軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』173号・要約

身元確認調査や七三一部隊略歴で厚生労働省と交渉
「厚生省」による略歴「改ざん」はなかった

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)

白熱する交渉風景

 厚生労働省大臣官房厚生科学課と3月25日、霞ヶ関の共用会議室で話し合った。
厚生科学課からは松村達司課長補佐が出席、七三一部隊略歴に関しては援護局業務課調査資料室の手嶋勝室長補佐が同席した。究明する会は常石、鳥居、平野、根岸、川村の5人が参加、「人骨問題に関する質問と要望」を手渡した。

 新しいことは、財務省が発掘調査を行った旧若松住宅で出土した遺物は、2014年度内に千代田区内の施設に保管替えを行ったことが報告された。
新しい要望として、生前の感染症の有無を判定する歯髄のDNA検査の実施を求めたが、他の鑑定と同様、実施できる状況ではないという回答であった。

七三一部隊略歴の「改ざん」疑惑をめぐって
 今回の交渉は1982年に厚生省(当時)が国会に提出した「関東軍防疫給水部略歴」が厚生省によって「改ざん」されていたかどうかが焦点であった。

 資料を保管している援護局調査資料室から「陸軍北方部隊略歴 其一 厚生省援護局」の表紙がある「関東軍防疫給水部略歴(関東軍防疫部)」の四頁資料が提出された。部隊略歴の原本は数十冊、各都道府県にも送られ、現在は援護局調査資料室で電子化して使用している。
 厚生労働省から国立公文書館に移管されている「関東軍防疫給水部略歴(関東軍防疫部)」には、表紙が「陸軍北方部隊略歴」と「満州方面部隊略歴」の二つがある。援護局から提供を受けた資料は「陸軍北方部隊略歴」で、援護局に残された資料に「本部七三一」の手書き修正が行われたものと思われる。
 常石代表が保管していた「関東軍防疫給水部略歴(関東軍防疫部)」が三頁に縮小されていたが、森村誠一著『<悪魔の飽食>ノート』(晩聲社 一九八二年五月十五日))に記載があるとの情報を受けて調査したところ、省略はなかった。
 このことから考えると、厚生省が榊利夫議員の質問に対して提供した「関東軍防疫給水部略歴」は当初から四頁で、常石代表に渡った時点で誰かが一部省略したと考えるのが自然。「厚生省」による略歴改ざん疑惑はなかった。

(2015年5月12日 記)

お詫びと訂正 お詫び
厚生労働省の回答 174号
厚生省に欺かれた国会(国民)――731部隊略歴
人骨発見25周年最終イベントDVD上映会&お話・後半

講演:常石 敬一(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・代表)

 「七三一部隊」という言葉が公文書で出てくるのは、「昭和十五年度支那事變陸軍軍需動員軍需品整備竝供給状況調査表送付ノ件」の中に「満洲第七三一部隊軍需品…」とある1941年6月11日の資料。これくらいしかない。それから公文書ではないが、「凍傷ニ就テ 昭和十六年十月二十六日 満洲第七三一部隊 陸軍技師 吉村寿人」というのもある。金子の博士論文の「低空雨下試験」は所属部隊が加茂部隊になっている。1940~41年には七三一部隊と言ったり加茂部隊と言ったりしていた。それから、「『イヌノミ』ノ『ペスト』媒介能力ニ就テノ実験的研究 陸軍軍医少佐 平沢正欣 満洲第七三一部隊(部隊長 陸軍軍医中将 石井四郎)」となっている。たぶんこれは1940年頃。授与年月日は「昭和二〇年九月二六日」。この時平沢正欣は、戦死している。死んだ後に京都大学がこの論文に対して博士号を出している。

 これがすごいのは、猿にイヌノミが媒介するペスト菌を注射すると猿はどうなるか。発熱、食欲不振、頭痛を訴える。頭痛を訴える猿、それは人間でしかありえない。そういうのに対して京都大学は敗戦の年の9月26日、博士号を出している。それから池田苗夫は堂々と人間を使った実験をしたと言って論文を書いている。それが学会誌に載る。こういうことをきちんとまとめたいと思っている。

 それから石井機関という呼称。「陸軍防疫研究報告第二部第九九号」の見開きの隣の部分を拡大すると、第五章は、「石井機関ニ於ケル豫防接種ノ改良」。つまり七三一部隊とか加茂部隊ではなくて、石井機関という呼び方がなされている。だから七三一部隊だけではなくて、北京、南京、広東、シンガポールの各部隊、それから東京の陸軍軍医学校防疫研究室、これらを全部ひっくるめて石井機関と呼ばれていた。

 もう一つ、七三一部隊の広報活動。「レファランスコード:C13010542400 内容:ノモンハン事件写真 日時 昭和14年7月3日 場所 ハルハ河渡河点 画面 ハルハ河渡河点ノ激戦 関東軍防疫部職員撮影 関東軍防疫部長石井四郎」大量の写真がここに出てくる。

 こういう活発な広報活動を石井たちは最初からやっていたという事を考えて行くと、防衛庁とか、警察とか消防の方々が、あまり熱心に広報活動をやっていると、何か裏があるのかなあと何となく不安になる。

講演資料

質疑応答
  • 質問

    アジア歴史資料センターとは何か

  • 川村

    国立公文書館の中の一つのセクションで、外務省外交資料館、防衛庁図書館、国立公文書館の資料のうち、公開されているものがインターネットで提供される。村山内閣の時に構想され、福田康夫元首相が官房長官をしている時にオープンした。

  • 常石

    今は100%とは言わないけれども、かなり公開されるようになった。100%公開されなくても、ガラクタが99%公開されていればこれとこれをつき合わせてこれがあるはずだ、探せと問い詰めれば出てくることがある。そういう風にして本当に必要な資料は自分たちで探さなければいけない。待っているだけではだめ。

  • 質問

    国が都合が悪い資料を全部廃棄しました、焼きましたっていうけど、意図的に政府が隠している資料があるかも知れない?

  • 常石

    かなりの資料が陸軍省で焼かれたことは確か。それから、ものすごく重要なものは文書化しない。これは米国の話だが、1946年アメリカ原子力委員会の初代委員長リリエンソールが大統領に書類を持っていき、現状の説明をした。原爆のストックの所には何も数字がない。大統領がこれは何だと言うと、リリエンソールは、機密です。機密は分かったけど何で空欄だ。今、米国には原爆無いんです。原爆ゼロっていうのを文書に残すとゼロだとばれちゃうから… 大事な事は文書に残さないという事をその時に学んだと彼は言っている。

(休憩・DVD上映)
以下の質疑応答は省略

お詫びと訂正 お詫び
厚生労働省の回答 174号
2014年12月21日・長谷川ゼミ フィールドワーク感想(後編)

内容省略

お花見ウォークの記録

江川 由香里

 参加者20名が集い、今年もお花見ウォーク開催。夏目漱石生誕の地を通りながら早稲田大学津久井町キャンパス内にある戦災者供養観音へ。この下にあった防空壕内では空襲の煙によって300名以上の人々が亡くなった。地域の歴史には一つにはまとめられない物語がある。
 陸軍軍医学校跡の門衛付近の石柱や地下道を埋めた跡、そして石垣などはいつ見ても戦争遺跡としての物々しさを感じさせ、軍医学校正門の右側に残っている塀は軍医学校がどういった位置関係で設置されていたのかを教えてくれる。防疫研究室跡から陸軍戸山学校跡(戸山公園内)へ。最後は大久保通りを進み、小泉八雲終焉の地を歩き、高麗博物館にて朝鮮絵画に触れた。

2015年3月29日

戦災供養観音に献花
納骨施設に献花
高麗博物館でお話を伺う
2015年連続フィールドワーク第2回
陸軍軍医学校の始まりと軍陣医学の体系

5月31日(日)13時~
集合:JR総武線飯田橋駅西口改札口前
しょうけい館等見学
資料代:500円

人骨発見26周年集会

講演:常石 敬一 敗戦70年~七三一部隊は何をやったのか
報告:奈須 重雄 細菌戦と金子論文(「陸軍軍医学校防疫研究報告」)
日時:7月19日(日)13時30分~16時00分
会場:ウィズ新宿(男女共同参画推進センター)
資料代:500円
共催:新宿区婦人問題を考える会

2015.5.24

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