The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College
常石 敬一(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・代表)
(参考文献は省略)
川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)
柳条湖事件から間もなく、陸軍軍医学校は戦傷患者の増加と戦疫予防に忙殺された。新たに整形外科を創設し、防疫部では予防接種液や血清に赤痢予防錠の生産も加わった。
1932年4月、防疫研究室(戦疫研究室)を新設。石井四郎は防疫研究室を拠点に本格的な細菌戦研究の準備を進め、1933年に満洲の背蔭河に細菌実験施設「五常研究所」を設置、1936年に「満洲防疫機関」(関東軍防疫部)を創設する。
この論考では「五常研究所」が何故、「満洲」の背蔭河に設置されたのかについて考察する。
「満洲事変」は関東軍参謀の板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐が仕組んだ謀略であった。石原は1929年に日本が満蒙を領有すべきだと主張していた。その目的は、第1に食糧問題、第2に地下資源という「経済的価値」。石原は日本が「満蒙」を領有して持久戦争を行い、国力を充実して来たるべき殲滅戦争に備え、「満洲国」建国後も対ソ戦争の準備を提言した。
石原莞爾の対ソ戦準備の考えと石井四郎の細菌戦準備の思惑が一致し、関東軍は石井部隊の支援を本格化した。
当時、哈爾濱は北満交通の要路になっていた。清国がロシアに敷設権を与えた東清鉄道(ロシアでは中東鉄路)はシベリア鉄道のチタから分岐し、満洲里、哈爾濱、ウラジオストクへ向かう。更に哈爾濱から南に分岐する南満洲支線が大連に通じていた。
日露戦争によって日本は南満洲支線の大連から長春までの区間を手に入れ、南満洲鉄道株式会社(満鉄)を設立したが、長春以北はロシアの手で開発が進んだ。
1932年3月に「満洲国」が成立すると、東支鉄道は「満洲国」とソ連の合弁となり、1935年3月にソ連は北満鉄路から撤退、経営は満鉄に委託された。
「満洲事変」後に関東軍が最初に着手したのは吉林省蛟河市拉法と哈爾濱を結ぶ拉濱線の建設。その目的は兵員輸送と共に肥沃な穀倉地帯である五常県の食糧を収奪することにあった。
拉濱線の沿線に石井部隊は存在した。哈爾濱駅を起点に、被験者の「マルタ」を部隊に移送した香坊駅、731部隊の平房駅、「五常研究所」のある背蔭河駅があった。
背蔭河の石井部隊設置に関して、防疫研究室発足当初から室員だった北條圓了は、背蔭河に住民を立ちのかせ、家屋を改造して研究室を作ったと回想している。また、石原莞爾の後任として関東軍作戦参謀となった遠藤三郎は、石原からの引継ぎとして石井の面倒を見ることと、背蔭河は醤油製造所を改造した所と回想している。
厚生省援護局の部隊略歴には第二次編成改正が完結した1936年12月5日以降の記述しかなく、それ以前の記録は石井四郎の「満洲」出張記録がある。そこで石井に随行したのは18名。ただし、『陸軍軍医学校五十年史』(1936年)の記述によると、随行人員は36名。
中国側の資料(韓暁、李茂森ら)では、1932年の初秋に関東軍の守備隊が背蔭河に進駐し、商店や人家を占領した、中馬城と呼ばれた、とある。拉濱線工事が拉法と濱江から同時着工されたのは1932年6月25日のことであるから、「1932年の初秋」には背蔭河駅の場所も決まっていたと思われる。北條が渡満したのは1933年3月末のことであるから、実際に細菌実験施設の建築が始まったのは翌年の解氷期を迎えた頃になったのであろう。
独立守備隊で背蔭河の接収に関与した人物として、中国側資料では黒田、前田、松田、吉田それに「中馬城」の名前の由来になった中馬大尉の5人の名前が挙がっている。これに対して日本側の文書にはほとんど記されていない。唯一、遠藤三郎日記に中馬大尉の名がある。
関東軍職員表を年代別に調べてみると、第二独立守備隊司令部附に中馬太多彦大尉の名前が出てくるのは1934年5月。「1932年の初秋」に背蔭河の接収を行なったのは独立守備隊の吉田四郎大尉と関東軍鉄道第一聯隊の黒田良之助大尉。中馬大尉が宣撫工作をしたことから、他の人物より住民に広く知られるようになった。
遠藤三郎は、背蔭河の細菌実験施設は「醤油製造所」と証言している(前述)。 帝銀事件の捜査を担当した捜査第一課甲斐係長による「甲斐手記」に記録された証言では、背蔭河の細菌実験施設について、内藤良一は「ハルビン郊外精油工場」、石井庄三郎は「元ハルビン製粉工場」、特務機関の山本敏は「製油工場のような場所」、同じく小野打寛は「製粉工場の跡(?)」と述べている。細菌実験施設の建物はおそらく大豆油を搾った元「製油工場」だったのではないだろうか。1934年に背蔭河に赴任した栗原義雄の証言では工場を改造した建物ではない。
2018年6月21日
北海道大学アイヌ遺骨等返還室 https://www.hokudai.ac.jp/news/2016/09/post-410.html
琉球新報:遺骨返還求め京大提訴 百按司墓持ち去り 研究者ら 今夏にも《2018年5月19日》
7月22日(日)
ウィズ新宿
省略
2018.7.1
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