The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College
常石 敬一(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・代表)
2016年12月11日、公開シンポジウム「科学者・技術者と軍事研究 ―科学・技術と研究者倫理にかかわる諸問題の科学史的検討―」で、「軍事研究の中の科学者―七三一部隊の科学者とその現代的意味」という話をした。
学術会議が軍事研究を拒否する方針の変更について議論を始めたのは、2015年に防衛省が安全保障技術研究推進制度を創設したことによる。初年度の補助金は3億円、16年度が6億円、そして17年度は110億円が予算計上された。21世紀になって2012年末に成立した安倍政権以降、公共事業費と軍事費(防衛費)はわずかに増え、科学技術費は目に見えて減っている。
欧米諸国や露中など専制国家では、科学技術は軍事費によって支えられている。現在の状況は日本も「普通」の国になるだけ、と見ることもできる。しかし日本は憲法九条を持つ国として、学術会議を先頭にして科学技術者はその軍事利用を強く自制してきた。それが広く支持を集めていたのは1970年代くらいまでだが、その伝統は今も消えていない。
11日、僕は、敗戦後の日本社会は戦争反対をお題目のように唱えるが、個別の、例えば七三一部隊での人体実験や生物兵器試用の事実と向き合おうとしない。日本社会の歴史認識の危うさを指摘した。問題は手垢にまみれた「普通」の国になるかどうかだ。
秋山浩の『特殊部隊七三一』(三一書房)を読んでいたら、1945年8月9日夜、平房の草原で「骨粉はその低いところへすてるのだ。…露見をおそれ…人骨と思わせないために、滅多切りにした馬の首や足、あるいは、おびただしい数の実験動物の焼き殻をその上にすてたりした」、という記述に出会った。それで思い出したのが佐倉鑑定で、「委託された資料は一五個の小型段ボール箱に分けて入れられた人骨であるが、人骨以外に、土、ガラス片(容器破片)、鉄片、牛骨などの若干の遺物が共存していた」と書かれている。これらは人骨をカモフラージュするためだったのか。これも未解明な謎だ。
山牛 蒡
初めての参加。集合地JR板橋駅は、元の職場があった。ガイド役丸山氏はかっての同僚。思えば計11年通いつめながら、この地が、加賀藩下屋敷があったことは頭にあったが、軍事都市という認識はなかった。
1871年、新政府の兵部省が、板橋金沢県邸(旧加賀藩下屋敷平尾邸)の一部を火薬製造用地に求め、1876年に板橋火薬製造所(後の東京第二陸軍造兵廠板橋工場、以下「二造」と略す)が発足、国営工場(最盛期7000人超・・・1919年夏、板橋で1000名、本廠7000名参加のストもあった)として日本最古の部類に属するとともに、産業都市板橋(特に戦時中、造兵廠の下請けで軍に納めた双眼鏡用レンズ研磨から始まるカメラ工業。光学機器工業は一時全国生産の七割をしめた)の原点でもある。
戦前の板橋地区から北区滝野川・王子・赤羽地域は広大な軍施設が集中する軍事都市であった。
戦後、進駐軍の占領下、戦災などによって影響を受けた学校や企業に、二造時代のレンガの建物が払い下げられた。(今日の帝京学園、家政大学、区立五中、野口研究所、資生堂絵具工業、愛誠病院や理研…今も当時の建物を一部そのまま使っている)
北園高の前身府立九中は軍事教練などで突出し、校内に射撃訓練場があった。今回目を引いたのは東板橋体育館わきの圧磨機圧磨輪記念碑、野口研究所敷地に残されている弾道管など。
自分が働き、住んでいる地域をあらためて歴史の中で見直すということへの興味、関心を忘れずに時々はこういう企画に参加してみたい。
2016.12.11
3月26日(日)
JR高田馬場駅集合
案内:鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)
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2017.2.5
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