軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』135号・要約

防衛省が人骨の身元確認等の調査に協力姿勢を示す
~郡和子衆院議員の質問主意書に内閣回答~

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会)

 郡和子衆議院議員(民主党)は2月6日、「発見から20年を迎える旧陸軍軍医学校の人体標本等に関する質問主意書」を提出。政府は2月17日の答弁書で人骨の身元確認調査を行うことや新たな人骨調査を国として取り組むことを明らかにした。自衛隊衛生学校の彰古館に病理標本を保管していることを認めた。また、防衛省も調査の協力を表明した。

質問主意書
平成21年2月6日提出 質問第101号
発見から20年を迎える旧陸軍軍医学校の人体標本に関する質問主意書
提出者:郡 和子

平成21年2月17日受領 答弁第101号 内閣質171第101号 平成21年2月17日 内閣総理大臣 麻生太郎 衆議院議長 河野洋平 殿 衆議院郡和子君提出 発見から二十年を迎える旧陸軍軍医学校の人体標本類等に関する質問に対する答弁書

人骨発見19周年集会「国に問われる責任~つぐないか、救いか~」報告③
ハンセン病の偏見と闘って

療養所入所者協議会事務局長:神 美知宏さん

 私たち全体が問題を共有することが解決の第一歩。先ほど証言された(C型肝炎)問題も、市民が「他人事」として見ている限り官僚たちも知らん顔。半世紀を越えて運動を続けているが、国を監視し、直言するところから問題解決の糸口が見えてくる。日本のハンセン病政策が始まって来年は100周年。改めて過去一世紀にハンセン病問題に限らず、日本の過ちについて自己批判を求める。来年こそはハンセン病問題を総括する年。

ハンセン病問題の過去と現在
 収容のピークは、記録によると昭和33年。13ヶ所ある施設に約1万2千人のハンセン病患者が強制隔離。それから半世紀を越え、だんだん亡くなって今は4分の1。今年の厚生労働省のデータによると、全国の療養所入所者数は2717名。平均年齢80歳。平均在所年数は60年を越える。
 ハンセン病の特効薬が使われ始めたのは1949年ごろ。私が療養所に強制隔離されたのは1951年。ハンセン病の治療はハンセン病療養所でというのが「らい予防法」の基本方針。私は高校在学中の17歳で発病。高校に退学届けを出し、北九州の出身でありながら四国の療養所(大島青松園)に入所。私の発病がもし故郷で発覚すれば、あの当時でも一家心中があり、差別と偏見によって一家離散ということが少なくなかった。入所に際して、二つの手続きが必要だった。一つ目は偽名を名乗ること。二つ目は、解剖承諾書に署名捺印をすること。
 「無らい県運動」が、昭和の初めから戦後に至るまで全国津々浦々で推進。強力な国の指導で市民はしらみつぶしに患者探しを行った。その結果、町や村から一人の患者も見なくなる。一件落着とばかりに、市民はハンセン病問題に無関心となっていった。

らい予防法廃止運動
 日本国憲法の基本理念は、世界がめざすべき理想の憲法。三つの柱がある。平和主義。主権在民。そして基本的人権の尊重。しかし、残念ながらハンセン病問題ではこの基本理念はまったく通用しなかった。国は1996年になって、90年あまり続いた「らい予防法」をようやく廃止した。私どもは単に法律を廃止しただけで、生涯を犠牲にして隔離された患者の尊厳や人権、或いは家族が酷い差別を受けている現実に蓋をするような形で何が一件落着かと、国賠訴訟を起こした。2001年に多くのご支援をいただいて裁判は勝利、小泉首相は控訴を断念した。

「ハンセン病基本法」の成立
 10年後には入所者は全国の療養所に500~600人になるというのに、国は療養所の今後をどうするかについて責任ある方針を示したことはない。ならば私たち自身が主体的に考えていくしかないと運動を行った結果、先般の国会で議員立法により党派、会派を超えて全員賛成で「ハンセン病問題基本法」が成立した。
 この法律の基本理念は、「入所者が少なくなっても、医療機関として療養所を残し」、「市民に門戸を開放」し、「療養所の中で高齢者と市民が共生する」こと。全国組織を作って57年間ハンセン病問題と闘ってきたが、市民の方々がハンセン病問題を知らないのであらゆる機会に支援を訴えてきた。その結果93万人もの署名が国会に届けられた。そのおかげでこの基本法が成立、来年4月1日から施行される。

差別のない社会を目指して
 これまで国が行ってきたことを一番身近なところで見てきた。この法律ができたからといって気を緩めてはならない。市民の皆さんにも一つ一つ報告をしながら、ハンセン病問題の解決を目指している。しかし私どもの究極の目的は差別の連鎖を断つこと。ハンセン病に限らず日本の社会を真の福祉国家あるいは民主主義国家として確立するために、市民が政府のやっていることをどのように監視していくか。そして日本の社会にどのような問題が起こっているかをつぶさに理解し共有すること。そういう中から初めて困難な問題を解決する糸口が見出せる。

質疑応答

  • 大宮
    •  平成18年9月の週刊新潮は、櫻井よしこが書いた記事を載せている。「…貞明皇后はハンセン病患者を定期的に見舞われていたのだ。ハンセン病は近づけば感染するという誤解が根強かった時代に、皇后は自ら療養所に足を運び患者を見舞った…」貞明皇后が見舞ったと言う記録はなく、ご本人も「つれづれに 友となりても慰めよ 往くこと難き 我れに代わりて」と詠い、行っていないと言っている。この記事は嘘だ。桜井よし子はなかなかやり手で、黙っていると嘘が歴史的に本当になってしまう。
    •  私どもは毎週のように厚生労働省に行っている。彼らはすべての面において国の体面を保つことにのみ精力を注いでいる。マスメディアも含めてしっかり監視する必要がある。
       貞明皇后がハンセン療養所に訪ねたという話は聞かない。多磨全生園の資料館は「高松宮記念ハンセン病資料館」と呼ばれた。それはおかしいと指摘し、現在は「国立ハンセン病資料館」になった。

神奈川大学STSフォーラム報告
強制連行の現場から―135事業所を歩いて感じたこと
―『花岡事件の人たち―中国人強制連行の記録』野添 憲治さん

根岸 恵子

野添 憲治 さん
 野添憲司さんは1935年に秋田県に生まれ、軍国少年として育った。45年6月に起きた花岡事件は、中国人強制連行被害者の蜂起。日中戦争時、労働力確保のため約4万人に及ぶ中国人が強制連行・強制労働させられた。彼らは貨物船に積まれて日本に送られ、564人が死亡。助かった者も貨物列車に押し込まれ、死亡者248人。強制労働が始まると休みもなしに働かされた。野添さんが小学校4年のとき、その村に2人の中国人が逃げてきた。村民から罵倒され、つばや砂をかけられた。野添さんも先生に言われて同じ事をした。
 野添さん20代の後半、被害者からの謝罪と補償と記念館の建立を求める声を日本が拒否。それはおかしいというと、野添さんは日本で悪人扱いされた。野添さんは135箇所の強制連行の現場をすべて訪れ、日本人の責任を自問してここまで歩いてきた。
 人骨の会では7月20日に人骨発見20周年のイベントとして、野添憲治さんをお招きして「強制連行と遺骨調査」の集会を開く。
人骨発見20周年記念プレ企画
~七三一部隊を生んだ日本陸軍80年を歩く~
パートⅢ「38式歩兵銃を製造した陸軍東京砲兵工廠」報告

鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)

 09年2月22日、長谷川順一さんの案内で陸軍東京砲兵工廠周辺のフィールドワーク。参加者24名。小石川後楽園内の記念碑、諸工伝習所跡石碑等を見学。この一帯は、江戸時代は水戸徳川藩上屋敷、明治以降は陸軍所管、今は緑豊かな公園になった。

東京砲兵工廠記念石碑
東京砲兵工廠の基礎レンガ
諸工伝習所跡石碑

2009.3.15

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