軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』202号・要約

「細菌戦に手を染めた薬剤官 」補遺

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・代表)

  • はじめに

    薬剤官増田美保操縦士の衛生材料等の投下演技を行なったことに関する補足。

  • 操縦軍医将校の養成

    増田薬剤官が投下演技を行なったとの記述は『大東亜戦争陸軍衛生史 第8巻』(陸上自衛隊衛生学校編 1969年)の「航空衛生 航空機操縦軍医将校の養成(昭和9年)」に記載。

    同衛生史は1916年に陸軍航空衛生が制度化され、衛生部員による空中勤務者の養成が認められるようになったのは1934年からであると説明している。その中で、増田薬剤官による衛生材料投下演技を確認することができた。

  • 石井部隊の操縦軍医

    田所は操縦軍医将校について、「石井部隊の航空パイロットとして利用される」とのコメントを残した。石井部隊の航空班は1939年1月の時点で、増田薬剤官の指揮のもと平房本部にあり、数機の飛行機を所有し、細菌の撒布方法の研究をしていた。

    同衛生史には操縦免許を取得した12名の軍医が記載されている。このうち、石井部隊(関東軍防疫給水部)の留守名簿(1945年1月1日)で確認できるのは平沢正欣少佐と池川重徳である。

  • 平沢正欣の人体実験と細菌戦

    平沢正欣は母校の京都帝大に石井部隊(満州第七三一部隊)で行なった生体実験の論文を提出して博士号を取得していた。 常石敬一は国立国会図書館が所蔵していた平沢の「イヌノミのペスト媒介能力に就ての実験的研究」(学位授与年月日1945年9月26日)に着目した。「犬蚤」によってペストに感染した実験動物の「サル」が発症後に「頭痛」を訴えたとする。この実験は1940年に新京で発生したペストが犬猫病院を初発としたことから、「犬蚤」によってもペスト菌が媒介されるのか否かを調べるためだったとされる。

    平沢は1936年から37年にかけて所沢陸軍飛行学校と熊谷陸軍飛行学校で操縦技術を習得し、1939年3月に石井部隊に赴任。

    その後の1940年6月、石井部隊は農安でペスト菌を撒布。ペストが新京に伝播したのは9月。先の「犬蚤」による実験は、その翌年の1941年か。新京にペストが伝播して間もなくの10月に、浙江省の衢県、寧波にペスト蚤を空中撒布した。この撒布に平沢軍医は増田薬剤官とともに参加していた。

    敗戦直前の1945年6月11日、平沢は飛行機事故で死亡する。

  • 操縦軍医将校たちのその後

    田所のいう第八陸軍航空技術研究所とは1935年8月に設立された陸軍航空技術研究所の中の航空衛生部門が独立し、1942年10月に設立された研究所である。航空機の発達による航空作戦の必要性から、航空衛生に関しては1940年10月、陸軍航空技術研究所と陸軍軍医学校及び陸軍衛生材料廠の3部門が連携を図るよう依命通牒が出された。この通牒によって、陸軍航空本部は航空医学研究の操縦学生を募集することになり、陸軍軍医学校からは3名の学生が募集に応じて入学した。12名のうちの南浦邦知、友成淑夫、西本禎夫の3人である。

    1944年には立川の第八陸軍航空技術研究所に勤務し、急降下爆撃による爆弾投下後の急上昇に伴う眼眩みや失神の防止対策の研究に従事した。(軍医学校乙種第19期生・友成淑夫の回想)

    南浦邦知は、戦闘斥候を任務とする機動偵察部隊である捜索第32連隊の名簿に軍医中尉として記載がある。同じく西本禎夫は太刀洗陸軍飛行学校に入校しているが、その後の消息は明らかでない。

    野呂文彦は、1944年6月に東京の第一航空軍司令部で編成された第八飛行師団司令部の軍医部長になる。同部隊は、台湾の台北へ移動し、南西諸島や沖縄戦の航空作戦に従事している。

    与芝真雄は「満洲」の第五独立守備隊将校職員表 (1939年4月10日調)の独立守備歩兵第二十五大隊本部に「軍医中尉 昭12與芝眞雄」と記載されているが任務は不明。

  • 田所吉輝と二套口飛行場

    最後に田所吉輝の消息を簡単に紹介しておこう。

    その後の田所の名は「藤田飛行団司令部職員表」(1938年10月10日)に見出すことが出来る。職員表には「軍医大尉 田所吉輝」の名がある。

    「藤田飛行団」とは藤田朋陸軍少将が率いる「第四飛行団司令部」で、この部隊は中国南部の桂林近く、二套口に駐留し、中国各地を爆撃した部隊として知られている。

    第四飛行団は1938年、漢口攻略戦を支援するために前進基地を二套口飛行場に置き、漢口周辺の諸都市を爆撃し、中国側に降伏を求めるビラ「傳単」を撒布する任務を負っていた。

    先に紹介した友成は南京攻略戦を支援するために行なった「傳単」撒布の経験を語っている。

    第四飛行団による漢口攻略戦に対して、中国側は長江の九江近く、前進基地の二套口飛行場を襲撃する。1938年11月16日の夜明け、15名の少年決死隊は飛行場の燃料庫に火を放って破壊した。その結果、二套口飛行場は80日間しか使用することができなかった。

    この事実は「航空兵団戦闘要報」に記載されていないし、田所吉輝も二套口飛行場の襲撃事件について何も語っていないが、戦後まで記憶に残っていたに違いない。

(2020年9月18日)

webリニューアルへの反響

webのリニューアルの反響が意外に集まった。(内容は省略)

2020年6月20日(土)京都新聞

政府作成の公文書発見731部隊本部の旧関東軍防疫給水部 組織機構や隊員所属判明

厚生労働省に提出した「人骨問題の解明にあたっての要望書」

前文省略

  • 要望項目
    1. 厚生労働省で保管している戸山人骨関連の全文書のリストを提供されたい。
    2. 厚生労働省「戸山研究庁舎建設時に発見された人骨の由来調査」で行った陸軍軍医学校関係者のアンケート調査と聞き取り調査の記録を公開されたい。
    3. ~5については、例年通りなので省略。要望書は2020年3月26日付けで厚生科学課に提出。話し合いはまだできていない。

人骨問題の経過

731部隊罪証陳列館に、送付した資料(項目のみ)

  1. 陸軍軍医学校と人骨問題
  2. 調査を求める七三一部隊犠牲者遺族
  3. 戸山人骨鑑定結果
  4. 遺骨は身元確認をして母国に返すべき

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会・第2回
人骨問題と731部隊

日時:11月13日(金)19時~21時
会場:武蔵野商工会館4階・市民会議室
報告:鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)
資料代:600円
連絡先:080-3157-1858 (鳥居・16時以降)

要・事前予約(定員80名)Zoomあり(定員100名・E-mail:exhibition731@yahoo.co.jp
主催:むさしの科学と戦争研究会
共催:軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会
731ネットワーク exhibition731@yahoo.co.jp

731ネットワーク
2013年、731部隊の被害者遺族を支える会、細菌戦資料センター、ABC企画など、731部隊問題に関わる諸団体が集まって、「731部隊展2013」を開催。この時に集まった団体・個人を中心に、731部隊の真相究明をテーマに結集した人々の緩やかなグループ

むさしの科学と戦争研究会
2012年から、化学兵器や731部隊の問題に取り組んできた。最近は地域史の発掘などもテーマにしている。「むさしの平和のための戦争展」も担う

2020.10.--.(10/12発送)

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