軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』192号・要約

7月22日の「29周年集会」のために

常石 敬一(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・代表)

悲劇と茶番
 1923(大正12)年の関東大震災から20年の歴史が、2011年の東日本大震災(3.11)以後の日本で繰り返されようとしている。悲劇は、石井部隊を創設した石井四郎軍医中将を生み出した20年代から30年代。45年の敗戦を直視しないで73年が経過し、茶番劇として繰り返されようとしている。敗戦は悲劇ではない。悲劇は戦争で死傷し、空襲被害に遭うことや飢餓、そして国内外での人権の抑圧。
 3.11以後の日本社会で目につくのはヘイトスピーチ(憎悪表現)がある。「絆」という押し付けがましい言葉の拡散に比例して憎悪の感情を掻き立てる行為が増えていないか。
 日本の報道の自由度が低落傾向にある。ワシントンのフリーダムハウス、パリの国境なき記者団が発表している報道の自由度ランキングでいずれも毎年順位を下げている。
 3番目は、軍事費の増加。防衛省が「安全保障技術研究推進制度」を始めたこと。この制度は軍事技術開発に貢献しそうな研究計画に軍事予算から研究開発費を支給するもの。学術会議は17年3月、「軍事的安全保障研究に関する声明」を出し、この制度の問題点を指摘している。また、北海道大学は18年6月になって、これまで受けていた研究助成の継続を「学術会議の声明を尊重し」、辞退した。
 23年の関東大震災の直後、朝鮮人虐殺事件、大杉栄らが憲兵隊に殺害されたことが知られている。さらに震災2年後、治安維持法が成立。満州事変(柳条湖事件)以降、33年に作家の小林多喜二が拷問で虐殺され、8月には経済学者の河上肇が豊多摩刑務所に投獄された。
 1931年12月に発足した犬養内閣の高橋是清蔵相は積極財政策に転じ、軍事費拡張と赤字国債発行によるインフレ政策を行った。2012年末に発足した第2次安倍内閣の経済政策を連想させられる。その経済政策は、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略の3本からなっていた。2%の物価上昇の達成は毎年先延ばしになり、その政策は今や経済学者が揶揄していた「ドアホノミクス」(浜矩子)となっている。
 満州事変の結果、戦争の度に編成されてきた臨時軍事費特別会計による「満州事件費」が創設された。科学研究費の支援拡大ということでは、32年の学術振興会発足が大きい。多額の補助金を所属の違う研究者のチームに配分し、総合的な研究を誘導した。そのモデルは理研の仁科芳雄の研究室だった。同研究室には物理学者だけでなく化学者さらには後に日本医師会長となる武見太郎まで加わっていた。この総合研究が49年の湯川秀樹および65年の朝永振一郎のノーベル物理学賞へとつながっている。総合研究というのは分業の徹底ということでもあった。
 学振が発足した32年に石井部隊の本拠である軍医学校防疫研究室が発足し、満州事件費を使って背陰河に研究施設の整備が行われ、36年に平房の731部隊が発足した。この大規模な施設建設および整備にも満州事件費が使われた。石井部隊は細菌兵器の研究開発を各方面の研究者や補助者などを総動員して総合的に進める部隊だった。
 部隊での人体実験の手順は、被験者の受け入れ、実際の実験、そしてその結果の判断となるが、それぞれ別個の医学者が受け持ち、被験者の世話や実験のデータ集めさらに各医学者への連絡、などは研究補助者の仕事だった。徹底した分業体制のもとで人体実験は行われていた。石井部隊は創設当時から研究者数において陸軍科学研究所に匹敵し、予算的には東京帝大並みという巨大機関だった。組織としては、東京の防研を軸にして軍事研究のネットワークと学術研究のネットワークがつながった。
そのつながりは敗戦によって断ち切られただろうか。科学的手続きを逸脱したやり方で達成された医薬品や知見が戦後も生き続けた。部隊での研究が博士論文として何本か提出され、その審査で不正が行われた。戦前の軍事研究の歪みがそのまま戦後の学界に持ち込まれた。出自に問題のある医薬品を無批判に使い続けること、科学的手順によらない学位論文に学位を与えることは学界の自己崩壊につながり、社会の信頼を裏切ることだ。
ここ数年ではっきり見えてきたこと
 「いつの間にか始まった」のは東京の軍医学校の防研がそうであり、平房の部隊も同じだった。
 防研の始まりについて、36(昭和11)年に刊行された『陸軍軍医学校五十年史』(以下『五十年史』)中の「満州事変に関する陸軍軍医学校の業務」という項目で言及。冒頭の「第一 業務の一般」は「昭和七年四月防疫部建物地下室……防疫研究室の新設を見るに至れり」と記している。その25ページ後の「第九 建物、給水施設等の設備改善」の「其三 防疫研究室設立」では「防疫研究室開設 昭和七年八月……防疫研究室を開設す。当時防疫部の地下室」としている。二つの記述は、防研の開設時期が4ヶ月ずれている。これは記述が誤りということではなく、執筆者によって理解が異なっていた。つまり、防研発足はなし崩しに進められたと理解できる。
 ハルビン平房の部隊、関東軍防疫部も4年間既成事実を積み重ね36年に正式発足した。『五十年史』の「其三 防疫研究室設立」の項の最後が「満州防疫機関設立」で、「石井軍医正は万難を排し挺身満州に赴き、防疫機関の建設に尽瘁せり……昭和十一年遂に防疫機関の新設を見るに至れり。同機関は内地防疫研究室と相呼応して皇軍防疫の中枢となる」。つまり昭和11(1936)年まで石井は非公式の活動を満州で続けていて、日本陸軍はその活動を公認していた。

(参考文献は省略)

背蔭河に創設された石井部隊

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)

  • はじめに

     柳条湖事件から間もなく、陸軍軍医学校は戦傷患者の増加と戦疫予防に忙殺された。新たに整形外科を創設し、防疫部では予防接種液や血清に赤痢予防錠の生産も加わった。
     1932年4月、防疫研究室(戦疫研究室)を新設。石井四郎は防疫研究室を拠点に本格的な細菌戦研究の準備を進め、1933年に満洲の背蔭河に細菌実験施設「五常研究所」を設置、1936年に「満洲防疫機関」(関東軍防疫部)を創設する。
     この論考では「五常研究所」が何故、「満洲」の背蔭河に設置されたのかについて考察する。

  • 「満洲事変」

     「満洲事変」は関東軍参謀の板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐が仕組んだ謀略であった。石原は1929年に日本が満蒙を領有すべきだと主張していた。その目的は、第1に食糧問題、第2に地下資源という「経済的価値」。石原は日本が「満蒙」を領有して持久戦争を行い、国力を充実して来たるべき殲滅戦争に備え、「満洲国」建国後も対ソ戦争の準備を提言した。
     石原莞爾の対ソ戦準備の考えと石井四郎の細菌戦準備の思惑が一致し、関東軍は石井部隊の支援を本格化した。

    • 哈爾濱(ハルビン)

       当時、哈爾濱は北満交通の要路になっていた。清国がロシアに敷設権を与えた東清鉄道(ロシアでは中東鉄路)はシベリア鉄道のチタから分岐し、満洲里、哈爾濱、ウラジオストクへ向かう。更に哈爾濱から南に分岐する南満洲支線が大連に通じていた。
       日露戦争によって日本は南満洲支線の大連から長春までの区間を手に入れ、南満洲鉄道株式会社(満鉄)を設立したが、長春以北はロシアの手で開発が進んだ。
       1932年3月に「満洲国」が成立すると、東支鉄道は「満洲国」とソ連の合弁となり、1935年3月にソ連は北満鉄路から撤退、経営は満鉄に委託された。

  • 拉濱線

     「満洲事変」後に関東軍が最初に着手したのは吉林省蛟河市拉法と哈爾濱を結ぶ拉濱線の建設。その目的は兵員輸送と共に肥沃な穀倉地帯である五常県の食糧を収奪することにあった。
     拉濱線の沿線に石井部隊は存在した。哈爾濱駅を起点に、被験者の「マルタ」を部隊に移送した香坊駅、731部隊の平房駅、「五常研究所」のある背蔭河駅があった。

  • 背蔭河(ベイインホー)

     背蔭河の石井部隊設置に関して、防疫研究室発足当初から室員だった北條圓了は、背蔭河に住民を立ちのかせ、家屋を改造して研究室を作ったと回想している。また、石原莞爾の後任として関東軍作戦参謀となった遠藤三郎は、石原からの引継ぎとして石井の面倒を見ることと、背蔭河は醤油製造所を改造した所と回想している。
     厚生省援護局の部隊略歴には第二次編成改正が完結した1936年12月5日以降の記述しかなく、それ以前の記録は石井四郎の「満洲」出張記録がある。そこで石井に随行したのは18名。ただし、『陸軍軍医学校五十年史』(1936年)の記述によると、随行人員は36名。

  • 中馬城

     中国側の資料(韓暁、李茂森ら)では、1932年の初秋に関東軍の守備隊が背蔭河に進駐し、商店や人家を占領した、中馬城と呼ばれた、とある。拉濱線工事が拉法と濱江から同時着工されたのは1932年6月25日のことであるから、「1932年の初秋」には背蔭河駅の場所も決まっていたと思われる。北條が渡満したのは1933年3月末のことであるから、実際に細菌実験施設の建築が始まったのは翌年の解氷期を迎えた頃になったのであろう。

  • 独立守備隊

     独立守備隊で背蔭河の接収に関与した人物として、中国側資料では黒田、前田、松田、吉田それに「中馬城」の名前の由来になった中馬大尉の5人の名前が挙がっている。これに対して日本側の文書にはほとんど記されていない。唯一、遠藤三郎日記に中馬大尉の名がある。
     関東軍職員表を年代別に調べてみると、第二独立守備隊司令部附に中馬太多彦大尉の名前が出てくるのは1934年5月。「1932年の初秋」に背蔭河の接収を行なったのは独立守備隊の吉田四郎大尉と関東軍鉄道第一聯隊の黒田良之助大尉。中馬大尉が宣撫工作をしたことから、他の人物より住民に広く知られるようになった。

  • 「醤油工場」(?)

     遠藤三郎は、背蔭河の細菌実験施設は「醤油製造所」と証言している(前述)。 帝銀事件の捜査を担当した捜査第一課甲斐係長による「甲斐手記」に記録された証言では、背蔭河の細菌実験施設について、内藤良一は「ハルビン郊外精油工場」、石井庄三郎は「元ハルビン製粉工場」、特務機関の山本敏は「製油工場のような場所」、同じく小野打寛は「製粉工場の跡(?)」と述べている。細菌実験施設の建物はおそらく大豆油を搾った元「製油工場」だったのではないだろうか。1934年に背蔭河に赴任した栗原義雄の証言では工場を改造した建物ではない。

2018年6月21日

遺骨との向き合い方 北・南…

北海道大学アイヌ遺骨等返還室 https://www.hokudai.ac.jp/news/2016/09/post-410.html

琉球新報:遺骨返還求め京大提訴 百按司墓持ち去り 研究者ら 今夏にも《2018年5月19日》

人骨発見29周年集会「なぜ、今、七三一部隊か」

7月22日(日)
ウィズ新宿

【フィールドワークチームのご案内】

省略

2018.7.1

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