人骨発見20周年記念集会報告その1
「強制連行と遺骨調査~人骨は帰りたい~」
野添 憲治
外務省報告書にある135ヵ所の強制連行された中国人が働いた場所を、9年かけて全部歩いた。朝鮮人についてはっきりしている資料はほとんどない。秋田県は73ヵ所、約14,800人の朝鮮人連行者が働いた。北海道、千葉など調査が進んでいるところもあるが、日本全体からすれば非常に少ない。日本政府もひどいが、日本人もどうなのか。
「外務省報告書」後の調査
外務省報告書では強制連行者は、38,935人だが、塚崎さんの調査で新たに106人が防衛省資料から見つかった。私も九州や北海道などでかなりの中国人・朝鮮人が来ているといわれるところを調査したが、資料もなく証言者も減っており非常に難しい。
中国人・朝鮮人強制労働犠牲者の実態
強制連行されて中国の収容所に入れるまでに相当な人が殺されていると思うが、それは資料に載らない。そこから日本に連行されるまで船で亡くなっているのが564人。港(門司)から事業所まで有蓋車(貨物列車)に詰め込まれて運ばれる過程で248人死亡。花岡鉱山では門司から花岡まで三日で弁当一つ水はなしだから、たくさん死ぬのは当たり前。便所もなく車内の隅でトイレをしていた。当時大館駅に勤めていた人が「有蓋車の戸を開けたら人がゴロゴロと落ちてきた。みんな臭かった。なんでこんなに臭いのか…」知らなかったからそう言う。それから事業所で働いているときに病気や怪我や叩き殺されたりということで、5,999人の方が亡くなっている。敗戦後、集団帰国した後でもたとえば、花岡裁判では24人が証人として残ったり、あるいは病気その他で帰れず19人亡くなっている。敗戦後も中国人・朝鮮人を働かせていた事業所は多く、花岡鉱山でも8月27日まで、北海道では9月3日まで働かせている。敗戦後もたくさんの中国人・朝鮮人が亡くなっている。
中国人は6,830人の方が亡くなっている。天津の水上公園にある殉難歴史記念館には、名を刻まれて2,345柱の遺骨が納まっている。
花岡事件の犠牲者は100人を超える。亡くなられて4、5日後、二つの穴に分けて60数体が入れられた。記念館の遺骨に名前が付いているのは不思議。保定市郊外の趙満山さんは親子で連れてこられ、お父さんは早く亡くなる。帰るとき遺骨を持ち帰り、お墓を造った。「殉難歴史記念館」にもお父さんの遺骨がある。趙満山さん曰く「日本人は親切だね、二重に葬ってくれた」。4,485柱の中国人がまだ日本にある。九州のお寺に遺骨と過去帳があったが後は見つからなかった。現場には朝鮮人もいて、中国人と同じように扱われ、はっきりしていない。
全国を歩く
最初に行ったのが、2001年、日鉄鉱業釜石製錬所で大戦末期、艦砲射撃が行なわれたところ。いちばん最後が、今年1月の東京華工管理事務所。北海道は58事業所。東北は9ヶ所。関東中部近畿は39事業所。中国四国は29カ所。炭鉱と鉱山が非常に多かった。北海道でも九州でも炭鉱は全部閉鎖されている。廃墟になると木や笹が生えて歩く事もできない。
事実に向き合わない日本
私の調査は、まず市町村役場に寄る。現場資料(埋葬許可証等)を聞くと日数がかかるので調べるのは無理と言われる。協力してくれたのはたった一カ所。次は教育委員会。協力してくれた所は一つもない。図書館はいくらか協力的だが地元の資料(鉱山の発掘記録とか)はあまりなく、そういう使命を果たしていない。あとは近くの家を一軒一軒歩くと、これが割りと効果がある。
北海道の北炭空知天塩鉱業所ではタクシー代を払えずに身柄を押さえられ、家に電話して会社の銀行口座に残金を送った。
現場に行くと、お花を一本だけ持って行き鉱山の入り口に置いて拝んで、歩き回る。歩いてみて、中国人・朝鮮人が働いたところが観光地になっている所が結構ある。
風化する負の遺産
新居浜市井華工業別子鉱業所は完全に観光地。観光客にまぎれて行ったが売店で現場の事を聞くと途端に態度が変わる。長崎市の高島鉱業所端島坑(軍艦島)では、市役所で何度も交渉したが、「上陸させない」といわれ、遊覧船に乗って回ってきた。今ここを世界遺産にしたいということで2度観光客が上陸したという記事を見た。地元秋田の小坂鉱山には康楽館という劇場がある。中国人が強制連行され64人亡くなり、冬、康楽館の土の中に埋めて春になって掘り起こし、墓場に埋めている。このことを小坂鉱山も小坂町も一切認めない。北海道の美唄市では鉱山の跡地を広い公園にしているが、過去の歴史を書いた説明書も案内板もない。
それから、中国人・朝鮮人が働いた現場に行くのに入れないところがいくつもある。北海道天塩林業所、静岡県戦線鉱業仁科鉱山、北海道玉川鉱業所など道路に柵。北海道の雄別鉱業所は唯一鉱山そのものが残っているが道路が閉鎖されている。
山口県の宇部興産沖ノ山鉱業所。ここは宇部興産の本社がある。最初は入れなかったが、次の日背広とネクタイを借りてタクシーで乗りつけたら通してくれた。会社見学はできたが、肝心なところは見られなかった。
北海道の室蘭市では564人が亡くなった。敗戦後の死体処理が悪く1954年になって125人の死体を掘り起こした。近所の人は当時埋めているのを見ていたが9年間黙ってた。立ち会っていた医者が今病院長になっているが、「生き埋めと見られる人が3人いた。」と言っていた。夏には海水浴の人が来る場所である。
北海道別海町には戦時中、計根別飛行場がつくられた。今は牧場になっている。滑走路の底にクッションをするために笹や木の枝を厚く埋め、一部分に中国人・朝鮮人労働者の死体を埋めた。「約100人は埋まっている」と言う証言もある。1992年に約150人が参加して発掘したが見つからなかった。そういうところがまだ日本にはいくつもある。
遺骨と向き合う
今年の連休は、猿払村の第一・第二飛行場に行った。役場が大変協力的で、発掘作業に役場の車を何台も出してくれた。2005年に地元の80歳になる方が「朝鮮人が埋められている場所を私は知っている」というのでその場所を掘ってみると、遺骨が出てきた。去年も遺骨を発掘し、今年も5月に約50人が参加して掘り、二日目に黒くなった骨がたくさん出てくる。その骨を手に持って、悔しいだろうけど私には何もできないんだよと思いながら、明るい外に出してビンの中に入れた。それを三日間やって、完全な遺体は一体、7人分の遺骨が発掘された。
秋田県の小坂鉱山を掘ったとき、小さな白い破片が出てきた。一緒に掘った朝鮮の人に「供養してください」と(言って渡した)。彼は埼玉にいるがそれを甕に入れて持っていった。遺骨を手に握りながら、骨が語ってくれるわけはなし、でもその遺骨から私は聞くしかない。何でいまさら骨を掘るんだ、掘り起こしても死んだ人は回復できないから却って土に埋めたほうがいいという人もいるが、やはり日本に強制連行されて来て、殺されて暗い土の中に入れられている中国人・朝鮮人が沢山いる。とりあえず掘り出して、明るい日光を見せてあげるということが私たち日本人に求められている。
結び
私たちは何をしなければならないのか。これからの若い人たちに何を伝えなければいけないのか。ものを言えない骨たちが本当に言いたかったことを私の心の中でよみがえらせていくということを私はやっていきたい。日本のいたるところに中国人・朝鮮人の遺骨が捨てられている。それを知らない人が増えている。残念です。