1994年12月

731部隊による生体実験の

被害救済申立事件調査報告書

日本弁護士連合

申立人 敬  蘭 芝

同   張  可 達

同   張  可 偉

立人代理人

弁護士 森 川 金 寿

同   森 川 文 人

同   南   典 男

 

第一 結輪

 日本弁護士連合会は、内閣総理大臣および新宿区長に対しそれぞれ別紙のとおりの各勧告をなすことを相当と認める。

 

第二 申立の趣旨および理由の概要

1 申立人らはいずれも中華人民共和国の市民である。

 申立人張可達、張可偉の両名は兄弟であるが、その亡父張文善(以下張文善という。)は日中戦争中、抗日分子として情報活動をしていたとき日本軍にとらえられ、731部隊に送られて生体実験に供された可能性が高い。

 申立人敬蘭芝の亡夫朱之盈(以下朱之盈という。)は張文善の指導の下に抗日情報活動を行なっていたが、日本軍にとらえられ、731部隊に送られた可能性がある。

2 1989年7月22日、東京都新宿区戸山1所在旧陸軍医学校跡地内(現在国立予防衛生研究所建設用地)で、35体分(注:鑑定の結果、少なくとも62体、おそらく100体以上と判明した。)の人骨(以下「本件人骨」という。)が発見されたが、これらは旧陸軍731部隊による生体実験の被害者のものである疑いがあり、かつ、右人骨のうち2体は張文善および朱之盈のものである疑いがあるので、日本の関係官庁に人骨の保管ならびに本格的な調査を求める。

3 そして本件人骨の一部が張文善および朱之盈のものと認められた場合、その返遅を求める。

 

第三 調査経過および調査資料(予備調査段階のものも含む)

1 調査経過は以下のとおり。

1992年4月28日 申立人ら代理人弁護士南典男、731部隊研究者渡辺登、同越田稜、同小林佐智子より事情聴取

7月13日 731部隊を追及しているジャーナリスト近藤昭二から事備聴取

8月2日 ハルピンにおいて731部隊跡地調査申立人敬蘭芝から事備聴取

8月27日 元731部隊員田村艮雄より事備聴取

11月18日 同越定男より事備聴取

1993年2月15日 上記近藤昭二より事備聴取

10月23日 ニューヨークにおいて731部隊研究者クレッグ・ロドリゲスより事備聴取

1994年8月12日 申立人ら代理人森川文人より事備聴取

8月22日 上記越田稜より事備聴取

2 調査資料は以下のとおり。

(1)「戸山人骨の鑑定報告書」 佐倉 朔

(2)「夫を、父を、同胞をかえせ!!−満州第七三一部隊に消されたひとびと−」

軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会編

(3)同会ニュースbS

(4)「悪魔の飽食第三部」 森村誠一著 角川書店

(5)「公判記録七三一細菌戦部隊」 不二出版

(6)「証言人体実験−七三一部隊とその周辺−」中央襠案館他編、江田憲冶他編訳 同文館

(7)「証言細菌作戦−BC兵器の原点−」 中央襠案館他編、江田いずみ他編訳 同上

(8)「標的・イシイ−七三一部隊と米軍諜報活動−」 常石敬一編訳 大月書店

(9)「消えた細菌戦部隊−関東軍七三一部隊−」 常石敬一著 海鳴社

10)「殺戮工厰・731部隊」 滝谷二郎著 新森書房

11)「日の丸は紅い泪に」 越定男著 教育資料出版会

12)「三光」 中国帰還者連絡会編 晩聲社

13)「ノミと鼠とペスト菌を見てきた話」 竹花香逸著 自費出版

14)「証言七三一石井部隊」 郡司陽子 徳間書店

15)「裁かれた七三一部隊」 森村誠一編 晩聲社

16)「七三一部隊の人体実験は国際常識−松村高夫意見書−」教科書検定訴訟を支援する全国連絡会

17)「七三一部隊」戦争犠性者を心に刻む会編 東方出版

 

第4 事実関係その1−731部隊に関する国の見解と判決−

1 731部隊に関する国の見解は、いわゆる第三次教科書訴訟における国側の主張に示されている。

 右訴訟の経過は以下のとおりである。

 家永三郎教綬が、日本史の教科書に、「またハルピン郊外に731部隊と称する細菌部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国人を捕えて殺すような残虐な作業をソ連の開戦に至るまで数年にわたってつづけた。」と記述したのに対し、文部省は、1983年12月27日、「学界の現状は史料収集の段階であって、専門的学術研究が発表されるまでに至っていないので教科書に取り上げることは時期尚早であり、検定基準に照らし、必要条件に欠ける」として削除を求める修正意見を付した。

 そしてこれに対し家永教授がいわゆる第三次教科書訴訟を提起した。

 右訴訟における国側の主張の要旨は「731部隊に関する史料の信憑性や価値が検討されたうえでの客観的な学術研究が発表されておらず不適切」というものであった。

 これに対し家永教授は、「731部隊の存在は学術書で記述される外、当時の関係者の証言や文献もあり客観的事実である。」と主張した。

2 国は、上記修正意見および訴訟における主張において、教科書に掲載するに足る事実面での研究が不十分である旨主張はするが、731部隊の存在や日本軍による生体実験の事実は否定していない。

 そして右に関する判決も、第一審は「結局、昭和58年度検定当時には、右要請に応えた専門的学術研究が発表されていなかった、といわざるをえず、いわゆるフェル・レポートが発見されていない昭和58年度検定当時においては、731部隊に関する研究はいまだ不十分であって、教科書に記述し得るほど、学術的研究としてはまとまっていなかったというべきである」とし、また第二審は「昭和58年度検定当時においては、事実解明の途中段階で十分な検証もされていなかった」として、もっぱら「昭和58年度検定」当時、731部隊を教科書に取り上げることが時期尚早であったか否かを論じ、結果的に、時期尚早であるとした前記修正意見を妥当を欠くものではないとした。

3 以上の事実経過をみれば、国も、「昭和58年度検定」当時においてすら、731部隊の存在や日本軍による生体実験の事実は否定しようがないと考えていたことが推認され、また上記各判決も同様である。

 

第5 事実関係その2−現在までの研究により認定し得ると思料する731部隊に関する事実関係の概要−

1 日本軍による生物戦の研究について

 日本軍は、1932年8月、陸軍軍医学校内に、石井四郎を主幹とする防疫研究室を設立し、また「満州」背陰河に、関東軍防疫班(東郷部隊)を編成して、生物戦研究に著手した。その後、右防疫班は関東軍防疫給水部731部隊(在ハルピン)に発展し、またこれと平行して北支派遺軍防疫給水部(1855部隊、在北京)、中支派遣軍防疫給水部(1644部隊、別称「栄部隊」、在南京)、南支派遣軍防疫給水部(8604部隊、別称「波部隊」在広東)、南方軍防疫給水部(在シンガポール)等が各編成されて、生物兵器の研究・閉発、さらには実戦使用が行なわれた。

 細織の規模は膨大なものであった。731部隊についていえば、人員は最大時約3,OOO人であり、下に4支隊、1研究所を有し、飛行機数機、そして飛行場まで有していた。各組織間の関係は、研究・開発面・指揮系統面、人事面等において有機的かつ密接なものであった。防疫研究室が中枢となってプランをたて、各部隊がこれの閉発・実験を行い、また部隊においても協力行為が行なわれた。そしてこれらの中心にあったのが石丼四郎であった。石井は防疫研究室の初代主幹であり、また731部隊の初代、そして最後である第3代の部隊長であった。すなわち石井は、生物戦研究の最初から最後まで、そして中枢から末端まで関与したのである。

2 実戦使用について

 日本軍は上述のところにより閉発した生物兵器を実戦において使用している。以下に証拠が得られている実戦例のうち主なものをあげる。

(1)ノモンハン事件

 1939年5月、ノモンハン付近において日ソ両軍の間に戦闘が勃発し、ソ連軍約20個師団の前に関東軍第23師団は苦戦し壊滅した。

 その苦戦の中で、731部隊碇挺進隊々員等からなる決死隊約20名が、チフス菌を含む菌液をソ連軍に感染させる目的で、ハルハ川に撒いた(調査資料(5)中の西俊英の供述、同(6)中の田村良雄供述書)。

(2)寧波作戦

 日本軍は、1940年4月、いわゆる援蒋ルートを破壊する目的で浙江省東部を占領する浙東作戦を開始した。731部隊は、この作戦において、ペストノミ5s、腸チフス菌70s、コレラ菌50sを用意し、同年10月頃、浙江省寧波(鄞県)、衢県、金華において、飛行機によるペストノミの撒布等の方法によりこれを使用した。右の作戦にあたっては石井四郎を長とする派遣隊が編成され、また作戦終了後、その結果調査のため、特別班が現地に残って情報収集を行ない、さらに記録映画まで作成するという周到さであった(調査資料(5)中の川島清、柄沢十三夫、西俊英、佐藤俊二の各供述)。

 なおこの時、寧波においてペストが34日間流行し、感染したもの99人、うち97人が死亡した(調査資料(7)中の容啓栄作成「浙江ペスト調査報告書」)。

(3)常徳作戦

 日本軍は、1941年秋、湖南省常徳市付近において飛行機によりペストノミの撒布を行った.右作戦は731部隊から40人ないし50人の派遣隊が編成され、実行された(調査資料(5)中の川島清、佐藤俊二の各供述、同(7)中の容啓栄作成「湖南西部ペスト予防・治療経過報告書」、同隙陳文貴作成の報告書)。

(4)浙贛作戦

 日本軍は、1942年、華中において浙贛作戦を行った。731部隊と南京栄部隊(1644部隊)がこれに参加し、1942年8月、玉山、金華、浦江の諸都市付近において、ペスト菌、コレラ菌、パラチフス菌等を撒布した。ペスト菌はペストノミにより、また他の細菌は、水筒に入れて、貯水池、井戸、河川、住居等を汚染する方法等で各伝播された。この時はパラチフス菌と炭疸菌だけでも130sが731部隊において準備され、作戦地に空輸された(調査資料(5)中の川島清、柄沢十三夫、古都艮雄、三品某の各供述、同(7)中の榛葉修供述書、同(8)中の「中国における日本軍による細菌の使用」と題するアメリカ陸軍中国前線司令部GU参謀副長部作成1944年12月3日付レポート)。

 なお調査資料(5)中の古都良雄の供述書によれば、チフス菌、パラチフス菌で汚染した饅頭を3,000人の中国捕虜に食べさせた後、伝播を広げるためこれを釈放したり、あるいは、細菌で汚染したビスケットを市中に放置し一般市民への感染を図ったりした由である。

3 生体実験について

 ところで上述の生物兵器研究開発に際しては、生体実験が行なわれている。最も多く行なわれたのは731部隊においてであるが、そのほか南京栄部隊(1644部隊)、北支派遣軍防疫給水部斉南支部においても同様のことが行なわれ、また、731部隊は関東軍化学部と連携して毒ガスの生体実験を行なっている。

 被験者は、一般刑事犯、スパイの嫌疑で逮捕された者、人狩りで拘束された一般人等である。彼らは「マルタ」と呼ばれた。そしてマルタは全員殺害された。1回の実験で死ななかった者は、再度実験に供され、それにより、あるいは生体解剖により殺害された。監禁中に出産した母も、そしてその子もすべて殺害されたのである。その総数は約3,000名といわれている。

 以下に731部隊が行なった生体実験の例を記す。

(1)乾燥実験

 人間を乾燥機にかけて、水分をどの位抜き取ると死に至るか実験する。

(2)餓死実験

 断食、断水により死に至る経過を実験する。

(3)凍傷、凍死実験

 零下40度の中に身体の一部を一定時間さらして凍傷度を、また零下50度の中に裸でおいて凍死に至る経過を実験する。

(4)ペスト弾被弾実験

 被験者を閉じ込めた室内でペスト弾を破裂させ、感染能力を実験する。

(5)ペスト菌雨下実験

 十字の木に縛られた被験者の上に飛行機からペスト菌をぱら撒き感染効果を実験する。

(6)毒ガス実験

 ガラス張りの部屋に被験者と共に鳩などの小動物を入れ、毒ガスを送り込む。ガラス越しに被験者、小動物の状況変化を観察、撮影、記録する。一定時間が経過したら、毒ガス送入を中止し、死亡した被験者は解剖し、生存した被験者は、他の人体実験に使用する。

 そのほかに被験者の体にあらかじめ心臓の動きや脈拍をみるためコードをつけ、心電図などの計器で死に至る変化を記録した実験例もある。

(7)生体解剖

 細菌に侵されながらもまだ生きている被験者の生体解剖を行う。この場合は鮮血が採取された。

 なお、この生体解剖は731部隊員に対してもなされた例がある。治療してやると偽り、解剖台に乗せ、不意打ち的に生体解剖をなしたのである。しかもこれを実行したのは、その隊員の同班の者、すなわち直属の上司、同僚たちだった。

 

第6 事実関係その3−本件に関し当委員会の認定した事実−

1 張文善および朱之盈が731部隊による生体実験の被験者となった可能性について

(1)張文善は、中国東北国際反帝国主義情報組織の責任者庄克仁の指導の下に、1939年牡丹江国際情報センターを設立し、その長をつとめた。

 同人と妻(申立人張両名にとっては母)龍桂潔は、1939年以来中国東北部(旧北港)の牡丹江で航日軍情報活動に従事するようになった。

(2)朱之盈は、右牡丹江情報センターの情報員となった。

(3)1940年頃から張文善ならびに朱之盈の家には無線機が設置され、独ソ戦開始のため、この頃から活発になりはじめたソ連国境の日本軍の動向をソ連軍に通報する活動を行なっていた。

(4)1941年7月、張文善宅、朱之盈宅の無線機は日本軍の逆探知によってその所在を知られるところとなり、張文善、朱之盈が日本軍の憲兵隊により逮捕された。

(5)前述のとおり、当時、「満州」においては、一般刑事犯、スパイの嫌疑で逮捕された者、人狩りで拘束された一般人等が「マルタ」として731部隊に送られていたが、特に憲兵隊に逮捕された反日抵抗運動家が「マルタ」として送られることが多かった。

 張文善、朱子盈は、反日抵抗運動の有カメンバーであったから、731部隊に「マルタ」として、送られた可能性が相当にあるというべきであり、したがって731部隊による生体実験の被害者となった可能性も相当にあるというべきである。

2 本件人骨が731部隊による生体実験の被験者のものである可能性について

(1)防疫研究室が設置されていた旧陸軍軍医学校跡地で国立予防衛生研究所建設工事が行なわれていた1989年7月22日、本件人骨が発見された。

(2) 札幌学院大学教授佐倉朔の本件人骨鑑定の結果は以下のとおりである。

@ 当該人骨は土中において数十年以上、百年以下程度の期間経過したものである。

A 固体数は、前頭骨に着目すると少なくとも62体であるが、破片の数からみておそらく100体以上にのぼる。

B 性別は4分の1が女性である。

C 大部分はモンゴロイドに属し、日本人が含まれていることもあり得るが、少なくとも一般的日本人集団の無作為標本でない可能性が大きい。

D 10数個の頭骨にドリルによる穿孔、鋸断、破切などの人為的な加工の痕跡があり、またこれらは頸部で切断された死体の頭部に対して実施されたものと推定され、切創、刺創、銃創の疑いのあるものも認められた。

(3) 旧陸軍軍医学校施設内で、埋葬、特に土葬が行なわれたことは考えられない。

(4) 申立人ら代理人弁護士森川文人によると、最近全国各地で開催されている731部隊展を契機に数人の元防疫研究室勤務者に対する面接を行うことができたが、その結果、以下の如き陳述を得た由である。

@ A氏の陳述要旨

     陸軍軍医学校の臨床講堂の中に100体ほどのホルマリン漬け人体標本があった。

     頭だけのもの、足だけのもの、胸部だけのものといった具合にバラバラの状態で瓶に入っており、瓶の数は百を越えていた。

     私は、これらは「マルタ」の死後体を731部隊から陸軍軍医学校に運んだのではないかと思う。何故なら、当時、防疫研究室は731部隊等との間を飛行機で頻繁に往復しており、平房(注:731部隊のあった場所の地名である。)から人体を運ぶのは極めて容易であったからである。

A B氏の陳述要旨

     ある時、防疫給水部(注:防疫研究室は、陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方の指輝系統にあり、前者の場合「防疫研究室」、後者の場合「防疫給水部」と呼称された。)の敷地内に大きなテントがあり、棺桶のようなものが積み重ねられていた。先輩が「あれはハルピンから送られてきたマルタが入っている」といった。

BC氏の陳述要旨

     ある日、防疫研究室の建物4階屋上に上った。見慣れないグレーがかった黒色のおわん型水瓶が15個位。

     木の蓋をしてならべてあった。

     中には人間の生首が3個か4個入っていた。全て男性のものでアジア系人種のものだった。刀傷のあるものもあった。

     防疫研究室に併設されていた陸軍軍医学校の教室から生首を板の上に乗せて運んでいるのを見たことがある。

     後に広東にあった南支派遣軍防疫給水部に転勤になったが、広東郊外の農村地帯で、前述のものとそっくりの水瓶を見掛け、前述の生首は、広東から運ばれたのではないかと、思った。

C D氏の陳述要旨

     昭和13年入隊した時には、防疫研究室屋上に人体があった。中国製の水瓶の中に首が、ドラム缶の中に胴、手足などが入っていた。合せて40〜50体だと思う。

     ホルマリンを入れ替える時、洗ったが、首は切られたものだった。

     女性や子供のものもあった。

     満州の馬賊を処刑したものといわれていた。

     軍医の教育と標本を作るために石井が要請して送らせたに違いない。

     その後、標本は、六角講堂の周辺に移動した。

     本件人骨は、終戦の時に内藤(注:「内藤艮一」、石井の右腕といわれ、石井が731部隊に在任中・防疫研究室をとりしきった。ミドリ十字の創設者である。)が捨てさせたに違いない。

(5) 元731部隊々員で運輸担当者であった越定男は「731部隊付属飛行場までマルタを100回以上、人数にして1200人から1300人輪送したが、半分以上が戻ってきた。残りは安達の実験場(注:被験者を地上に固定して、空中より細菌を散布する、いわゆる雨下実験等が行なわれていた場所である。)で死亡したと思っていたが、東京に運ばれた可能性もある」旨の供述をする。

 また731部隊を追及しているジャーナリスト近藤昭二は『新宿の人骨発見のあと、大連の研究所で総務部長をしていた目黒正彦氏にインタビューしたところ、同氏は、「平房に行けない研究者のためマルタ2、3人を運んできた」と語った』旨の供述をする(注:当委員会は右目黒氏にも面会を申し込んだが拒絶された。)。

(6) 以上によれば本件人骨が731部隊による生体実験の被験者のものである可能性は相当に高い。また右は731部隊により生体実験の被験者として拘束された者が生体のまま防疫研究室に輪送され、そこで生体実験された者のものである可能性すらある。

本件人骨の一部が張文善、朱之盈のものである可能性について

 前述のとおり張文善および朱子盈が731部隊において生体実験の犠牲者になった可能性は相当にある。そして731部隊と防疫研究室は頻繁に交流があったからその遺骸が標本として防疫研究室に送られた可能性がある。さらには生体のまま防疫研究室に輪送され、同所において生体実験の犠性になったことすら考えられる。

 いずれにしろ本件人骨の一部が張文善、朱之盈のものである可能性は否定できない。

 

第7 当委員会の判断

1 731部隊による生体実験は、軍組織上の医学者によりなされた歴史上類をみない残虐非道な行為である。

 この行為は、自己の利益あるいは興味のためには、人間を単なる物体として切り刻んでも艮いという恐るべき悪魔の思想に裏打ちされている。

 この行為と思想は、人類がともに幸福になるという目的のために営々と築きあげてきた人権尊重の思想と道徳をまっこうから否定し、根底から破壊するものであり、時間と場所を超えて、絶対に許されざるものである。

2(1)実定法規に照らしても731部隊の生体実験の違法性は明らかである。即ち、まず731部隊の行なった生体実験が当時の中国および日本の刑事法規に反していたことは自明のことである。

(2) また右が当時の国際法規に反していたことも明らかである。

 即ちハーグ陸戦規則(日本は1911年11月6日批准、同年12月13日批准書寄託)は、その第6条において捕虜の使役を禁じ、また第23条において害敵手段として不必要の苦痛を与うべき兵器、投与物その他の物質を使用することを禁じ、また第46条において個人の生命は尊重すべしと定めている。しかも同規則は、その前文にいわゆるマルテンス条項といわれる類推・拡張条項をもち、『一層完備した戦争法規が制定されるまでは、その余の場合においても、人民、交戦者は、文明国間に存する慣習、人道の法則および公共艮心の要求より生ずる国際法の原則の保護と支配下にある。』と定める。その制定時、生物兵器戦、あるいは生体実験の発生を予見し難かったがために明文規定こそ定めなかったものの、同規則が生体実験を禁止していることは論ずる余地がない。

 加えて、ジュネーブ毒ガス議定書(日本は1925年6月17日署名、1970年5月21日批准書寄託)は、『窒息性ガス、毒性ガス又はこれに類するガス及びこれと類似のすべての液体、物質又は考案を戦争に使用することが、文明世界の世論によって正当にも非難されているので、この禁止が諸国の良心及び行動をひとしく拘束する国際法の一部として広く受諾されるために、次のとおり宣言する。

 「条約国は前記の使用を禁止する条約の当事国となっていない限りこの禁止を受諾し、かつ、この禁止を細菌学的戦争手段の使用についても適用すること及びこの宣言の文言に従って相互に拘束されることに同意する。」』と定め、ここにおいても生物戦の手段としての生体実験を禁止している。

 この条約については、批准書寄託が1970年と遅れたこともあって、当時、その規範カがあったか否かの問題はあるが、前記ハーグ陸戦規則と相まって、少なくとも当時、生体実験禁止の国際慣習法が成立していたことの根拠とはなり得る。

(3) そして最後に731部隊の行なった生体実験は、東京裁判において準拠法となっていた「極東国際軍事裁判条例」の定める人道に対する罰にも該当する。

 即ち同条例はその第6条2項において『C 人道に対する罪、即ち、戦前又は戦時中為されたる殺戮、殲滅、奴隷的虐使、追放共の他の非人道的行為、若は政治的、宗教的又は人種的理由に基く迫害行為であって犯行地の国内法違反たると否とを問わず本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として又は之に関聯して為されたるもの』と定める。

 731部隊の行なった生体実験は右に記す文言を使用すれば、歴史上稀にみる非人道的な方法による殺戮ということになろう。

 なおこの人道に対する罰は、これを永久に許さず、責任を追及していくという思想から、時効不適用粂約(注:日本は未批准)により時効による免責方法も否定されている犯罰類型である。

(4) 以上のとおり731部隊の行なった生体実験は、幾重もの重大な法規に反し、法も特にこれを許さざるものと宣言しているほど違法性の高いものである。

3(1) 以上の理由から、731部隊の行なった行為は、さらに時間をかけ、組織的、徹底的に調査して事実関係を明らかにし、その責任が追及されるべきものである。731部隊の行為は、終戦時、アメリカ政府との取引により東京裁判において裁かれることなく闇にとり込まれた。事実関係の調査も責任追及もされなかった。

 しかし、我々はこの処置を我々の不幸として、今こそ、731部隊の行なった行為を自からの手で明らかにし、その責任を追求すべきである。それが731部隊による生体実験の犠牲者およびその遺族、そして平和を希求する世界の人々、さらには我々の子孫に対する責務である。

(2) 当然の帰結として、731部隊の被害者およびその遺族に対しては、最大限の誠意と尊崇をもって、またその救済には、考えられる限りの責任感と正義感をもってあたるべきである。

 上述のとおり本件人骨の一部が張文善および朱之盈のものであるとの確たる証拠はないが、その可能性は否定できない。

 しかしその可能性がいささかなりとも存すれば、調査を尽くし、事実関係の確定に努力するべきである。そしてその調査が終了するまで、本件人骨は、厳重に保管されるべきなのである。

4 以上の経過で別紙のとおりの勧告を行なうのが相当と判断するに至った。


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