T はじめに
U 調査にいたるまでの経過
1.人骨発見前 2.人骨発見当時 3.それ以降の経過
V 実施した調査の概要
1 聞取調査
日 時 平成4年10月〜平成5年2月
対象者 旧陸軍軍医学校関係者 10人に依頼
結 果 人骨の由来については不明
2 郵送調査
日 時 平成5年2月
対象者 旧陸軍軍医学校関係者 239名に対し郵送
結 果 人骨の由来について回答のあった者144名のうち、何も知らなかった者 21名
具体的記載のあった者 23名
内容は次のとおり。
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陸軍軍医学校病理学教室、臨床講堂(八角講堂)、防疫研究室等には、相当多数の標本が保管されていた。(同旨14通)
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陸軍軍医学校の解剖演習に参加した。ただし、この死体がどこで調達され、終わった後にどのように扱われたかはまったく知らない。(同旨2通)
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戦場に遺棄されている多数の中国兵戦屍体の中から、主として頭部戦傷例を選別し標本として、持ち帰ったものと聞いている。(同旨2通)
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軍陣病理学教官より「研究には戦死体が必要であるが、その入手は甚だ困難である。諸官は、これより戦場に赴くが、機会をとらえて戦死体を軍医学校に送ってもらいたい。」と卒業があるごとに頼んでいたので送った者があったかもしれません。
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中国人の敵である馬賊討伐を関東軍が行い、処刑による斬首の刑に処された者を医学研究用としてもらい受け、送られたものと聞いている。
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外国人の薬品漬けの首、かなり重いものを30人くらいでかなりの数を暗い所内より何処に運んだかわからないが、車で運んだと思う。
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昭和15年夏、ハルピンよりドラム缶に入ったホルマリン漬けの生首が届けられたことを覚えている。
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731部隊と防疫研究室は表裏一体であったので、731部隊から資料として送られたものを埋めたのではないか。
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3 補充調査
人骨問題を究明する会からの要請や情報提供のあった者に対して補充的な調査を実施。
平成8年9月から平成9年8月にかけて、電話等により聞き取り調査を実施。
4 追加調査
平成12年4月〜同年11月実施 面接または郵送
平成12年12月〜平成13年4月実施 聴取調査等
W.調査結果のまとめ
1.人骨発見場所の状況
人骨発見場所の土地の利用状況の変遷
明治初期〜
昭和2(1927)年
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廃藩置県に伴い、尾張藩徳川慶勝下邸跡を兵部省が管轄し、陸軍が庭園として管理
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昭和2(1927)年8月
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陸軍軍医学校が移転
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昭和20(1945)年8月
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戦争終了に伴い、旧陸軍の土地建物等の不動産は閣議決定「戦争ノ終結ニ伴ウ国有財産ノ処理ニ関スル件」に基づき大蔵省が管理
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昭和20(1945)年11月
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国立東京第一病院の一部として使用(「陸海軍病院に関する覚書」により占領軍から内務省を通じ厚生省に所管換)
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昭和23(1948)年3月
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旧栄養研究所が移転
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昭和61(1986)年10月
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戸山研究庁舎建設工事開始
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平成4(1992)年10月
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戸山研究庁舎業務開始
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2.人骨が発見場所にあった理由
3.人骨が埋められた事情について
X おわりに
資料 文献一覧 人骨発見場所現況図 旧陸軍軍医学校建物位置図
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