軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』134号・要約

もうすぐ満20年
年頭の挨拶

常石 敬一(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・代表)

 新宿区戸山の国の研究機関の建設現場から人の骨が出てきたのは1989年7月だった。それから20年が経過した現在、それらの骨は出てきた土地に国が作った施設で保管されている。
 僕たちの会が発足したのは90年4月だった。会の目的は、発見された人の骨、遺骨の身元確認であり、確認された身元にもとづいて、遺骨としての正当な取り扱いを進めることだった。具体的には外国籍の人の遺骨であれば、その国・民族の習慣にのっとっての葬送であり、その国・地域に帰すことを考えていたし、今もその思いに変わりはない。
 上記の施設ができたのは02年3月で、発見から13年後だった。この施設の意味は、身元確認の科学的知見が整うまで遺骨をそのまま保管することになったということだ。その13年の間僕たちの支えとなったのは、92年4月に新宿区が公表した「佐倉鑑定」だった。同鑑定は遺骨には外国の方々のものが多数ある、と科学的に明らかにしていた。この結論は会の活動を続ける上で、心の、そして遺骨の持つ意味や事実を訴える際に、大きな支えとなった。これはまた困難を乗り越えて鑑定を依頼した新宿区の対応が会を支えてくれたとも言えるだろう。国や都はきわめて冷淡に、遺骨の早急な埋葬=焼骨、すなわち戦争犯罪の物証の破壊=証拠隠滅、を図った。そうした国などの意向を配慮したのか、区が鑑定を打診した複数の機関が依頼を断る事態が続いた。しかし最終的にこの分野の第一人者である、札幌学院大学の佐倉教授に託すことができた。
 02年3月以降、会が熱心に取り組んだのは、軍医学校跡地には89年に発見されたもの以外にも人の骨が埋められているという証言に基づく、新たな人の骨の発掘調査だった。これについては06年6月、当時の川崎二郎厚生労働大臣から発掘調査の約束を取り付けることができた。
 09年1月、麻生総理を筆頭に「100年に一度の金融危機」と世の中がひっくり返ったようなあわてぶりである。確かに大変な事態だが45年夏の敗戦と比べたらどうということもない出来事なのではあるまいか。日本が45年まで行っていた戦争の、戦争犯罪を含めた問題を放置してきたから、敗戦の記憶もなく、そのときの混乱や悲劇を考えることもなく、短絡的に「100年に一度の危機」などと煽っているような気がする。こうした無認識が、触らぬ神に祟りなしという対応を生み出し、国は鑑定を拒否し、新たな発掘調査に及び腰だったのだろう。過去からの、特に戦争に関しての、問いかけに向き合おうとしないのだろう。戸山の遺骨について、国はそうした姿勢をとり続けている。そうした国の姿勢の打破も、今後の活動を深めることで実現したい。

人骨発見19周年集会「国に問われる責任~つぐないか、救いか~」報告②
薬害肝炎と闘って

薬害肝炎東京訴訟原告団代表世話人:浅倉 美津子

 1988年6月6日、次男出産のときに大量出血、止血剤を使われ、出産後一ヶ月もしないで急性C型肝炎を発症した。先生に、自分がどうして肝炎に感染してしまったのか訊いたが、「原因は不明」と言われた。それから第一次提訴のニュースを見て薬害肝炎弁護団のホットラインに電話をし、病院にかけあいカルテ(看護記録)を見たところ、そこに「フィブリノゲン2グラム、ドクターのオーダーにより投与」という文言が書かれていて、ああ、製剤で私は肝炎に感染したんだ、自分のせいではなかったんだと思ってほっとしたが、この薬を作り続けた製薬企業、それを承認し続けた厚生労働省、国に対して怒りが湧いてきた。それで原告になり、本人尋問や意見陳述を繰り返し、支援を頂くためにいろいろなところで話をした。昨年3月23日に東京地裁で第一次判決が出た。その中で、1988年6月23日にその製剤の回収命令を厚生労働省が各医療機関・製薬企業に出しており、それ以前までは認めると、私はぎりぎりセーフで国にも製薬企業にも勝訴したが、その日以降に投与された新潟在住のお二人は敗訴。私はその方たちと東京地裁の判決の時に記者会見の場に座った。二人は非常に落胆していて、私が認められてなぜ彼らが認められないのかという思いがその時こみ上げてきた。

 その後、私たちは薬害肝炎被害者全員一律救済を求めて官邸前行動、企業前行動、街頭で署名も集めた。1月15日に厚生労働省と基本合意が締結され、福田総理が原告団と面会、謝罪した。その場で山口原告団代表が言った。
 「被害者が声を上げなければ認めてもらえない。慢性肝炎や肝硬変、肝癌にかかっている方たちもいる、そういう方たちが声を上げないと何故分かって頂けないのですか。」と…
 肝炎に感染した418人のリストを厚生労働省は地下の倉庫に隠していた。被害者が声を上げないと何もしてくれない。これは本当におかしい。その後、私たちは恒久対策の作業部会に出ているが問題は山積み。これから頑張って肝炎患者全員の救済を求めていきたい。
  肝炎に感染して20年経つが、初めて根治療法ということでインターフェロン治療をやっている。去年の暮に体を酷使したせいか肝機能が非常に悪くなり、主治医の勧めで今年4から始めた。一日たりとも平熱で過ごしたことはない。体が重くて、起き上がるのも本当にしんどい。家事も同居する長男に任せている。今、根治療法でウイルスが検出ゼロになっているが、まだあと3ヶ月続けなければいけない。つらい治療をこらえる度に国や製薬企業のやってきたことを絶対に許してはいけないと心に決めている。

毎日新聞:浅倉さん、根治治療終了(2008年9月28日)

薬害肝炎被害者の遺族として

東京原告団代表世話人:泉 祐子

 東京原告13番は、私の実姉。裁判が始まって僅か7ヶ月でこの世から去り、妹の私・泉祐子が原告活動を承継した。
 先ほどの佐藤先生の話で、ドイツ政府は法的責任で争うことはしなかった。実はC型肝炎も、法的責任で争うとまだまだ時間がかかった。東京の判決で浅倉さんは勝訴したが、私の姉は敗訴。この原告団の特徴は、勝訴した原告がその判決の決定を蹴ったということ。負けた原告や、カルテがなくて原告になれない人たちも含めてともに争うのだという崇高な思いを持ってくれた。もう一つ佐藤先生のお話に、私がずうっと考えていたことがあった。被害には個々の人生があった。その思いをどのように世の中に訴え、企業や国に分かってもらえるか。このための行動をずっと続けてきた。

 この薬は、1951年設立された日本ブラッドバンクが、1964年8月に製薬会社に変わり、その2ヶ月前に国はこの会社のフィブリノゲンを承認、承認後直ちに「ミドリ十字」と社名変更していく。しかし1960年代、厚生労働省は一億円の助成金を出して血液製剤による肝炎感染症の研究班を作る。そして「この血液製剤は重篤な肝炎感染の危険があるので使用注意」という報告がなされているにも関わらず、数年後にこの薬が承認される。1977年、アメリカでは感染の危険性、有効性、代替の方法が存在するなどの理由でフィブリノゲン製剤の承認を取り消した。その翌年、ミドリ十字はアメリカの血液製剤を作る企業を買い、そこでエイズやC型肝炎の汚染源になった血液製剤がつくられる。アメリカの貧民地区と刑務所から集めた数千人から数万人の血液を攪拌して分画血しょうとして抽出する。その中にたった一人の感染者の血液が入っていても全部の血液にウイルスが撒き散らされることになる。そして1977年から80年にわたって大変な被害が新聞報道に出てくるころ、ミドリ十字はそうした報告が上がっていたにも関わらずそれを認めなかった。厚生労働省もそれに加担していた。厚労省は1960年代の報告書もないがしろにし、さらに昨年分かったことだが、実は1984年からの被害実態について、418名というリストを企業が厚生労働省に上げていた。そのリストにある60数名が亡くなっている。私の姉もその中の一人。もっと早くに「あなたはC型肝炎にかかっているので治療して」と言われていたら、どれだけの人が助かったか。
 企業はまだ原告に対して謝罪をしていない。国は謝ったように見えて、先ほどのドイツと同じで厚生労働省の外郭団体である独立行政法人「医薬品機構」に一切を任せている。国との基本合意の中に、厚生労働省との毎年の協議の場を約束させた。その場を使って真相究明、再発防止、さらに恒久対策として、この訴訟に加われなかった被害者のための医原病対策。次に向かって動き続けなければいけない。
 私の姉はビデオテープを通して国の責任と企業の責任を訴え、二度と薬害が起きないようにとの言葉をこの世を去る時に残していった。私は今、それを承継している。

朝日新聞:薬害肝炎 全社と和解《2008年12月15日(月)》

 昨年10~11月はフィールドワークが目白押し。10月26日中央大学長谷川ゼミ聴講生14名、11月8日郷土教育全国協議会大田支部14名、11月23日神奈川県中原ピースクラブ16名。フィールドワークの感想・報告を紹介

還そうよ、家族のもとに
2008年郷土全国協大田支部フィールド学習報告

今井 和江

「郷土教育」593号より転載。内容省略

中央大学長谷川ゼミ(1年理工学部、2年法学部)参加者の感想

内容省略

人骨発見20周年プレ企画パート2・「陸軍の中枢・市ヶ谷台」を歩く

根岸 恵子

東京メトロ市谷駅構内には江戸城の石垣とその周辺の江戸の町の解説コーナーがある
 昨年12月7日、人骨の会ではプレ企画「人骨前史をフィールドワークする~七三一部隊を生んだ日本陸軍80年を歩く~パート2 陸軍の中枢・市ヶ谷台」を行った。参加者26名。ガイドはパート1に続いて長谷川順一さんが担当。市ヶ谷駅構内の江戸城の石垣跡から、防衛省の正門で過去の戦争でこの場所が果たした役割を聞き、市ヶ谷亀岡八幡宮で防衛省を高台から望み、境内の陸軍境界石や八紘一宇の碑を見学。防衛省周囲にある関係施設を廻り、石井四郎の墓のある月桂寺に向かう。その後、陸軍経理学校跡地の煉瓦塀や成城学校の正門を経て、解散。

2009.1.25

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