軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』174号・要約

続 あてらざわ訪問記 ― 陸軍軍医学校の疎開先 ―

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)

軍医団雑誌顛末記 1988年4月 防衛衛生

 「あてらざわ訪問記」(「究明する会ニュース No.168」 2014年7月6日)を掲載して一年。山形県大江町立本郷東小学校元校長先生鈴木孝雄さんからの調査報告、奈須重雄さんが発見された軍医団雑誌編纂課員・渋谷豊盛氏の「軍医団雑誌顛末記」(『防衛衛生 第三五巻第四号』1988年4月)などを参考に続編を執筆。

 最初に渋谷豊盛氏の「軍医団雑誌顛末記」より左沢(あてらざわ)疎開の様子を紹介したい。
 1945年4月13日の空襲以降、軍医学校は山形地区への疎開、編纂課と印刷所の移転を計画した。「顛末記」で新たに判明したのは、左沢小学校の防空壕建設に軍医学校学生隊がかかわっていたこと、その目的は小学校の児童用だけでなく、全陸軍専用の地下印刷工場としても計画されていたことだった。
 工事が完了したのは終戦前日の8月14日。明和印刷株式会社の職員や工員らの3分の2にあたる百名を軍医学校の嘱託として徴用したが、結局、陸軍関係の物も軍医団雑誌も印刷されなかった。8月17日から焼却命令、19日に焼却中止命令。残部は9月23日に掘り出し、翌日標本館に収納した。また、「左沢の中村周二氏へ標本館物品監視の謝礼金支払い」ともある。病理学教室の大橋成一氏の回想では、病理学教室が作製した肉眼標本は小諸分院や山形高等学校の理科教室で保管したというから、本部「標本館」の物品は病理学教室の標本とは別に左沢に疎開させていたようだ。

 次に本郷地区の疎開状況について。
 鈴木孝雄さんの調査は本郷地区に疎開した陸軍軍医学校衛生史編纂準備室に関するもの。
 「顛末記」には「衛生史編纂準備室」の疎開状況について、「陸軍軍医学校衛生史編纂準備室(主任 渡辺徳七大佐)は、山形の左沢より更に西方四キロの本郷村小学校に移転し、…支那事変以来の陣中日誌、業務詳報の類はすべてこの地で焼却」とある。「人骨」の真相究明と身元確認を調査している私たちにとって「支那事変以来の陣中日誌、業務詳報の類」が焼却されたことは残念。
 鈴木さんの調査で明らかになったことは、第一に衛生史編纂準備室の軍医たちが本郷村の富農宅に分散して疎開、常駐したこと、第二に軍医学校の備品や書類などを富農宅の倉などに保管したこと、第三に軍医学校の拠点を本郷村東部尋常小学校の東体育館に設置したこと、第四に終戦後の書類焼却は小学校から数百メートルぐらい離れた月布川の「志津橋」や志津橋の下流で行われたこと、第五に本郷村の人々と軍医学校関係者は相互に協力し合い、良好な関係であったこと、その関係は戦後まで続いていたことなどである。
 特に終戦直後の書類焼却場所が特定できたことは大きな成果。鈴木さんの調査は、筆者(川村)の聞き取り調査を裏付け。補強するものである。
 鈴木孝雄さんからはこれらの調査報告と地図、写真が添付され、『本郷東小学校百十七年の歩み』(平成4年5月15日発行)も送っていただいた。これらは今回の「続 あてらざわ訪問記」で活用させていただいた。深謝。

2015年6月16日(かわむら かずゆき 元新宿区議会議員)

1945年 軍医学校左沢疎開関係史
1月31日 軍医団雑誌特号(376号)校了。結果的に最終号になる。
2月4日 夕方、大日本印刷より見本50部届く。
2月13日 軍医団雑誌特号(376号)、航空便で団員に発送。
3月10日 東京大空襲。軍医軍属に被災者。
4月13日 陸軍戸山学校、空襲で全建物炎上。軍医学校教育部本館のみ焼失免れる。以降、軍医学校の山形地区への疎開を急ぐ。
5月25日 東京山手空襲。軍医学校は第3病棟、図書館1・2階、その他2、3のみを残して全焼。
6月11日 陸軍省医務局にて軍医団雑誌編纂委員会を開催。用紙の取得困難に対処するため、軍医団雑誌をB版からA版に変更、印刷部数減少等を決定。
8月14日 左沢工場で輪転機の試運転を実施。
8月15日 終戦。
8月16日 事務員は全員帰宅させる。明和印刷役員慌しく来訪、出張中の教官を待つ。夕刻渡辺教官帰任。工場は即刻軍と切り離し、重要書類の焼却、資材の隠滅を言い渡す。
8月17日 学校倉庫の教材焼却。
8月18日 専称寺収納の教程焼却。
8月19日 植田大佐より焼却中止を命ぜらる。
8月21日 教官、東京へ出張。軍医団へ納金16.899円10銭。
8月23日 左沢の中村修二氏へ標本館物品監視の謝礼金支払い(4ヶ月分 180円)。教程残部調査。
8月24日 渡辺中佐帰任。青木嘱託東京へ出張。街灯つき始める。
8月26日 教程類を寺町佐藤方に収納。
8月27日 一般図書佐藤方に収納。
8月28日 事務員を半数出勤とする。米軍厚木飛行場へ進駐。教官左沢に出張。復員委員会。
8月29日 青木嘱託帰任。団長閣下より記念品(金一封)。
8月30日 午后予銭会。梱包資材を佐藤方に運ぶ。渡辺大佐来訪。
8月31日 学校復員に伴う諸業務。残留、転退職に関する所属類提出。
9月2日 転退職金支給。全員記念写真を撮る。
9月6日 学校長井深閣下左沢巡視。標本館整理。
9月7日 軍医学校解散式。
9月11日 部室要務研究室と合併。歴代陸軍省医務部長の肖像額を左沢の羽後銀行地下室に格納。
9月13日 進駐軍将校、調査のため来航する予定であったが中止。
9月23日 左沢工場のコンクリート下に埋めておいた軍医団雑誌を掘り出す。
9月24日 渋谷東京出張。軍医団雑誌、不要雑誌を標本館に入れる。
9月25日 雑誌バックナンバー調査。昭和16年分全、昭和17年分 全、昭和18年分 1部欠、昭和19年分 全。
9月26日 渋谷帰校。
11月30日 陸軍省廃止。渡辺中佐 山形陸軍病院長に補せられる。
12月1日 渡辺教官、国立山形病院長に補す。同時に青木袈裟美嘱託、山形国立病院へ転属。
「軍医団雑誌顛末記」より作成
― 厚生労働省が宿題に回答 ―

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)

「陸軍北方部隊略歴」は旧厚生省が作成
「満州方面部隊略歴」は防衛研究所が「陸軍北方部隊略歴」より抜粋作成

 厚生労働省から七三一部隊略歴について6月24日付で回答が寄せられた。
 アジア歴史資料センターで「関東軍防疫給水部略歴(関東軍防疫部)」を検索すると「陸軍北方部隊略歴」と「満州方面部隊略歴」の二つ出てくる。
 厚生労働省から人骨の会に提供されたのは「陸軍北方部隊略歴」の資料抜粋。国会に提出されたものはどちらか、「陸軍北方部隊略歴」と「満州方面部隊略歴」とはどのような関係なのか。
 厚生労働省の回答は、「満州方面部隊略歴」は防衛研究所資料閲覧室が「陸軍北方部隊略歴」から「満州部隊の略歴を抜き出して作成した」という。国会に提出された七三一部隊略歴は旧厚生省が提出したのであるから、「陸軍北方部隊略歴」の抜粋であったことが判明した。

2015年6月26日

関東軍防疫給水部の通称号は「満州669」
「満州731」は関東軍防疫給水部本部の通称号
― 陸軍部隊調査票で判明

  もう一つ、宿題報告で提供された資料に防衛省防衛研究所が作成した在満部隊の通称号が記載された「陸軍部隊調査票」があった。

  • この「陸軍部隊調査票」は「昭和二十年十月二十八日 陸軍省調製」とあり、「調査表目次」は、
    • 其一 師団、旅団、其ノ他編合部隊
    • 其二 地上単独部隊
    • 其三 地上ノ満洲部隊
    • 其四 航空関係部隊
    • よりなっている。
    • 「註」として「誤りあるも業務用の参考として不取敢配布す」(カタカナを平仮名に修正・筆者)

  厚生労働省の社会・援護局から提供を受けた資料は「其三 地上の満洲部隊」の246頁。そこには関東軍防疫給水部と同本部、同支部の在満通称号が対比してある。

  • 列挙すると以下のようになる。
    • 満洲669 関東軍防疫給水部
    • 満洲731 同 防疫給水部本部
    • 満洲643 同 防疫給水牡丹江支部
    • 満洲162 同 防疫給水林口江支部
    • 満洲673 同 防疫給水孫呉江支部
    • 満洲543 同 防疫給水海拉爾江支部
    • 満洲319 同 防疫給水大連出張所
    • よりなっている。

常石氏講演・要約
前半

常石氏講演資料:国会に提出された731部隊略歴
講演資料

お詫びと訂正
お詫び

連続フィールドワーク第二回
「陸軍軍医学校の始まりと軍陣医学の体系」報告

宮根 一彦

 飯田橋から始まる歴史散策へ、約10名が集う。江戸城の石垣、甲武鉄道旧牛込駅跡を端緒に、日本赤十字社発祥の地や与謝野夫妻の居住地跡、警備の物々しい朝鮮総連と法政大学脇の坂を登り、靖国神社へ。遊就館の内外に展示された、戦争の記憶をかたどる歴史的遺物、戦争の主体である国家が要求するあらゆる形の犠牲が具象化された形を確認。
 また、靖国神社の中で最も大事な場所であるとされる、「英霊」の御霊が降臨する場が、現在は駐車場。このアスファルトが玉砂利に変わる時こそ、日本が本当に危ない時(鳥居説明)。現政権による法整備を、我々主権者は強く警戒し続けなければならない。
 「しょうけい館」では、戦争により自らの肉体に深刻な損害を受けた軍人軍属の人々が、戦後、不自由を強いられた生活に苦しみもがいた姿と、国策により戦争の加害者とさせられながら、同時に被害者ともなった人々の用いた遺品が展示される。戦争の愚かさ、それを遂行する国家、為政者の危うさを、痛切に感じた。

牛込見付址をは江戸城の石垣が
その向こうには富士見町教会が見える
赤十字社(博愛社)発祥の地
その後、ここに陸軍軍医学校が設立
遊就館1階ロビーは、無料
泰緬鉄道を走ったC56型31号機関車
やゼロ戦、高射砲などが展示される
アンケート結果報告
内容省略
第二次大戦と植民地支配に関する
フィールド・ワークに参加して

渡辺 洋介

 6月13日(土)、高麗博物館からwamまでを歩いて見学する「第二次大戦と植民地支配」をテーマとしたフィールド・ワークが行われた。練馬で毎月行われている「東アジア近現代史連続セミナー」の一環で、約10人が参加。まず、高麗博物館を見学し、ガイドの鳥居さんと落ち合う。そこで人骨問題の経緯について解説。小泉八雲の旧居、陸軍幼年学校跡地、旧陸軍戸山学校将校集会所を通り、最後に納骨施設を見学。その後wamへ向かった。
 人体実験は七三一部隊が有名だが、似たようなことは各地で行われてきた。ある戦争体験者が「戦争は人を狂わせる」と語っていたが、戦時中の異常な社会的雰囲気が医学研究者の感覚を狂わせたのか。
 人骨が発見された際に、それを隠そうとする圧力が各方面からかかったそうだが、圧力に屈せず、粘り強く真相を解明してきた人骨問題を究明する会の方々の努力には深い敬意を表す。

高麗博物館で人骨問題を解説
草生す納骨施設を囲む
731部隊の中枢・防疫研究室跡
【人骨発見26周年集会】
敗戦70年~731部隊は何をやったのか~

講演:常石敬一(神奈川大学・軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・代表)
報告:奈須重雄(NPO法人細菌戦資料センター理事)
細菌戦と金子論文(「陸軍軍医学校防疫研究報告」)
日時:7月19日(日)13:30~16:30
会場:ウィズ新宿3階会議室(新宿区男女共同参画推進センター)
資料代:500円
主催:軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・新宿区婦人問題を考える会

第3回 豊多摩監獄と陸軍中野学校

期日:9月27日(日)13時出発
集合:JR中央線中野駅北口改札口

第4回 東大と戦争

期日:12月6日(日)13時出発
集合:東京メトロ本郷三丁目駅本郷通り方面改札口

2015.7.5

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