軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』156号・要約

陸軍軍医学校の戦場―発掘で明らかになった闇に隠された日常の風景

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)

  • はじめに

     陸軍軍医学校跡地で発見された人骨は、財務省の発掘調査によって、鋸断痕の残る四肢骨と向き合うことになった。発掘調査で出土したのは夥しい義肢などの医療用具や器材だった。財務省の発掘調査の意義を検証する。

    1. 石井証言とはどういうものであったか

       陸軍軍医学校に勤務した元看護師、石井トヨの証言に基づいて、財務省は「人骨」の有無を確認するための発掘調査を行った。場所は、新宿区戸山の国家公務員宿舎「若松住宅」敷地内の児童遊園。調査は2012年2月1日から開始され、3月末に終了。調査の結果、「人骨」は確認されなかったが、陸軍軍医学校と済生会牛込病院の建物の遺構と医療用具や器材が多数出土した。

    2. 起伏に富んだ発掘調査の現場

       国立国際医療研究センターは、戦時中は臨時東京第一陸軍病院、敗戦後、国立東京第一病院になった。国立国際医療研究センターの東側の擁壁に沿って、北に向かう道は、なだらかに下る坂道になっている。そこを少し下ると二又に分かれ、そこが陸軍軍医学校の正門で、まっすぐ向かうと軍医学校の本館に通じていた。発掘調査を行った場所は、この正門に向かって右側、東側一帯の窪地になる。

    3. 尾州徳川家の下屋敷から軍医学校へ

       調査地の陸軍軍医学校は尾州徳川家の下屋敷の一画、戸山荘と呼ばれていた。江戸時代の大名屋敷址であることから、新宿区は埋蔵文化財包蔵地に指定、発掘調査にあたっては試掘調査で埋蔵文化財調査を行うか否かを決める必要もあった。明治維新後は陸軍が管轄、近衛騎兵連隊、陸軍戸山学校が置かれた。関東大震災を契機に陸軍病院や陸軍軍医学校が移転、1929年3月竣工。
       財務省若松住宅敷地は軍医学校診療部本館南側に位置する。診療部本館から南方に向かって、平屋建てのレントゲン科、2階建の皮膚科、眼科、口腔外科、耳鼻咽喉科の4科診療室があった。

    4. 整形外科教室の誕生

       「満州事変」以降、戦傷者が急激に増加し、「戦傷者の診察は陸軍病院(当時は東京第一衛戍病院・筆者注)で行うことになっていたが、「特殊の患者」を陸軍軍医学校の診療部で受け入れることにした。」(陸軍軍医学校五十年史)。軍医学校は昭和7年、整形外科の新しい建物を新設、義肢製作工場を付属した。軍医学校診療部で受け入れた戦傷患者数は二年間で約8500人。そのうち整形外科が27%。
       陸軍が消滅し、国立病院に生まれ変わったとき、整形外科も無くなり、代わりに産科・婦人科が新設された。国立病院に整形外科を開設したのは1948年以降のことだった。石井証言と伊藤光雄医師(国立東京第一病院産婦人科)の回想記(『創立三○周年記念誌』)は符合している。

    5. 発掘調査で大量の医療用具を発見

       財務省の発掘調査は試掘から開始、埋蔵文化財調査が必要な区域を残して1工区(調査地の東側半分)の人骨発掘調査が行われ、2月25日に第一回の現地説明会が持たれた。整形外科の建物と思われる基礎の東側に「1号土坑」という医療器具の捨て場が見つかった。地上から約1.8メートルで義足などの遺物が出土、コルセットや義足等が次々と発見された。ここが石井証言に見合う場所だと思われる。
       第二回の現地説明会は、2工区(調査地の西側半分)の調査が終了した3月6日に行われた。崖になった擁壁と整形外科の建物の裏手に沿って、「2号土坑」~「6号土坑」の五か所の医療器具の捨て場が発見された。ここからも、整形外科で使用されたと思われる石膏の型、試薬ビン、試験管やアンプルなどが大量に発見された。未使用の試験管や液体の入った試薬ビンなども木箱に入ったまま出土した。写真乾板や16ミリフィルム4巻も発見された。
       発見された遺物は陸軍軍医学校の整形外科に関連するものと推測される。焼失を免れた整形外科の建物を国立病院の産科・婦人科として使用するため、残存物を廃棄した可能性がある。

    6. 陸軍軍医学校と義肢の開発

       手足を失った戦傷病者に対する義肢の開発は第一次大戦で著しい進歩を遂げた。日本では明治維新後陸軍が義肢の研究を行い、満州事変以降、義肢の改良が行われ、日常生活や各種職業に従事できるようになった。(「義肢の話」:週報第二○九号(1940年10月9日)内閣情報部)今回の発掘調査によって出土した金具の付いた義足は陸軍軍医学校が考案した試作品に類似している。陸軍は満州事変前より金属製義足を製作し、その効果を挙げていた。1号土坑で発見された金具の付いた義足は陸軍が開発した義足と一致する。

    7. 四肢骨は整形外科の標本だったか
      1. 佐倉鑑定

        財務省の発掘調査で出土した医療用具などが陸軍軍医学校の整形外科に関連したものと推測できるならば、1989年に発見された四肢骨は整形外科の標本ではないか。

         佐倉朔・札幌学院大学教授の『戸山人骨の鑑定報告書』によると四肢骨について、鋸断された大腿骨などは同じ人ではなく、骨質の風化が強く良質な標本ではなかった。また、股関節を構成する寛骨がなく、大腿骨とそれより末端の骨が存在する。鋸断痕は大腿骨と脛骨、そして上腕骨にみられる。更に、乾燥標本であったと考えられる一体のものを除けば、大部分が骨のいろいろな位置で鋸断され、防腐処理がなく軟部が付着していた可能性が大きい。鋸断以外の加工や明らかな病変はなかった。

         整形外科医の保坂瑛一医師は「手術の際切断されたものか、屍体から採取されたものか。すくなくとも写真91については、手術後は考えにくい。」と疑問を呈している。写真95の脛骨についても「手術後切断した方を標本にしたとするならば写真95の鋸断レベルより中枢側がある理由が意味不明。救命に失敗して亡くなった後、採取したのか。凍傷の標本ならば末梢側でつくる。」と、長期保存用ではなく、学生の実習や教育用の標本として保存していた可能性を指摘。

      2. 鋸断の意味

         佐倉教授は頭骨を中心に鑑定をしているので、四肢骨について鋸断の「意味は明らかでない」としているが、鑑定公表時の記者会見では、「手術で切断する」場合と「何らかの標本をとるために死体の足を切断した」とする場合の二例を挙げ、また凍傷実験の標本だった可能性にも言及している。

    8. 軍陣外科と整形外科

       陸軍軍医団が発行した『軍陣外科学教程』によると、戦地から内地の病院まで上下肢の戦傷者は軍陣外科の対象であり、四肢切断から義肢製作まで盛り込まれている。発見された人骨の鋸断痕のある四肢骨を同書と比較してみる。保坂医師によると、この切断レベルは術後の機能回復、義足使用を前提に切断されたと考えられる。すなわち四肢骨は整形外科の標本の可能性がある。

    9. 手術演習と生体解剖

       1989年に発見された人骨10数個の頭骨に人為的な加工の痕跡を認めたと鑑定書にあり、これらは頸部で切断された死体の頭部に対して脳外科手術の開頭術や中耳炎の根治手術を実施したものと推定された。四肢骨においても手術の実験や演習に使用されたと考えられる。
       湯浅元軍医が行った手術演習は生きた中国人を使用した生体実験だった。骨の切断という手術演習は、砲弾の破片による四肢の挫滅創の場合に必ず行わねばならなかった。
       これらの手術演習は陸軍軍医団が発行した『軍陣外科学教程』に沿って行われたものと考えて間違いない。四肢骨が整形外科の標本の可能性が考えられるのであれば、頭骨同様、四肢骨も人体実験に使用された日本人以外の人々の可能性を否定することは出来ないであろう。

    10. 『極秘 駐蒙軍冬季衛生研究成績』にみる大腿切断

       『極秘 駐蒙軍冬季衛生研究成績』とは北支方面軍の一員であった駐蒙軍の冬季衛生研究班による中国人を用いた生体実験を含む研究報告である。(『同解題』 鱒澤彰夫 1995年6月25日 現代書館)1941年2月、谷村軍医少佐ら50数名の冬季衛生研究班は内蒙古において8人の生きた中国人を使って手術演習を行った。この手術演習は非常に具体的で、結果も克明に記されている。ここで33歳の「三號生體」を使用して「左大腿切断術」が行われ、「大腿切断術は不毛酷寒地に於ける手術用天幕内に於いても容易に実施」できると結論付けている。このほか、下腹部の切除や保存血液の輸血などが行われ、その際、止血用に「エフェドリン」、麻酔薬に「トロパコカイン」、消毒用に「フォルマリン酒精」が使用されている。財務省調査で出土した液体が入ったままの試薬ビンは、中身を調べる必要がある。

    11. 義肢と切断実験

       最後に義肢の研究開発について考察する。
       日本整形外科学会雑誌五巻六号(1931年3月)に掲載された慈恵会医科大学初代整形外科教室の片山國幸教授の「義肢と切断術」を参照する。
       この論文の中に「実験検査」として(一)成人屍體四肢切断重量測定及び體重に対する百分率測定、(二)四肢切断者竝に義肢装着者の體軸振動曲線に就て、(三)義肢装着者背筋力竝に疲労試験、(四)切断術の健康肢に対する影響、義肢装着者の姿勢竝に義肢に就て、(五)健康男女子歩行時の足跡に就て、(六)健康者の速歩時に於ける下肢の運動(高速度活動写真応用)、(七)義肢装着者117名の統計的検査、の7項目がある。
       このような実験が慈恵会医科大学で実際に行われている。陸軍軍医学校においても行われていたのではないか。論文では義足装着者の歩行訓練などの映像記録があり、財務省の発掘で16ミリフィルムなどが発見されたことと符合する。

    12. 財務省調査の評価 -四肢骨の再鑑定が必要

       人骨が何故見つからなかったのか、という疑問については石井証言に不確かな点があったと考えざるを得ないが、技工室前に医療用具や器材の捨て場所があったということは事実だった。
       今回の一連の調査は、これまで埋蔵文化財調査の対象になっていなかった戦争遺跡が人骨の有無の調査で埋蔵文化財調査に準じた調査となった意味は大きい。調査によって陸軍軍医学校の活動の一端が明らかになり、出土した遺物も保管される。
       人類学的・科学的知見と厚生労働省と財務省の調査によって得た知見で再度、人骨の身元確認調査を行う必要がある。特に財務省調査によって得られた遺物を検証し、四肢骨についての再鑑定を行う必要がある。
       中国の七三一部隊犠牲者遺族が新たに判明し、その方々から「人骨」(=「遺骨」)との身元確認を求められている。今年の4月に厚生労働省に写真と要請書を提出したところだ。

  • 厚生労働省においては、戸山5号宿舎や若松住宅の発掘調査を検証し、保管している人骨の再鑑定や身元確認調査に取り組んでもらいたい。

(2012年6月25日:記)

人骨発見23周年集会
「改めて問う! あなたはだれ?軍医学校跡地人骨発掘調査(2011~12)が終わって89年「戸山人骨」について見えてきたこと」
参加者事前学習資料

事前資料

連続フィールドワーク(第二回)報告記
梅雨の晴れ間に戦争の面影を辿る

安松 狢

 6月10日、15名の参加者がJR飯田橋駅西口を出発。江戸城外堀の牛込見付跡、富士見町教会(大逆事件の犠牲者・大石誠之助の追悼会を開いた)、戸山に移転する前の旧陸軍軍医学校跡(当地は「赤十字発祥の地」でもある)、朝鮮総聯中央本部ビルなどを廻る。靖国神社を抜けると田安門、九段会館(旧軍人会館)。最後にしょうけい館に入り自由見学。

ここが甲武鉄道牛込停車場跡
朝鮮総聯中央本部ビル
【陸軍の創設と軍医学校の系譜】に参加して

新宿・F

 今回は陸軍省と参謀本部・憲兵本部などを抱えた九段下周辺、その精神を支えた靖国神社を中心に訪れた。まずは陸軍軍医学校跡地を訪れる。関東大震災で倒壊し昭和4年に新宿戸山に移転した。あの七三一部隊の発祥の地でもある。現在は逓信病院と法政大学の敷地。
 ここから100メートル程で靖国神社の遊就館の前。あまりに近所で驚いた。奥には「招魂斎庭」。戦没者の魂を招く招魂式を行う所だ。隣には「相撲場」もあり土俵があった。軍馬・軍犬・軍用鳩などの慰霊碑もある。国民だけでなく馬犬鳩まで総動員。近くには戦前の最新兵器を展示していた「靖国会館」、「偕行社」、「軍人会館」(九段会館)、「愛国婦人会」発祥の地の碑もあり、今回のフィールドワークは軍都東京の中心地巡りであった。
 「しょうけい館」で締めくくり。厚生労働省が戦争で傷を負った兵士たちとその家族らが戦中・戦後に体験した労苦の証言・書籍・情報などを収集し展示している。ラバウルで爆撃により左腕をなくした「水木しげる」さんの資料も多い。…戦争で手足をなくし、傷ついた軍人たちが戦後どのように暮らしを立ててきたのかも、多くの資料で展示してあった。
 今回のフィールドワークを眺めると、戦前の東京は軍の施設で満ちあふれていた。私たちは戦後67年間、何を学んできたのか深く考えさせられた。隣国との友好関係を強くし、知恵を出し合うことから平和は生まれることを改めて実感した。

アンケート結果
省略

これからの予定:省略
前号の訂正:省略

人骨発見23周年集会 改めて問う!あなたはだれ?
軍医学校跡地発掘調査(2011-12)が終わって89年「戸山人骨」について見えてきたこと

期日:7月22日(日)13時10分
開場:13時30分開始
会場:ウィズ新宿(男女共同参画推進センター)3階会議室
以下省略

2012.7.8

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