軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』168号・要約

陸軍軍医学校の疎開先
あてらざわ訪問記

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)

玉川旅館の井上さん(左)と川村

 山形県大江町左沢(あてらざわ)。小西公三さんの回想(陸軍軍医学校同窓会誌 第5号 1995年)によると1945年春、陸軍軍医学校が山形県各地に疎開した。また、敗戦直後、「左沢の本郷村小学校に疎開中の陸軍軍医学校衛生史編纂準備室は、学校本部からの命令で陣中日誌、業務詳報、教程などの焼却を開始」(彰古館 2009年)との記述もある。左沢を訪問してみた。

 山形市に着いたのは3月28日。役場を訪れ、防空壕や本郷村小学校(現在の本郷東小学校)の場所を教えてもらった。宿泊した駅前の玉川旅館のご主人、井上捷三さんは1942年(昭和17年)生まれ。
「軍医学校のことは母(ツエさん)から聞いています。戦時中、軍医学校の人が紙などを大量に持ち込んでいた。昔の左沢小学校の運動場の下に大きな防空壕があって、そこに印刷機械があった。終戦後、その機械は地元の若月印刷に払い下げられた。大江町役場で広報誌担当の経験があり、若月印刷のことはよく知っています。」

旧左沢小学校の防空壕入口
(軍医団雑誌の印刷工場が疎開)
 大江町が発行している大江町マップにも防空壕について記述がある。山形県は『おしん』の貧しいイメージが強いが、江戸時代は、酒田と米沢を結ぶ最上川は舟運の地として賑わっていた。大正時代になると左沢線の開通で輸送は鉄路に代わる。
 翌日朝、防空壕を見に行く。小西公三さんの回想とぴったり一致。建物に沿って下っていくと、崖側にコンクリートの入り口が二か所あった。鉄の扉に鍵がかかっていて入れない。
 中央公民館図書室で資料調査。『語り部』(大江町老人クラブ連合会発行・1992年9月)の中に下北山在住の菊地文子さんの「戦争中の軍医学校」があった。
 「北山地区の農家は大半、兵隊さんの宿舎になりました。私の家も畳を全部とり、靴履きのまま生活されるようにしました。蔵の中には軍医学校の重要書類を入れることになり、荷物を片隅に片付けました。開校の日には、隊長さんが十人程の隊員を連れて見えました。地元の人達も学校に就職されて、書類整理、炊事・掃除が主な仕事のようでした。」
 中央公民館から菊地家へ。黒塀の大きな屋敷で、門前に大きなポプラ。奥様の喜恵子さんによると、文子さんが亡くなられたのは4年前。彰古館の記述は本郷村小学校としか出ていなかったが、小学校周辺の農家に寄宿していた。焼却場所も小学校ではなく月布川の川原で、という証言だった。
 午後は若月印刷を尋ねた。会社の役員で奥様の綾子さんが応対、後から先々代の回想録のコピーを数枚、旅館に届けてくれた。
 若月友弥さんは1919年(大正8年)に左沢郵便局に就職。東京の秀栄舎(現在の大日本印刷・新宿区)に勤務していた兄が関東大震災で帰郷、中古の印刷機を買って自宅で印刷業を開業した。友弥さんは、1925年(大正14年)、郵便局を辞め、兄の仕事を引き継いだ。
 小西公三さんと若月友弥さんの回想を総合すると軍医学校の印刷工場と印刷を委託されていた明和印刷が一緒に左沢小学校に疎開していた。現在の明和印刷(文京区)のホームページに次のような記述を見つけた。 「1944年(昭和19年)12月、…軍需産業に転用する方針のもとに、「印刷業企業整備要綱」が適用され、9社が合同して設立された事業体からスタートした。おもな仕事は陸軍航空本部ならびに陸軍関係官庁および飛行学校、陸軍軍医学校などの教程、参考書類や機密書類などの印刷や製本。「印刷業企業整備要綱」が適用された東京都の印刷業者は5786社。そのうち1194社(20.6%)が残存する」
 ちなみに私の手元にある軍医団雑誌や『陸軍軍医学校五十年史』は大日本印刷であるが…。
 若月さんが来られる前、宿に戻った私は、井上さんに報告。井上さんは存命の鈴木孝雄さんを紹介してくれた。鈴木さんとは、後日、手紙でやりとりすることにした。
 公式記録の『陸軍衛生制度史〔昭和篇〕』(1990年)には、現在の大江町、左沢や本郷の記述はない。彰古館には、「標本館の展示品は山形盆地を中心にした広範囲に分散秘匿し、歴代軍医総監の肖像画は肥後銀行の地下金庫室に隠され、軍医団雑誌のバックナンバーは左沢工場コンクリート下に埋められたのです」とある。
 人体標本については軍陣病理学教室の大橋成一さんの回想がある。『大東亜戦争陸軍衛生史〈巻六〉』「軍陣病理」(1967年)によると、病理学教室で作製した肉眼標本のうち「小諸分院・山形高等学校で大橋が保管し、終戦後持ち返った標本のうちで破壊からをまぬがれたものが約二十数点あった。その後国立東京第一病院で保管していたが、1958年(昭和33年)夏に自衛隊衛生学校に寄附された」。
 山形への疎開業務は高田太郎(内科教官)と池田克明(学校副官)の両少佐が担当、敗戦後も山形に残り、復員作業や山形に疎開した器材、物資の東京返送業務を担当した。これらの人の努力で、疎開器材は損傷もなく東京に返送されたと小西さんは述懐している。
 最後に東京と山形以外の陸軍軍医学校の施設を書き留めておこう。1944年に千葉県昭和町(現在の袖ヶ浦)に楢葉実習所を設置、化学兵器研究室が移り、新潟市と千葉県市川市の競馬場に新潟出張所と中山出張所が開設され、主に防疫教室、防疫研究室の研究に当てられた。1945年には京都市伏見区に伏見出張所が設置され、薬剤教室は甲府に疎開、山梨高等工業専門学校及び山梨師範学校を接収し、甲府分教所として使用している。

 今後も機会を見て調査を進めて行きたい。

旧左沢小学校跡(現ふれあい会館)
手前が月布川、右奥が最上川
軍医学校が接収したとされる旧本郷村
小学校(現本郷東小学校)
軍医学校関係者が疎開した旧本郷村菊池家
正面に書類が保管されていた土蔵が

(2014年4月6日)

DVD上映会、好評のうちに終わる
第五回「七三一部隊の中枢 防疫研究室の実像」

安松 狢

伊東 栄三 さん
石井 十世 さん

 6月8日(日)、DVD上映会最終回開催。今回は元防疫研究室軍属の伊東栄三さんと、元軍医学校看護師の石井十世さんのお二人。
 伊東さんは、発見された遺骨の多くは中国人の匪賊のものと証言。これは当時反日抵抗運動に関わっていた人のことか。石井さんは日赤の看護師として、陸軍軍医学校・国立第一病院に勤務していた。ビデオは98年のお花見ウォークで証言したもの。

代表・常石 敬一
川村 一之
鳥居 靖

アンケート結果
内容省略

これからの予定
後述

オーストラリアの雑誌に人骨の記事

根岸 恵子

 ABR(Australian Book Review)に、「Unearthing the Past (発掘された過去)」という記事掲載。作者はクリスティン・パイパー。

新聞記事

朝日新聞:731部隊の証言者 篠塚良雄さん 「このまま闇に葬っていいのか」《2014年6月21日(水)》
朝日新聞:ハンセン病元患者将来の安心見えず リーダー死去■高齢化」《2014年6月23日(金)》

全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)会長の神美知宏さん、5月9日逝去。享年80歳。

【人骨発見25周年記念集会】 人骨問題の過去・現在・未来

記念講演「法医学と検死―死因究明二法の施行と人骨問題」
講師:石原 憲治さん
DVD上映:湯浅謙さん(元潞安陸軍病院軍医)・斎藤陽さん(元防疫研究室軍属)
日時:7月20日
会場:ウィズ新宿

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第二回 東京砲兵工廠ウォーク

9月28日(日)12時50分 13時出発
JR水道橋駅東口改札口集合
資料代:500円+小石川後楽園入園料

2014.7.6

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