軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』92号・要約

雨は涙 の納骨式

 3月27日、納骨式が行なわれた。雨の中、亀谷厚生科学課課長補佐が挨拶。次に、厚生労働省職員、新宿区区議及び職員、市民団体、市民たちが次々に献花し手を合わせた。
 出席者は金田誠一議員をはじめ、厚生労働省からは今田技術総括審議官、佐野、原口、亀谷厚生科学課課長補佐、感染研の小宮山総務部長、神田総務部庶務課長、岡田総務部会計課長、他多数。新宿区からは、愛宕福祉部長、猿橋管理課長、及び福祉部管理係長。河野達男、雨宮武彦、阿部早苗、あざみ民栄、佐藤文則新宿区議会議員がそれぞれ参加。その他人骨の会等の市民団体と原告ら多数。マスコミも共同通信、MXテレビが取材。

遺骨の納骨を関係議員に報告

 今回の拝礼(納骨式)に至る過程で国会ロビー活動を重ねてきた。納骨を前に関係議員を訪れた。訪れた先は以下の通り。
 安部晋三官房副長官、額賀福志郎代議士、遠藤武彦代議士、鴨下一郎代議士、坂井隆憲代議士、鈴木俊一代議士、山口俊一代議士(以上自民)、坂口力厚生労働大臣、桝屋敬悟代議士(以上公明)、管直人代議士、枝野幸男代議士、金田誠一代議士、釘宮磐代議士(以上民主)、瀬古由紀子代議士、吉川春子議員、吉岡吉典議員(以上共産)、中川智子代議士、阿部知子代議士(以上社民)、武山百合子議員(自由)、田中甲代議士(尊命)、川田悦子代議士(無所属)。

特集 追悼・金源先生・富永正三さん・中帰連
《金源先生、富永正三先生を偲ぶ》

渡辺 登

【「民間レベルで日中が協力して人骨問題の究明にあたる」を率先して実践された金源先生】
 2002年1月13日中帰連の富永正三会長、3月7日には撫順戦犯管理所の金源元所長が亡くなられた。心よりご冥福をお祈り致します。さらに、4月20日、中帰連解散。
 「究明する会」は、日本政府に遺骨の保存と調査の継続を認めさせることができた。また中国政府は日中両国人民の要望にこたえて、ハルビン市の七三一部隊本部遺跡を保存する。この間の金源先生と中国国際友誼促進会(略称友促会)、富永先生と中帰連のご尽力に感謝する。

究明する会と中国との橋渡し
 「究明する会」と中国とのかかわりは、富永会長の仲介ではじまった。1991年、高橋武智事務局長は中国の抗日戦争史学会と連携をとるために中帰連に連絡。懇談の末、富永先生は金源先生が顧問をしている友促会対外連絡部に連絡すると約束。4月に友促会対外連絡部代表が来日、三者の懇談会をもった。曹元欣(主任)、崔華堂(副主任)、金源の各氏と会い、友促会を介して中国人民との協力の道をふみだした。これには佐藤峰男さんのご努力もあった。

先遣隊、訪中する
 6月に見津、渡辺の先遣隊を送る。芦溝橋の中国人民抗日戦争紀念館で、抗日戦争史学会の張承鈞、劉建業、郭成周、廖応昌の各先生たちと懇談。ついで金源先生の案内で東北に入り、韓暁さん、敬蘭芝さん、靖福和、方振玉、張可達、張可偉さんたちと、さらに北京に帰って莊克仁さんと会うことができた。金源先生は日本人戦犯裁判の記録「正義の審判」、二〇巻におよぶ日本帝国主義侵華档案資料選編の刊行に尽くされた。
 見津君と金源先生の関係は、孫とお祖父さんのようであった。見津君は生まれて始めてのこの旅で、すっかり第二の故郷の人に変わったようであった。

訪中調査団派遣
 調査団の本隊は団長・越田稜以下総勢18名で8月出発した。近藤昭二さん、小林佐智子さんはテレビ放映を企画、七三一部隊戦犯の供述書を撮影したいという強い要望がだされた。外交部の許可もおり、その撮影を含めて多くの貴重な証言、証拠収集ができた。
 後日、日弁連の人権擁護委員会に七三一犠牲者の救済申立を行った。日弁連は綿密な調査を行い、日本政府、新宿区に対して厳重な勧告をおこなった。
 抗日戦争史学会、抗日戦争記念館側との会議では、七三一部隊の展示会を抗日戦争記念館で開くが日本でもやらないかという提案があった。また、日本軍の細菌戦についても指摘があった。団の帰国と前後して、新宿区は遺骨の鑑定を決定した。

金源先生のこと
 金源さんは戦犯管理所所長として溥儀の教育に当たった。すべて侍従まかせの溥儀は、労働が社会の基本的な活動であることを知り、労働者に生まれ変わる。ところで金源さんのお宅をたずねたとき、家系図を見せてもらった。かれの先祖は新羅王。新羅王の末裔が中国のラスト・エンペラ-を改造したとは興味深い。溥儀は「日本の天皇も私のようになり変わることができる」と話したそうである。
 鄭英順夫人のお話では、中帰連大会に出席すると死の間際まで話していた。遺言は二つ、一つは新井さんの遺稿集を出すように、もう一つは日中両国人民の子々孫々の友好を発展させるようにと。金源さんは20年近くにわたって、写真家の新井利男さんを案内して中国の80の都市、県をまわり三光作戦の跡を訪れ証言を集めた。

【七三一部隊展の成功に向けて奮闘された富永会長】

七三一部隊展始動
 「究明する会」は討議を重ね、七三一部隊展の開催を決めた。92年7月実行委員会を結成。共同代表は富永正三会長、森川金寿弁護士、常石敬一教授、作家松谷みよ子さん、事務局長・渡辺登、事務局次長・長谷川哲也さん、専従事務局員・池内匡さん。
 富永さんは腰椎カリエスの持病をおしてどこでも出ていかれた。戦犯管理所で金源さんとの対決が思想の転換になったということだった。
 93年7月6日、七三一部隊展開幕。中帰連は組織として実行委員会の推進力となり、証言活動に取り組んだ。七三一部隊展の3点セットとよばれた「展示物(パネル、人形)、証言、ビデオ」は運動の大黒柱であった。多くの実行委員会で中帰連支部は構成員であり、体験の証言者として登場した。富永さんの居住地・町田では高校演劇部が七三一部隊を主題にした劇を上演した。埼玉では、郷土産業である「鼠の飼育」が七三一部隊のペスト菌培養のものであった事実を、研究成果としてまとめ展示した。日本ジャ-ナリスト会議、日中学院は七三一部隊展を表彰、青年の役割を高く評価した。
 富永会長と最後にお会いしたのは、去年の6月、新井利男さんの亡くなる数日前であった。新井さんの見舞いに病の床から見えた。壮絶なる対面であった。
 中国、朝鮮、アジア諸国の人民は日本の認罪を許していない。中国では日本軍が三光政策を実行した広い地域に日本人に開放されていないところがある。認罪にはほど遠いのが現実である。中帰連活動の継承は日本人民全体の責務である。
  最後に七三一部隊展の第一期が終わったときに、来日した劉述礼先生を通して中国政府に要望書を提出した。厚い支援をして頂いた中国政府に対して、実行委員会および日本の広範な人々の感謝と要望を伝えて友好の一層の前進を期待した。

中帰連と私

増田 博光

 1993年の「七三一部隊展」以前から中帰連と私の接触はあったように思う。当時、富永正三さんは、会長として頑張っておられたし、永富博道さんらも、渋谷の「戦争展」で活躍されていた。富永さんとは、温厚な中にも秘めた闘志のすごさを感じさせられた。その後、「七三一部隊展」の過程で、三尾豊さん、篠塚良雄さん、湯浅謙さん、高橋哲郎さん等と深く付き合うようになった。私の知っている限りでも、会長の富永さん、三尾さんが亡くなられ、大黒柱を失った悲しみが心中をおおう。「中帰連」の精神は、「撫順の奇跡を受け継ぐ会」に引き継がれるとのことである。

2002年人骨問題研究会

医学と戦争~「極秘 駐蒙軍冬季衛生研究成績」を読む~後半

鱒沢 彰夫(日本大学・中国文学)
  1970年代後半にこの本を東京神田の古書店で発見。売却主は不明。TBSの吉永春子氏、新潮社のフォーカス編集部などと接触したが、結局、現代書館の村井光夫さんによって出版にこぎつけた。縮尺等、一切手を加えてないし、名前も消していない。解題の最後に「彼我における過去になされた行為の情報が広く開かれんことを」と書いた。日本でも中国等それ以外の国でも情報開示が進むことを願っている。

保坂 瑛一(医師・整形外科)
 実行責任者が書いたものを読むと、人間的な人だと感じた。藤原先生は、中国戦線に赴任するまでは、正しい戦争目的を持って中国に行かれた。ところが、実際に大隊長として現場に立ったら、何だこれは中国への侵略戦争じゃないかという感想を持たれたという。次に研究は綿密に計画的に行われたが、ドイツと違って責任者が処罰されない。現在の日本に共通する構造の問題がある。三番目に、関わった医者は戦争目的に奉仕した研究ばかり。医学や法よりも戦争を優先する、オウム真理教にも似た日本人の性質は、普遍性に対する混乱と理解のなさを感じる。四番目にこのような実験を可能にしたのは、私は人種差別意識だと思う。第五にこういう生体解剖というのはいけないと思うが、何故生体解剖はいけないのかという問題は専門家の問題ではない、国民一人一人が判断しなければならない問題だ。

平野 利子(臨床検査技師)
 臨床検査技師というのは、医師の下で働く医療スタッフの一員。戦時中なら篠塚良雄さんが先輩に当たる。日本衛生技師会の会長は七三一部隊で細菌検査をされていた。臨床検査技師会の中では七三一部隊に関することはタブーで、履歴も空白の人が多い。内容について、水質検査表があるが、今保健所でも同じ事をしている。本来の防疫研究室の仕事だ。携行品目表を見ると、消耗品の後に生体と書いてあり、そこに八名の名前が書いてある。生体は消耗品以下に扱われている。最近の医療関係の雑誌によれば、臨床よりも研究が優先し、論文も予算を取ることが第一で資料の精査は二の次という。何のお咎めなしで七三一部隊のことが現在も続いているのであれば、現在から当時のことが推測できるのではないか。 (以下、質疑省略)

まとめ
常石 敬一(神奈川大学教員・科学史・軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・代表)
 湯浅さんは最初に、軍隊というのは報復とか復讐を煽るところ、人体実験もその一環だと言った。それについて保坂さんは差別意識だと言った。例えばテロ組織は自分の敵をすべて「豚」「悪魔」と言う。ブッシュ大統領が「悪の枢軸」という言い方をするのは、まさにテロリストと同じ地平に立ったという意味で非常に怖い。その差別行為の最たるもの、それが平野さんの用意した表、携行品の最後が生体。これはものすごいこと。物にしておかなければ彼らに対する実験・処置など出来ない。
 最後に保坂さんは、専門家というのは自分の専門にだけ詳しくてその他一般についてはあまり社会意識のない愚かな大衆だと言っていた。ただ専門家というのはうんと強い力を持っている。普通の我々が、専門家に説明責任を求めていける社会を築いていく事が大切だ。  

2002.5.26

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