し与野党逆転。「人骨」はその投票日の前日、陸軍軍医学校跡地であった国立予防衛生研究所の建設現場で発見される。

     国際社会を見ると戦後処理や戦後補償を求める運動は東西の冷戦終結を契機に活発化した。

     中国では1982年の日本の教科書問題以降、愛国教育の必要が叫ばれ、1985年、南京の「大虐殺殉難同胞紀念館」とハルビンの「731部隊罪証陳列館」がオープンし、盧溝橋の「中国人民抗日記念館」も1987年に開館した。

     陸軍軍医学校跡地で発見された「人骨」は戦争責任や戦後補償を求める内外の注目を集めた。

  • 発見当初

     「新宿区の学芸員で埋蔵文化財の調査を行なっていた富樫雅彦のメモには、7月24日11時30分、牛込警察において建設省と厚生省、牛込警察の3者が取り扱いを協議したとある。

     厚生省はその後、身元不明で引き取り手がない人骨は新宿区で焼骨、埋葬してもらいたいとして、新宿区による身元確認調査の要請を断った。

  • 新宿区の対応

     新宿区の文書によると新宿区が人骨発見を知ったのは牛込警察から電話のあった7月24日午後4時30分。記者発表をしてから新宿区に連絡したことになる。

     富樫は人骨発見当日の7月22日、「新宿区の歴史博物館にいたら、午前10時に現場の遺跡調査会調査員から人骨が出たとの報告を受け、すぐに現地に行った。10時30分頃に現場に着いたら、人骨が発見された場所には土がかけられた後だった」という。

     富樫は現場に到着した建設省と厚生省の職員に、「人骨の対応については江戸時代以前の場合は遺跡調査会で対応するが、20年以内なら牛込警察、それ以前なら新宿区(厚生部・保健所)の対応となることを差配した」とも語っている。

     7月25日、福祉課長の根岸紘一は「歴史博物館の莇館長から電話で『戸山で発見された人骨は厚生部福祉課が担当になった』との連絡を受けた」と語っている。人骨が埋蔵文化財ではなく、事件性もないと確認され、埋蔵文化財を担当していた教育委員会から区長部局へと担当が代わった。

     発見物は「白骨35体及び骨片」とあり、引き取った人骨は31体で他の4体は引き続き鑑定を行うために警視庁科学捜査研究所に送られた。新宿区の職員が人骨発見現場で人骨を引き取ったのは26日で、「公営社」(葬儀社)に保管を委託した。

     牛込警察による24日の記者発表で翌日の25日にマスコミが報道、「人骨」は731部隊による人体実験の犠牲者ではないか、と憶測を呼んだ。

    牛込警察の記者発表は以下の通り。

    【 記者会見(要旨)】
     新宿区戸山1―23 厚生省戸山研究庁舎(仮称)建設現場において、人骨35体が検出された旨、7月22日午後6時45分、建設省より牛込警察に届け出があった。検出人骨の年代等については、現在、科学捜査研究所で鑑定中である。
     なお、当該地は、江戸時代尾張藩下屋敷であり、戦前は陸軍軍医学校であった場所である。

     新宿区の広報課長だった金子義和は「最初、広報課は人骨問題の会議に入れてもらえなかった。マスコミから問合せが寄せられるので、厚生部に聞きに行った。その頃、『眉間に穴が開いた人骨がある』と聞いていた。新宿区は人骨を公開しても良いと考えていたが、警察や厚生省は非公開で新宿区が保管せよという立場だった」と語った。

  • 人骨鑑定

     新宿区は再三、厚生省に人骨の身元確認調査を依頼するが厚生省は拒否を貫いた。業を煮やした新宿区は8月10日、直接鑑定を委託し、その調査結果を公表する方針を決定した。

     しかし新宿区が鑑定を依頼するまでにまる2年が経過した。担当していた根岸は「佐倉さんに鑑定をお願いしたとき、本館(注:上野の国立科学博物館本館。当時、佐倉朔は新宿分館の人類研究部で執務)から断られたり、北里大学でも似たようなことがあった」と語っている。

     ようやく鑑定が委託されたのは1991年9月9日、鑑定結果が発表されたのは1992年4月22日。小野田隆新宿区長は鑑定結果の報告で「第731部隊の生体実験との関連性は見いだせなかった」とし、新宿区としては墓地埋葬法を準用して、埋火葬する方針だと述べた。

     新宿区はこの方針に基づいて毎年、埋火葬の予算を計上したが、住民からの人骨焼却差し止め訴訟があり、実際は厚生省に結論を預ける形になった。

     というのは、鑑定結果公表前の2月27日、山下徳夫厚生大臣は衆議院厚生委員会で鈴木喜久子議員の質問を受けて、厚生省が土地管理者の立場から人骨の由来調査に着手すると答弁した。

  • 攻防

     2000年3月に金田誠一衆議院議員が厚生委員会で人骨問題の質疑をしてまもなく、小渕恵三首相が脳梗塞で緊急入院、後継総裁及び首相に森一郎が選ばれ、総選挙後の7月4日に発足した第二次森内閣で、安倍晋三議員は内閣官房副長官に就任した。

     その直後の7月19日、金田議員の事務所で厚生省の調査状況を聴く機会があった。

     担当の中垣企画官と岡田課長補佐は「新宿区が保管している14個の桐箱に入っている人骨を確かめた。いくつか取り出して見たが、佐倉鑑定の通り、頭蓋骨が多かった」と人骨の状況を語った。そして、「これまでの聴き取り調査やアンケート調査などの確認が終わった段階で、報告書をまとめた。報告書を出すが、骨の取り扱いについては触れない」いう報告だった。

     これでは「戦後処理」の観点からの調査は覚束ないと考えた私たちは、8月7日、金田議員と角倉秘書、そして常石代表と私が森首相あての要望書を携えて首相官邸の官房副長官室を訪問、3月14日の厚生委員会の質疑を踏まえて、内閣として人骨問題を戦後処理の一環として、調査を継続するよう要請した。安倍氏は人骨の写真を注意深く眺めていたが、結論は「厚生省の調査報告が出た段階で検討する」というものだった。

     厚生省はその後、安倍官房副長官の決済を受けないと調査報告を公表できなくなった。

     2000年12月19日、最高裁は区の焼骨を認める判決を下した。

     新宿区は焼骨埋葬するか否かは国と協議の上決めることとしたいとするコメントを発表した。

  • ジュネーブ条約と731部隊

     問題は、捕虜等の取り扱いを決めたジュネーブ条約違反と731部隊との関連であった。

     新宿区の福祉部の布施一郎管理課長は「区の議会においては、ジュネーブ条約違反の可能性を指摘されている」と指摘した。

     ジュネーブ条約(第一条約)の第十五条〔死傷者の捜索、収容〕には「紛争当事国は、常に、特に交戦の後に、傷者及び病者を捜索し、及び収容し、それらの者をりゃく奪及び虐待から保護し、それらの者に充分な看護を確保し、並びに死者を捜索し、及び死者がはく奪を受けることを防止するため、遅滞なくすべての可能な措置を執らなければならない」と、占領者による死者への人道的保護を要請している。

     これに対し、厚生省は「ジュネーブ条約違反問題については、外務省」と答え、ジュネーブ条約違反に関する問題はこれ以降に問われることはなかった。

     731部隊との関連について、厚生科学課は、石井部隊から運ばれたという証言は、いずれも伝聞にとどまり、「これ以上の調査は不可能である」と答えた。

     厚生労働省報告が出される直前、厚生省は金田議員に報告書の内容を説明した。

     報告書には第1に人骨は陸軍軍医学校が埋めた可能性が大きいこと、第2に標本類は外国から持って来たことを否定できないこと、第3に報告書には731部隊関係の証言やアンケートの回答なども全部記載すると説明した。下田審議官は新宿区から要望の強い人骨の引き取りについても、国で引き取って保管場所の納骨施設をつくって保管するとはっきり述べた。

  • 厚生労働省報告

     厚生労働省による「人骨の由来調査」が公表されたのは2001年6月14日。その方針に従って国立感染症研究所内に保管施設を建設し、翌年3月27日に納骨式が行なわれた。

     新宿区が行なった佐倉朔札幌学院大学教授による鑑定でわかったことは、人骨は複数のモンゴロイドに属していることと、頭骨に人為的な加工の痕跡が認められたことである。そしてその頭骨は「筋肉、脳眼球等の軟部」が伴っており、ホルマリンで固定された生首の標本である可能性が指摘された。

     厚生労働省の調査では医学標本は陸軍軍医学校の臨床講堂や図書室の標本室、防疫学教室や軍陣病理学教室、記念講堂、防疫研究室などにあったとされている。これらの標本類はどこから集められたのであろうか。厚労省は「軍陣医学材料として戦地から運ばれた戦死体から作成された頭部戦傷の標本等があった可能性」を指摘している。

  • 731部隊との関連

     厚生労働省の調査報告に「人骨」と731部隊との関連を指摘する関係者の証言も多くある。

     厚生省の調査に応じたか否かは承知していないが、軍陣衛生学教室の教官をしていた上田篤次郎は新宿区医師会誌(1992年7月10日)に「軍医学校の復員業務を担当した経験から言うと、これ等の人骨はハルピンの731部隊から、標本又は標本材料として未処理のものも含めて、送って来たものが、八角講堂(注:臨床講堂のこと)地下室付近に保存されていたもの」との見解を表明している。

  • 軍陣病理学教室

     厚生労働省の報告にあるように標本類は陸軍軍医学校の病理学教室で扱っていた。『大東亜戦争陸軍衛生史』(巻6)に病理学教室は肉眼標本を作製し、記念館講堂前の展示室に展示し、教育的効果を挙げたとの記述がある。

     同教室の平井正民軍医中佐は1941年の第31回日本病理学会総会において特別講演を行い、「事変勃発の昭和12年7月11日より昭和15年7月10日に至る間、全軍の解剖数は1886体にして、特殊研究班の218体を加算すれば約2000体に達す」とその成果を強調し、2000体のうち、200体は軍医学校に送付されたと述べている。

     また731部隊との関係では、「(戦疫に就いて)特に石井少将を主任とする防疫部を設け、戦疫の研究を行い、佐藤中佐(注:南京栄1644部隊にいた佐藤大雄軍医か)(を)主として其(の)病理解剖的分野を担当するを以て玆には二、三の標本を供覧する」と述べて、防疫給水部隊で作製した感染症関係の標本を病理学会総会において展示していたことがわかる。

     平井軍医中佐は「支那事変」において自ら行なった「野戦に於ける軍陣病理学作業」を軍医団雑誌(1938年8月)に投稿し、「敵屍体の病理学的調査を行うことによって」「皇軍兵器の性能」を調べる主旨で、敵屍体の死因を調査する特別な病理調査班を編成して衛生兵とともに行動することを提唱した。

     報告書のアンケート調査に「戦場に遺棄されている多数の中国兵戦屍体の中から、主として頭部戦傷例を選別し標本として、持ち帰ったものと聞いている」との回答が2通ある。

     奥村辰夫軍医は『陸軍軍医時代』(1982年8月14日)という回想録に、事変以降、平井正民らと病理学的研究を任務として天津から太原まで従軍、病理研究用資料を軍医学校に運ぶ役目を仰せつかった、と記述した。奥村は生前、人骨発見の報道に触れて、妻に「あの人骨は中国の囚人の骨だ」と語っていたという。

  • 軍医学校跡地の発掘調査

     厚生労働省の調査報告にある標本は「今回発見された場所だけでなく、近隣の何カ所かに埋めたと聞いている」と回答したのは元看護師の石井トヨであった。2006年6月5日、その証言をもとに防疫研究室の西側と整形外科教室の前庭を特定し、発掘調査を行うよう厚生労働省に求め、川崎二郎厚生労働大臣と石井元看護師の面談が実現、川崎大臣が調査することを約束した。

     厚生労働省は国立医療センターの戸山5号宿舎となっていた防疫研究室の西側を2011年4月~6月に調査を行ない、旧陸軍・旧陸軍軍医学校で使用されていたと思われる陶器と明治から昭和時代の物と思われる建物の基礎、瓦礫及びコンクリート片を発見した。

     財務省は国家公務員宿舎となっていた整形外科教室の前庭を2012年2月~3月に発掘調査、夥しい陸軍軍医学校時代の備品類、試薬ビンや注射器に大量の試験管などとともに整形外科と関連する義足や石膏模型、コルセットなども発見された。

     しかしいずれの調査においても人骨などの標本類は発見されず、人骨の身元確認に至る資料も見つからなかった。

     ただ、佐倉鑑定で明らかになった人骨の鋸断痕のある四肢骨は骨折や病変などの痕跡がなく戦傷者の切断手術としては不自然であり、整形外科との関連性は深まった。

  • エピローグ

     「人骨を戦後処理問題としては扱わない」という人骨調査報告書の内容に安倍官房副長官による何らかの関与があったと考える。

     厚生労働省の調査が報告されたのち、金田議員は、中国の731部隊犠牲者遺族からの申し立てにどのように応えるのかという質問主意書を提出した。政府は「お尋ねの申立書に対しては、人骨を保管する立場から厚生労働省が対応する」(2005年6月21日)との答弁書を閣議決定、人骨問題の窓口は厚生労働省と確定した。

     さらに人骨の身元確認調査について、舛添厚生労働大臣は、郡和子議員の質問に対して、「さらなる技術革新その他の手を用いて、できるだけ身元確認につながるような努力を今後とも続けていきたい」(2008年5月14日 衆議院厚生労働委員会)と答弁している。

     私たちは、この答弁に基づいて、安定同位体比検査やミトコンドリアDNA鑑定を実施するように要望している。そして、厚生省による聴き取り調査とアンケートの調査票に対する回答書の情報公開を求めていきたい。

(元新宿区議会議員:2019年6月2日 記)

報告

故石川久枝さんの貢献に対し、ウィズ新宿から図書券が送られた。

お花見ウォークアンケート結果追加分

内容省略

新聞記事:訃報

遺骨鑑定第一人者楢崎さん死去 『戦争犠牲者に人道尽くす』貫く
112万人の遺骨 いまだ帰らず

産経新聞:《2019年5月20日》

フィールドワーク 陸軍中野学校と豊多摩監獄

6月23日実施

人骨発見30周年記念イベント 人骨は訴える

7月19・20・21日実施

詳細

急報

代表交代 : 常石 敬一 → 川村 一之

2019.6.20

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