軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

15歳の少年

人骨問題とは

  • 人骨発見から鑑定実現への道のり

    「人骨」発見

    1989年7月22日、新宿区戸山の国立予防衛生研究所建設現場から、ほとんどが頭骨と大腿骨という多数の人骨が発見されました。世はバブル景気の最盛期。円高と地価高騰という税収増加の中で国家的なプロジェクトが始動。新宿区でも防衛庁本庁舎の市ヶ谷移転、国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)の戸山移転が次々と実施されていた頃でした。

    この日、現場近くで弥生式住居跡の遺跡発掘にあたっていた戸山遺跡調査会は、見つかった人骨は埋蔵文化財ではないと判断し、警視庁牛込署に通報しました。

    東京都の情報公開によって入手した資料『戸山研究庁舎(仮称)における人骨出土の顛末について 1989.7.25』によると、当時の状況は以下のとおりです。

    1989年7月22日(土)
    9時50分 国立予防衛生研究所建設現場掘削作業中、人の頭骸骨約30個発見。
    10時00分 戸山遺跡調査会調査員より新宿歴史博物館へ報告。
    10時30分 新宿歴史博物館職員現場到着。現地確認のうえ建設省、厚生省へ連絡。
    12時50分 建設省、厚生省が現場到着。
    13時30分 新宿歴史博物館館長、現地到着。
    18時45分 建設省より牛込警察署へ人骨発見の電話連絡。
    18時55分 牛込警察署署員現地到着。写真撮影。
    7月23日(日)
    9時40分 建設省、牛込警察協議。現地へ鑑識到着。頭骸骨3個を採取。
    7月24日(月)
    10時00分 建設省、厚生省、東京都教育庁、新宿区教育委員会、現地協議。
    11時30分 牛込警察で建設省と厚生省、牛込警察が取扱いを協議。
    16時00分 牛込警察で記者会見。

    牛込警察の記者発表要旨は

    厚生省戸山研究庁舎建設現場において、人骨35体が検出された旨、7月22日午後6時45分、建設省より牛込警察署に届け出があった。検出人骨の年代等については、現在、科学捜査研究所で鑑定中である。なお、当該地は、江戸時代尾張藩下屋敷であり、戦前は陸軍軍医学校であった場所である。

    と、いうものでした。

    さらに、牛込警察署から鑑定依頼を受けた科学捜査研究所の鑑定結果は以下のとおりです。

    1. 個体数35体
    2. 死後経過年数20年以上
    3. 犯罪と認められる加害の証跡なし

    この結果を受けて厚生省は、管理責任を持つ新宿区からの身元確認などの調査要請に対し、人骨の速やかな焼却・埋葬を要求しました。

    一方、埋蔵文化財ではなく、事件性もないと確認され、埋蔵文化財を担当していた教育委員会から区長部局へと担当が代わった「人骨」は、7月26日、「公営社」(葬儀社)に保管を委託されました。

    そこに陸軍軍医学校があった

    「人骨」が発見された場所は、太平洋戦争終結の1945(昭和20)年まで陸軍軍医学校があった土地です。

    軍医学校とは、文字どおり軍医の教育・養成をする機関です。陸軍軍医学校は、医者を軍医として養成するため1886(明治19)年に陸軍省内に設立され、1929(昭和4)年に尾張徳川家の下屋敷「戸山山荘」の跡地に移転しました。

    「満州事変」以後、石井四郎軍医はその軍医学校に関東軍防疫給水部(731部隊)を設立、生物兵器を開発、細菌戦を行いました。

    元陸軍軍医 湯浅謙さん

    戦時中、日本の軍医が戦地で何をしていたか。
    元陸軍病院の軍医・湯浅謙さんが、「戦地の病院で数回にわたり生体解剖や人体実験を行っていた」という貴重な証言をしています。重要なことは、この体験が、当時決して特別なことではなかったということです。

    また「731部隊」は、極寒の地に被験者を置いて故意に凍傷に罹らせその経過を観察する凍傷実験や、毒ガスの致死実験、異種血液の注入、伝染病の感染実験などの人体実験を行い、大量殺戮兵器として当時既に国際法上使用が禁止されていた細菌などを使った生物兵器や、毒ガス兵器の研究・開発を行っていたことが戦後の調査でわかっています。
    毒ガスについては、今日も遺棄弾が数万~数十万発以上残っており、未だに付近住民を苦しめています。細菌戦については、寧波、常徳など中国各地で少なくとも4回実施されました。

    この「731部隊」は、中国全土やシンガポールにまで展開していた防疫給水部のなかの一部隊に過ぎません。これらの統括機関であった防疫研究室は、軍医学校の防疫部に設立され、大学の医学部など当時の医学アカデミズムと731部隊などをつなぐ役割を果たしていました。

    軍医学校や防疫研究室があった新宿戸山という場所は、「731部隊」をはじめとする戦時医学犯罪の拠点であったということです。

    難航する鑑定人選定を経て ――佐倉鑑定

    専門家や多くの市民は、人骨発見当初から「731部隊」など戦時中の医学犯罪の証拠ではないかと疑いを持ち、新宿区もそれらの声に応えて真相の究明を約束し、鑑定人の選考・打診をはじめました。

    ところが、国立科学博物館、聖マリアンナ大学、慈恵会医科大学などからは鑑定を次々に断られ、最終的には「人骨発見」から2年余りを経た1991年8月31日、札幌学院大学教授・佐倉朔(さくらはじめ)教授に鑑定を委託することができました。

    鑑定委託から約半年後の1992年4月22日、一般に公表された「佐倉鑑定」の要約は以下のとおりです。

    1. 土中経過年数は数10年から100年以下
    2. 個体数は100体以上(前頭骨だけで62体)
    3. 性別は男性:女性=3:1、大部分が成人であるが、少なくとも一体の未成年者を含む
    4. モンゴロイド系の複数の人種が混在(一体だけモンゴロイドではないと思われるもの在り)
    5. 複数の頭骨にドリルによる穿孔、鋸断、破切などの人為的加工の痕跡(そのうちには脳外科手術の開頭術中耳炎の根治手術などに類似するものも)
    6. 切創、刺創、銃創の痕跡。また四肢骨の鋸断したものあり
    7. 一部にフォルマリン等で固定されたもの、晒し骨の乾燥標本と思われるものもあった

    佐倉氏は公表後の記者会見で「戦争に関係のある骨だ」とはっきり言っています。
    「人骨発見」から3年近くが経っていました。

    公営舎の地下室に並ぶ人骨
    佐倉 朔 教授
    鑑定時の様子や、新宿区が鑑定を断られ続けたことの理由などのダイジェストが、『究明する会ニュース94号・要約』でご覧いただけます。
    全文をご覧になりたい方は『究明する会ニュース・合冊第2集』をお求めください。
    佐倉氏の講演(人骨発見13周年集会)の全文を公開しました。(2021.01.19)
  • 調査を求める731部隊犠牲者遺族

    1989年7月22日に軍医学校跡地で人骨が発見されたニュースは、海外でも大きく取りあげられました。

    当時、遠く中国の地では、少なくとも3000名はいたと言われる「731部隊」の犠牲者のうち、59名が確認されていました。

    1991年、私たち「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」は、中国の抗日戦争史学会と連携をとるために中国帰還者連絡会(中帰連)に連絡。懇談の末、同年4月に中国友誼促進会(友促会)対外連絡部代表が来日。更に三者の懇談会を経て、曹元欣(主任)、崔華堂(副主任)、金源の各氏と会い、友促会を介して中国人民との協力の道をふみだしました。

    この時始めた交流は、その後日本国内での731部隊展開催への流れを作り出しました。

    1991年6月、訪中した予備調査メンバーは、731部隊被害者遺族と面会。夫を失った敬蘭芝さんと、父を失った張可偉さん、張可達さん兄弟は、91年7月、日本の外務省と新宿区に対して、「人骨」の保存と調査、身元が判明した場合の返還と補償を求めて申立書を提出しています。

    敬 蘭芝 さん
    張 可達 さん

    また、調査を行わないことは遺族の人権を侵害することだとして、日本弁護士連合会(日弁連)人権擁護委員会にも申立てが行われ、日弁連はこれを受けて調査部会を設置、新宿区長、内閣総理大臣、厚生大臣に調査と保存を求める要望書を提出しました。申立書は、その後も数人から提出されています。
    この方たちは、1993年7月~8月、「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」主催の証言集会でも来日し、熱い思いを語ってくれました。

    731部隊犠牲者遺族の申立てを受け、日弁連は1994年12月、新宿区に人骨の保存を、日本国政府に被害者の調査を求める勧告を行いました。

    私たちは毎年厚生労働省と交渉を重ね、中国の遺族の方々の声を届けてきました。

    しかし日本政府は、これらの声に十分に応えているとは言えません。

    1991年
    7月18日 外務省アジア局長に731部隊犠牲者遺族、関係者、研究者からの【政府宛文書5通】を渡す
    ※ 後に担当は厚生省へ

    = 文書内訳 =
    敬蘭芝、張可達、張可偉各氏の申立書
    韓暁氏の論文2通

    書籍にまとめ、発行しました。
    『刊行書籍』ページよりお求めください。
    「夫を、父を、同胞を返せ!!満州第七三一部隊に消されたひとびと」
    1993年
    2月12日 厚生省に731部隊犠牲者遺族の申立追加分を手渡す
    1998年
    7月14日 731部隊犠牲者遺族王亦兵さんの申立書を厚生省に提出
    12月4日 同張可達さん、張可偉さんの申立書を厚生省に提出
    2012年
    10月10日 最初の申立てから21年後、厚労省から中国人犠牲者遺族らの要請書に対する回答が届く。
    以降交流継続中
  • 人骨焼却差止住民訴訟

    提訴の経緯

    1992年4月22日。小野田隆新宿区長は佐倉教授の鑑定結果の報告で「第731部隊の生体実験との関連性は見いだせなかった」とし、新宿区としては墓地埋葬法を準用して、埋火葬する方針だと述べ、92年度予算から、焼却予算を毎年計上しはじめました。
    逆に厚生省は、92年に入って人骨の由来調査を開始しました。

    新宿区が予算を執行して人骨を焼却してしまえば、DNAや炭素・窒素の同位体分析など、身元を探るためのあらゆる情報が失われてしまいます。その意味で、焼却は被害者を口封じのために2度殺すことになります。

    1993年9月、人骨の焼却―戦時医学犯罪の証拠湮滅―を阻止するために、102名の新宿区民(94年7月22日時点)が、新宿区を相手に「人骨焼却差止訴訟」を起こしました。
    この裁判の目的は、侵略戦争の加害国「日本」の戦時医学犯罪を新宿区 - 政府に認めさせることです。つまり、加害国である日本の住民が、自らその加害責任を問う初めての裁判といえました。

    結審

    訴訟は2000年12月、最高裁の判決が下されました。結果は敗訴。原告も死亡や移転により79名に減っていました。

    しかし6年半に及ぶ裁判闘争は、その後の展開に大きな影響を及ぼしたと確信しています。裁判を継続したことにより、この間遺骨の焼却を阻止できたことが現在の遺骨保管実現に貢献できたといえるでしょう。
    その意味で、判決は敗訴でしたが、実質的な勝利であったと考えています。

    1992年
    4月22日 新宿区、『戸山人骨の鑑定』結果公表の記者会見の場で、今後の人骨の扱いについて「厚生省と協議するが、区としては焼却・埋葬する方針」と発表
    1993年
    6月14日 109名の新宿区民、新宿区に人骨焼却差し止めの監査請求
    8月12日 新宿区、監査請求を棄却
    9月2日 109名の新宿区民、新宿区長他3名に対し、人骨焼却差し止め住民訴訟を東京地方裁判所に提訴
    10月8日 第1回口頭弁論陳述人・石川久枝さん
    11月30日 第2回口頭弁論陳述人・渡辺登さん
    1994年
    1月26日 第3回口頭弁論陳述人・見津毅さん
    次々回に中間判決を示唆
    3月4日 第4回口頭弁論陳述人・杉山次子さん
    次回判決の方針変わらず
    3月8日 裁判官忌避の申し立て
    3月31日 裁判官忌避の申し立て、却下
    4月8日 上記却下決定に対し、抗告
    10月11日に高裁棄却
    12月16日に最高裁でも却下
    12月5日 東京地裁・秋山寿延裁判長、却下判決を下す
    却下判決を受けて日本弁護士連合会人権擁護委員会は12月19日、新宿区に人骨の保管を勧告
    12月16日 原告101名、東京高等裁判所に控訴
    1995年
    5月31日 第1回口頭弁論陳述人・森川金壽弁護団長、渡辺登原告団長
    7月19日 第2回口頭弁論陳述人・林世志江さん
    石井健吾裁判長、弁論終結を宣言
    同日、訴訟進行に関する意見書提出
    10月4日 第3回口頭弁論西鳥羽和明近畿大学教授の鑑定書提出
    12月20日 東京高裁、控訴棄却の判決
    12月27日 原告団78名、最高裁判所に上告
    1996年
    2月27日 弁護団、上告理由書を提出
    1997年
    3月10日 弁護団、上告理由補充書を提出
    2000年
    12月19日 最高裁、上告棄却の判決
    上記同日 原告団・軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会、上告棄却の不当判決に抗議し、政府に人骨問題の徹底究明を求める声明を発表
  • 納骨施設建立

    人骨発見当初の「事件性がない」との警察発表以来、身寄りのない遺骨として焼却・埋葬を求めていた厚生省でしたが、「佐倉鑑定」が公表される2ヵ月ほど前の1992年2月27日、山下徳夫厚生大臣は衆議院厚生委員会の答弁の中で、厚生省として初めて「軍医学校跡地で発見された人骨」の調査に取り組むことを示唆しました。

    同年10月に「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」が受けた調査状況の説明では

    • 国立国会図書館で文献調査
    • 軍医学校関係者への聞き取り調査
    • アンケート調査

    を実施、ということでした。

    更に「人骨焼却差止住民訴訟」結審後の2000年12月、由来調査中の厚生省と人骨を保管している新宿区とで以下の協議が行われました。

    • 新宿区:

      厚生省の調査内容を新宿区に事前に示してほしい。

    • 厚生省:

      関係者の聞き取り調査が若干残っているが、人骨の由来については不明。

    • 新宿区:

      731部隊との関連を示唆する回答もあったと聞くがどうか。

    • 厚生省:

      回答内容は公開せざるをえないが、これ以上の調査は不可能。

    • 新宿区:

      今後のスケジュールは。

    • 厚生省:

      課内では、来年の通常国会前に報告書を出そうと考えている。

    • 新宿区:

      報告書が出た後の対応は。

    • 厚生省:

      厚生省内及び内閣と相談していく。

    • 新宿区:

      「究明する会」は焼骨に反対している。区は厚生省の調査結果を踏まえて対応する。今後、科学技術等の進捗状況によって新たな事実が判明することも考えられる。これまで区が人骨の保管に努めてきたが、今後は国が保管することが望ましい。

    • 厚生省:

      墓地埋葬法上は区の判断になる。国民感情に配慮するのであれば、火葬・埋葬を区が必ず行わなくてはならないわけではない。厚生省の人骨保管責務はどこから出てくるのか。

    • 新宿区:

      区は火葬等を行う者がいない場合に行う立場にあり、大家等が火葬を行う場合は、区は行わない。最高裁判決が出たといって区が焼骨することは厳しい。

    • 厚生省:

      処理に関し、白木の箱のまま保管するなど、賛否両立する方法はないか。相互に非難する事態は避けたい。厚生省の調査報告より前に最高裁判決が出たことは誤算であった。報告書では追加調査の必要性についてはうたわない方針である。

    • 新宿区:

      厚生省の調査が終了するということは、区は焼骨するしかないことになる。

    • 厚生省:

      火葬すべきである等のコメントが都の生活衛生局から出せるか。

    • 新宿区:

      国会の問題に発展する可能性がある。

    • 厚生省:

      厚生省としては、調査結果のまとめのみである。リーダーシップが取れる立場にない。

    1992年から始まった厚生省の由来調査の具体的な内容は、人骨が発見されてから12年目の2001年6月14日に厚生省の調査を引き継いだ厚労省が公表。将来の由来調査を前提に、弔意をもって人骨を保管することを決定しました。

    弔辞を読む亀谷課長補佐

    厚生労働省の主導によって国立感染症研究所を含む戸山研究庁舎内に御影石造りの納骨施設が建立され、2002年3月27日に納骨式が行われました。

    この施設建立の意味は厚労省の記者会見用報告内『4.今後の対応』に記載されているとおり、身元確認の科学的知見が整うまで遺骨をそのまま保管することになったということです。

    遺骨に手を合わせる金田誠一代議士
    納骨施設内部の様子

    納骨式の様子は『究明する会ニュース91号・要約』『究明する会ニュース92号・要約』でご覧いただけます。
    納骨施設は、一般の方でも国立感染症研究所に連絡の上、献花・参拝が可能です。

  • もう一つの「人骨」調査へ

    証言者

    由来調査によって厚生省は「近隣にも標本が埋められたと聞いた」との回答を得ていながら、「伝聞に留まる」として、更なる調査に動き出すことはしませんでした。

    若き日の石井さん

    石井十世(いしいとよ)さんは、1944年2月に日赤看護婦の招集で軍医学校に勤め、戦後は国立東京第一病院(旧陸軍病院)に40年ほど勤務していました。

    1998年7月、人骨発見9周年集会でご自身の体験を証言して以来、私たちは石井さんと交流を深めつつ聞き取りを行い、1989年に発見された場所の他にも埋められた場所があると確信し、新宿区議会議員、国会議員などへの働きかけを続けました。

    厚生大臣による聞き取り調査の実現
    川崎大臣(右)と
    石井さん(手前)

    事態が大きく動き出したのは2006年6月5日、郡和子衆議院議員(民主党)の質問に対する「他にも人骨が埋められているということになれば当然掘り出して、日本人であっても中国人であっても、丁重に埋葬はしなきゃならないと思う。」という川崎二郎厚生労働大臣の答弁でした。

    会議録

    同年6月23日、元日赤看護婦の石井十世(84歳・当時)さんが郡和子衆議院議員とともに厚生労働省の大臣室で川崎厚生労働大臣と面会。大臣による陸軍軍医学校などが保管していた人体標本が埋められた場所の証言聞き取り調査が実現しました。

    川崎厚生労働大臣は「埋めたと聞いた」と言う石井十世さんの証言を元に、「標本が埋まっている可能性が高い、戸山5号宿舎周辺を調査する」と約束。そこは1999年から東京都との間で売買交渉が中断していた土地でしたが、所管する国立国際医療センターの担当者が7月に新宿区と東京都を訪れ、川崎大臣が調査を約束したことを伝え、新宿区と東京都の意向を聞き、土地売却についての話し合いが再開されました。

    更に、石井さんの「埋めるのを手伝った」と言う証言によって、財務省若松住宅敷地も調査の方向へ流れだしました。

    発掘調査2011―防疫研究室跡地(戸山5号宿舎)―

    川崎二郎厚生労働大臣による元看護師証言の確認調査言明以来、私たちは根気強く質問状や要請書の提出などの交渉を続け、石井さんとの面談から約3年半後の2010年1月27日、厚生労働省は2010年度予算案に「人骨発掘調査費」を計上。具体的な調査方針などが明らかになりました。

    同年10月、戸山5号宿舎の解体工事が始まり、11月に完了。掘り残しがないなどの慎重な調査の必要があり、年内に着手予定だった発掘調査は翌年に持ち越されました。

    出土した排出管

    その後、2011年2月に始まった試掘調査から本調査は年度をまたぎ、4月21日に発掘を開始。5月30日・31日には骨発掘現場・現地説明会が行われ、6月30日に発掘調査は終了しました。

    結果的に「醫校」と印字された陶器の欠片類やメスシリンダーの底、軍医学校時代のものと思われる建物の基礎や排出管が発掘されましたが、人骨は発見されませんでした。

    メスシリンダーの底
    「醫校」の文字が
    発掘調査2012―若松住宅敷地内児童遊園―

    防疫研究室跡地(戸山5号宿舎)の発掘調査後、石井さんが人体標本の遺棄を手伝ったとされる国家公務員宿舎(若松住宅)の敷地の発掘が年度内に行われる予定が立ち、2011年12月26日、私たちは財務省と交渉の場を持ちました。人骨の病変、軟部(筋肉や脳など)、ラベル、プレパラートなど、周辺情報や身元確認に必要な情報の調査とそれらを適切に残すような発掘の要望に対し、財務省の回答は「発掘に際しては細心の注意が払われるだろうが、警察に委ねる」というものでした。

    2012年2月1日から2月3日にかけて試掘調査が行われ、2月25日に第1工区(東側半分)、3月6日第2工区(西側半分)について、財務省による住民説明会が開かれました。

    ここからも新たな人骨は発見されず、第1工区から一ヶ所、第2工区から五ヶ所、合計六ヶ所の土坑が発掘され、多数の試験管、薬瓶、注射器、映像用のフィルムなどと共に義足や石膏による手や足の型が出土しました。

    2月9日以降に本調査開始、3月末日までに終了という予定でしたが、この場所からは江戸時代の埋蔵文化財が発見されたため、以後東京都によって調査されることになりました。

    1工区・1号土坑
    義手・義足の一部
    大量の模り用石膏
    四角い土坑
    4号土坑
    石膏の手型
    大きさから子供のものか
  • これからの人骨問題

    新宿戸山で人骨が発見されてから、2019年で30年目を迎えました。この間私たちは、裁判、厚生省(厚労省)交渉、新宿区交渉と、政府や関係機関の無責任を追及し続け、集会やデモなどでこの問題を訴え続けてきました。

    一方、中国側の資料の公開や731部隊展に触発された多くの市民の努力などで、戦時医学犯罪に関する研究は飛躍的に進んできています。また、この軍医学校跡地で人骨が発見されたことによって731部隊の犠牲者、毒ガス戦・細菌戦の被害者たちが続々と日本を告発し、裁判闘争を始めるという状況も生まれました。

    戦争被害者の声に真摯に耳を傾け、その声や私たちの活動を広く共有していただくために、『究明する会ニュース』の発行やウェブサイトでの発信、陸軍軍医学校近辺の戦争遺跡の探索や、毎年人骨が発見された7月の周年集会などを通して啓蒙活動をしています。

    遺骨の身元を明らかにして母国へお返しするために、現在私たちにとって、遺骨の身元・由来について事実を明らかにする努力がもっとも重要な課題となっています。そのために専門家の意見を聞き、調査発展への道を探りつつ、今後も政府に対して粘り強く交渉を続けていきます。

    (2021.02.13.更新)

  • 厚生省との交渉記録(1991-2006)

    発端 ―人骨発見―
    1989年
    7月22日 新宿区戸山、国立予防防衛生研究所(戸山研究庁舎)建設現場から多数の人骨発見
    8月5日 新宿区、厚生省に身元確認などの調査を文書で要請
    8月8日 厚生省、次のように回答
    「発見されてから現在まで身寄りの人からの申し出もない状況により…引取者の判明しないものとして速やかに手厚く葬っていただくことが適当」
    8月21日 新宿区、厚生省に再度身元調査依頼
    8月22日 厚生省、再度拒否回答
    9月5日 新宿区議会、厚生省に身元確認の要請書提出
    9月14日 厚生省、3度目の拒否回答
    交渉/国会質問と大臣・政府委員答弁記録

    緑色:交渉赤色:答弁記録

    1991年
    1月28日
    • 担当官:

      植野克己保険医療局指導調査室長
      本田清隆援護局庶務課長補佐
      安高晴二国立健康・栄養研究所庶務課長
      井上信久厚生事務官他

      土地管理者ではある(牛込署に通報し、新宿区に引き渡した時点で終了)が、身元確認の責任も組織もない。速やかな埋葬を期待する。

      厚生省設置法の「旧陸海軍の残務の整理に関すること」とは恩給履歴証明等のことであり、人骨の身元調査はこれに該当しない。

    3月8~13日
    • 質問者:

      鈴木喜久子衆議院議員(社会)

    • 答弁者:

      井口説明員(科学捜査研究所)

    • 内 容:

      人骨は20年以上経過。人種等の鑑定はしていない

    3月8日:衆議院法務委員会

    3月12日:衆議院法務委員会

    3月13日:衆議院予算委員会第4分科会

    1992年
    2月27日

    衆議院厚生委員会

    • 質問者:

      鈴木喜久子衆議院議員(社会)

    • 答弁者:

      山下徳夫厚生大臣

    • 内 容:

      一体か二体ならともかくも、三十五体となりますと、これはやはり大きな一つの問題であると思います。…私といたしましては、これをただ単に十分調査しないで、無縁仏として弔うということは心残りがあります。今の局長のお話では、もう十分調査をしたと言っておりますが、さらに私の責任において周辺の聞き込み調査であるとかそういうこと等をもう一回やってみまして、また適当な時期にお答えすることといたしたいと思います。

    4月24日

    衆議院法務委員会

    • 質問者:

      鈴木喜久子衆議院議員(社会)

    • 答弁者:

      田原隆法務大臣

    • 内 容:

      所管が違うが、うやむやにすることなく処理していきたい

    10月26日
    • 担当官:

      浜田淳保険医療局企画課長補佐

      鑑定後初の厚生省交渉 窓口は保険医療局(担当部署変更)

      調査は厚生省保険医療局、国立栄養研究所、国立予防衛生研究所の三者で行う。予算はない。

    • 文献調査:

      国立国会図書館で「人骨」「軍医」「軍医学校」で検索。
      アンケート調査:100人程度に行う。

    • 聞き取り調査:

      代表者みたいな人から当たっている。他に佐倉朔教授にも聞いた。

    新宿区との協議を5月13日、29日の2回行った。

    1993年
    2月12日
    • 担当官:

      浜田淳保険医療局企画課長補佐

      聞き取り調査は10人前後、アンケート調査は約300人で本年度いっぱいに回収の予定。文献調査は続行中。国立公文書館にも当たる。

      731部隊の犠牲者遺族からの申立書は、外務省から廻ってきている。

    軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会、追加分として敬錫成氏の申立書を渡す。

    5月26日
    • 担当官:

      浜田淳保険医療局企画課長補佐

      アンケート調査は3項目、内容は教えられない。296通を発送し、150通返ってきた。

    9月27日
    • 担当官:

      本田一大臣官房厚生科学課企画官

      アンケート発送数は249名。回収は200あまり。文献調査はGHQ資料などにあたる。

    11月11日

    参議院厚生委員会

    • 質問者:

      栗原君子参議院議員(社会)

    • 答弁者:

      大内啓吾厚生大臣

    • 内 容:

      札幌学院大学の佐倉教授のこの鑑定というのはなかなか貴重な鑑定ではないかなと、拝聴しておりましてそう感じた次第でございます。特に、具体的に頭部の損傷であるとか四肢ののこぎりによる切断であるとか、通常の場合ではそういう事態は考えられない事実が事実として鑑定で出てきておるわけで…その事実関係を究明するために今ご指摘いただきましたようないろんな報告書あるいはGHQ資料、その他の公文書、あるいは聞き取り調査等々を十分経まして、この事件の明確な解明の上に埋葬という問題を考えるべきであろうと考えておりますので、これをうやむやにして埋葬を急ぐ、こういうことは避けたい、こう思っている次第でございます。

    1994年
    2月24日
    • 担当官:

      本田一大臣官房厚生科学課企画官

      窓口は大臣官房厚生科学課に。

      アンケート発送数は293名(最終確認)。回収は222通。聞き取りは終了。10人にあたり7人から回答、公表はしない。まとめに入っている。

      墓地埋葬法の適用(人骨の焼却)にこだわっていたが、重大な戦時犯罪の証拠であることが判明した場合は、それに応じた対応をする。

    1995年
    10月18日
    • 担当官:

      原勝則大臣官房厚生科学課企画官

      調査は続行する。アンケート調査の発送先は、医校会名簿から。「正直言って荷が重い」

      軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会から共同調査の申し入れに同意。

    1996年
    3月25日

    参議院厚生委員会

    • 質問者:

      岩佐恵美衆議院議員(共産)

    • 答弁者:

      管直人厚生大臣

    • 内 容:

      改めて調査を約束。92年に厚生省が行った軍医学校関係者に対するアンケートの内容をはじめて公表。

    アンケート内容

    1. 平成元年7月22日旧陸軍軍医学校の敷地の一部(現在は国立健康・栄養研究所)から、工事中に発見された人骨については,新聞等で報道されましたがご存知ですか。
    2. 当時陸軍軍医学校には、今回の人骨と思われる骨があったとお考えになりますか。
    3. 今回発見された人骨は、どのような由来のものであるか、何かご存知ですか。例えば、どのような経緯の骨か、どのような人か、どのくらいあったか等について、自由にお書きください。
    10月30日
    • 担当官:

      宇野隆夫大臣官房厚生科学課課長補佐・他

      軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会から、アンケート調査の項目が不十分であると迫った事に対し、アンケートの取り直しはしないと回答。

      聞き取り調査は続ける。

    1997年
    6月25日
    • 担当官:

      依田昌男大臣官房厚生科学課課長補佐・他

      軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会から、北海道大学古川講堂「旧標本庫」人骨問題調査会の報告を資料として提供。

    1998年
    7月14日
    • 担当官:

      星川信貴大臣官房厚生科学課課長補佐・他

      軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会から、731部隊犠牲者遺族・王亦兵さんの申立書2通(人骨の身元確認と防研跡地の発掘調査を要望する内容)を提出。

    12月4日
    • 担当官:

      高原亮治大臣官房厚生科学課課長
      星川信貴・須田康幸大臣官房厚生科学課課長補佐
      川瀬芳文病院部経営指導課施設整備管理室室長補佐

      防研跡地の発掘調査について、張可偉・張可達両氏の申立書を提出したが、発掘の意思なしと表明。

    1999年
    6月23日
    • 担当官:

      星川信貴・須田康幸課長補佐
      川瀬芳文室長補佐・宮下 管財係長

      できるだけ早く公表したい。

    9月29日
    • 担当官:

      岡田誠治大臣官房厚生科学課課長補佐

      敬蘭芝さんの娘・郭曼麗さん同席。身元確認と発掘調査を求める申立書を提出。

      アンケート調査の一部を公開。293名に送付し、150通の回答があった。「知らなかった」が127通、「医学標本ではないか」が14通、「解剖実習に使用されたもの」が3通、「戦場の遺棄死体から、戦傷例として頭部の傷を選別して持ち帰ったと聞いている」が5通、「病理学教室の研究には戦死体が必要なので、卒業生に戦死体を軍医学校に送ってほしいと言われていた。実際に送ったものもいたかも知れない」が1通。いずれも伝聞。新しい情報がなければ最終報告を出す方針。

    2000年
    3月14日

    参議院厚生委員会

    • 質問者:

      金田誠一衆議院議員(民主)

    • 答弁者:

      額賀福志郎内閣官房副長官

    • 内 容:

      「調査の概要」を正式に発表。土地所有者としてではなく戦後処理の一環として調査すべきとの追及に対し、調査の継続を約束

    2001年
    6月14日

    厚生労働省「戸山研究庁舎建設時に発見された人骨の由来調査について」を公表。

    遺骨の保管を決定。

    9月21日
    • 担当官:

      原口真厚生労働省大臣官房厚生科学課課長補佐
      亀谷康治同課長補佐

      年度内に国立感染症研究所内に独立した納骨施設を設置する予定。

    12月26日
    • 担当官:

      原口真厚生労働省大臣官房厚生科学課課長補佐
      亀谷康治同課長補佐

      納骨施設の設計図等を公表。
      予算は約900万円(¥8,662,500)。着工は11月7日。

    2002年
    3月27日

    厚生労働省、完成した納骨施設に納骨。
    納骨式が執り行われる。

    2003年~
    以降の厚労省交渉は【「究明する会」活動年表からご確認いただけます】
    2006年
    6月5日

    衆議院衆議院決算行政監視委員会

    • 質問者:

      郡和子衆議院議員(民主)

    • 答弁者:

      川崎二郎厚生労働大臣

    • 内 容:

      石井十世元軍医学校看護婦の証言に基づいて、未だ埋まっている人骨(医学標本類)の調査を約束。

    6月23日

    川崎厚労大臣の聴き取り調査

    • 場所:

      厚生労働大臣室

    • 聞取り:

      川崎二郎厚生労働大臣

    • 参加者:

      安達一彦大臣官房厚生科学課長、屋敷次郎課長補佐、藤谷正課長補佐、外山千也医政局国立病院課長、大島宏一同課監査指導室長 他3名

    • 証言者:

      石井十世(元軍医学校看護婦)、高橋美智子(姪)

    • 立会人:

      郡和子代議士、岡田明彦秘書
      軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会:川村一之・渡辺登・石川久枝

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