The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College
2012年7月22日(日)、ウィズ新宿で開催。参加者は20余名。川村一之さんの「財務省の発掘調査と人骨」、宇田川肇さんの「2ヵ所の発掘調査に携わって」の2つの報告と馬場悠男さんの「人類学の進歩と人骨」の講演が行われた。以下に講演録掲載。
婦人問題を考える会挨拶(石川 久枝)
新宿区で起こった事件という事で、当初から関わってきた。今日は楽しみ。
司会 常石 敬一
骨が見つかって23年経つが、未だに身元は分からない。佐倉さんの鑑定でアジア系が主体ということが分かっている。ヒッグス粒子もあれだけ金をかけて大規模にやって発見された。人骨問題も、地道にやっていればいずれわかる。
川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)
(注1)関東財務局の2012年8月8日付文書「合同宿舎若松住宅の発掘に関する調査結果について」によると、調査期間は第一期 2011年12月8日から2012年5月31日、第二期 2012年6月18日から12月28日となっており、調査期間は、報告書作成期間を含む。現地調査は、2012年7月30日終了。第一期は財務省がテイケイトレードに委託して行った人骨発掘調査、第2期は東京都埋蔵文化財センターが行った埋蔵文化財調査。
追加資料
去年の4月、僕も骨を切断した。医者は「ボルトでつながっているから」とあっさりしたもの。次は宇田川さん。厳正中立の立場で、淡々と(調査をした。)結論としては、出てきたものはゴミだ。89年の骨も、ゴミとして捨てられたんだろう。日本人の骨ならゴミとして捨てるか、と云う思いが、今回の発掘調査で強くなった。
宇田川 肇(テイケイトレード株式会社・埋蔵文化財事業部調査課長)
テイケイトレード株式会社埋蔵文化財事業部調査課長・宇田川です。
江戸時代の遺跡発掘をずっとやってきて、20年になる。東京でも新宿区、千代田区、中央区あたりの発掘ばかりやってきた。遺跡を掘っていると、明治時代以降の遺物や建物跡が出てくる。今、東京都の指導では発掘対象は明治時代まで。それ以降は例外はあるが、遺跡として扱わない。が、明治時代以降も歴史の1部。時間的・予算的な制約の中で近代の遺跡もなんとか発掘成果のなかに取りこみながらやっていこうと考えてやってきた。
今回、厚労省と財務省のお話は人骨の調査という。最初はどうしようかという思いがあった。まず戦争遺跡だけにかかわることはめったにはない。それから、ここは江戸時代の遺跡包蔵地。いろんなクレームがあっても粛々かつ淡々と調査をやろうとまず決めた。次に、考古学的手法に徹した調査を進めた。人骨を探すといってもちゃんと位置や状況も確認して、日々日誌をつけるという「通常の考古学的な発掘」をそのままやると。時間的予算的な制約の中で、出土遺物にも細心の注意を払い、あとで検証に堪えるように最低限の情報収集を目指すと決めた。もうひとつ、注射針や薬品類など、安全確保を命じて、発掘調査に臨んだ。
調査区の位置は戸山公園の交通広場の辺り。江戸時代、尾張藩の庭があり、池になっていて舟を浮かべた。ずいぶん高低差がある。低い土地を埋めて昭和22年には今の地盤になっている。
調査対象地内に最初試掘坑を入れ、江戸時代の遺構に触れないよう調査をした。コンクリートの建物跡が出てきた。戦前、平地を造り建物を造った。鉄筋を使っていない。昭和初期にはいい鉄筋があるから、物資が欠乏しているころか、バラック状態だったのか。建物も戦前ではあるが新しい施工(様式)。
掘ると深い谷、土を5メートルくらい埋めて平坦地にした。埋めたところの一番下から水が湧いてくる。これが江戸時代の池があったところ。下から杭が出てくる。南側は、地表面下7メートルぐらい試掘した。北側からだんだん埋めていって、段階的に土地を広げつつ建物を作っていった。地盤がとても緩い。
調査の時には土留めを打って調べたが、試掘のときは階段掘り。厚労省の敷地内は全面的に地表面下5メートル、重機を用いてスライスして掘削し人骨を探した。
結局、人骨は見つからなかった。遺構もなかった。表面を精査したら、「陸軍東京第一病院」(東一)、「丙種学生隊」、「医校」と書いた統制食器が出てきた。上絵付けといって、量産品の食器にもう1回新たに字を書いて焼き付けている。また、敷地全体にガラが多い。昭和40年代、50年代に建物を壊し、ガラをそのまま埋めていった。
若松住宅は厚労省とまったく違って、地表面下約60センチから1メートル掘ると関東ローム層が露出する。江戸時代の遺構も、戦争中の遺構も見つかった。
建物の基礎があり、その脇に1号土坑、3号土坑、4号土坑がある。こういう形で廃棄された遺物が見つかった。江戸時代中期、後期、幕末と茶碗などが出ている。江戸時代の遺構は、改めて調査を行う。うちは受注し損ねた。建物の周囲に穴を掘って、廃棄品を埋めている。普通ゴミ穴はいい加減だが、この遺構は四角く掘ってあり、特徴的。
まとめると、若松住宅側の方は、整形外科の近くなので建物も多く、遺物も多く土坑もあった。しかし、厚労省側の方は後世に混ぜ返されたりして見つかりづらかった。
調査を重ねていけば必ず記録が残り、検証も可能になる。自分の調査がここまで皆さんの検証をうけたのは非常に光栄。厚労省の方は主任として、財務省は監修者として、いずれの調査も全力を尽くした。批判と指摘を甘んじて受け、公にされることによって今後より良い調査が行われる。
根岸 恵子
8月8日、今年1月から5月まで行われた財務省若松住宅の発掘調査で見つかった江戸期の埋蔵文化財調査の現地説明会が行われた。受託したのは東京都埋蔵文化センター、下請け業者は古久根建設。担当の財務省関東財務局管財第1部第3統括国有財産管理官池田季樹さんが、これまでの経緯等を説明。続いて東京都埋蔵文化財センター調査研究員小坂井孝修さんから、発掘調査について細かい説明を受けた。参加者は住民ら10人程度。
発掘地点は尾張徳川家下屋敷の1部で、「御添地」と呼ばれた江戸常住の家臣の住む長屋があり、柱穴の跡や井戸、排水に使われていた溝状遺構などが見つかった。出土品は、大量の瓦や陶器、徳利や灯明具、皿、土人形などの生活雑器。とくに心を惹いたのは、胞衣皿という、お産のとき、生児の成長を願って胎盤を埋める素焼きの薄い皿。会の平野さんは、家族を大切に思う習慣が当時はあったが今はないとおっしゃっていた。
平野 利子
本書は、1995年以降展示会の経緯と問題点について「人体の不思議展に疑問を持つ会」の末永恵子氏によって、詳しく書かれた。死体はプラスティネーション、その後プラストミック標本として展示され、足掛け17年間のべ980万人が観覧した。「人体の不思議展」の実行委員会、監修委員会は、昭和17年の安田講堂前に勢ぞろいした第11回日本医学会総会の写真とダブり、その内容は731部隊展のパネル『医師たちの暴走』を想像させられた。
展示会は2011年の京都展を最後に閉幕宣言をしたが、プラ標本の消息は明らかにされていない。歴史の闇に葬り去られることが心配される。
原爆は落とされ原子力発電所の事故は起こってしまったが、私達は医学界の許されざる行為の3度めは絶対に許してはいけない。標本になられた方々の1日も早い安らかな死を祈る。末永さんの名前を言って下記に連絡すると、5冊以上なら、2割引・送料無料で入手可。
大月書店編集部:松原 忍
113-0033東京都文京区本郷2-11-9
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期日:9月23日(日)
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2012.9.16
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