The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College
パネル紹介のページへ
1 | 公営社 |
2 | 皆中稲荷神社 |
3 | 陸軍技術本部・陸軍科学研究所 |
4 | 海城学園 |
5 | 陸軍境界石 |
6 | 戸山ヶ原射撃場 |
7 | 陸軍幼年学校 |
8 | 陸軍戸山学校・軍楽隊・将校集会所 |
9 | 陸軍軍医学校防疫研究室 |
10 | 陸軍軍医学校 |
11 | 現在の軍医学校跡 |
12 | 陸軍経理学校 |
13 | 陸軍砲工学校 |
《2》皆中稲荷神社
尾張藩江戸下屋敷の西側には徳川家康が江戸入国の際、武田、北条らの残党を警戒して鉄砲の百人同心を住まわせた百人組組屋敷があった。地名の「百人町」はこのことに由来する。
皆中稲荷は1533年に建てられるが、百人組が定住するようになってから「みなあたるの稲荷」といわれ信仰を集めた。江戸時代も中期になると鉄砲百人組の仕事は将軍が寛永寺や増上寺に参詣するときの警護くらいしかなく、暮らしは貧しかった。そこで内職として始まったつつじ栽培。そのおかげで後日この辺りはつつじの名所になる。
写真下は大久保区民センターに飾られている「銃を構えて待機している鉄砲隊」の人形
《3》陸軍技術本部・陸軍科学研究所
補足)都立健康安全センター(旧都立衛生研究所)の辺りはちょうど毒ガスを研究していた施設があったのか、敗戦直後には毒ガスが発見されたということだ。
その当時の建物は90年代まで残っており、立替工事に当たり当時責任者の中山弘子事務部長(1989~1993年)は地下探査や関係者の聞き取りを行った。その結果、地下から2本の塩素ボンベ(中味は空だったらしい)が見つかったという話を関係者から聞いた。今、毒液の詰まったビール瓶が次々と見つかっている神奈川県寒川町や平塚市、あるいは井戸水から有機砒素系の毒ガス成分が見つかっている茨城県神栖町などと比べると、歴史事実をまっすぐに見つめ対策を立てる行政の姿勢が必要であることを示している。
因みにこの中山弘子事務部長はその後2002年東京都を退職し、新宿区長選に立候補、見事当選する。これは究明する会が確かな筋から聞いた話だが、中山区長はこの事実を認めていない。
《4》海城学園
戦前から続く私立学校。創立者は古賀喜三郎海軍少佐。明治24年から32年までは海軍予備校であった。その後日比谷中学校を併設するが明治39年、日比谷中学校を閉鎖・吸収して海城中学校とした。関東大震災の復興事業で現在の百人町・大久保町に移築し、現在に至る。講師陣に金田一京助、鈴木三重吉などを配していた歴史もある。
《5》陸軍境界石
海城学園の東端、民家の塀に埋まるようにして陸軍の境界石がある。ここより東に射撃場があったことを示す。
境界石の周りは塀。
《6》陸軍戸山ヶ原射撃場
昭和7~8(1932~33)年頃、明治通りより西側の戸山ヶ原には7本のかまぼこ型鉄筋コンクリート製「大久保射撃場」がつくられた。写真はそのコンクリートの棟の向こうの的に向かって射撃をするところ。
それまでは射撃練習は三角山と呼ばれる線路に沿った土塁をめがけて行われていたが、誤射が近所の民家に飛ぶということもあったということだ。
土塁はコンクリート棟に並行しているものもあり、その名残は交通公園、関東財務局住宅の南側をずっと延びて東端は区立戸山中学校の校庭の端から確認することができる。
もともと戸山ヶ原は演習場とはいえ、子どもたちが草野球をしたり親子連れが弁当を広げ、ホームレスが住みついたり、挙句は大正年間にはゴルフをやる人もいたそうだ。
敗戦後はGHQに接収され、米軍の射撃訓練に利用された。朝鮮戦争真っ只中の1952年~53年、演習で使われる機関砲や拡声器での号令の声による大騒音で戸山高校の授業が中断するほどの騒ぎになり、当時の朝日新聞には「都心にもあった基地」と紹介されるほどだった。
《7》陸軍幼年学校
東京の中央幼年学校の下に東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の六校の地方幼年学校があった。地方幼年学校を卒業すると中央幼年学校(後の陸軍予科士官学校)に進学し、卒業後、陸軍士官学校に進学する。将来の幹部の登竜門であった。入校は、13~14歳で各学校一学年50名。途中、軍縮で地方幼年学校は廃校となるが、東京陸軍幼年学校のみ存続した。
現在の戸山生協(コープとうきょう※2004年当時)から明治通り沿いの高台に東京中央幼年学校があった。
お花見ウォークの最終コースに当たる感染症研究所内の納骨施設には立派な献花台がある。遺骨が保管される前は、人骨発見現場でもある感染症研究所内に「入れろ」「入れない」でずいぶん守衛さんと喧嘩したものだが、今は私たちにも開かれた場所になった。
納骨施設に献花したい人は、ここで花を買うことができる。
《8》陸軍戸山学校・軍楽隊・将校集会所
運動公園から箱根山に登ると、旧市内で最も標高の高い44.6mの築山の頂上にでる。ここから眺めると眼下に戸山ハイツが広がるが、この一帯が陸軍戸山学校であった。
明治6年陸軍兵学寮戸山出張所が置かれ、各地の上・下士官を招集して陸軍全体の教育を統一した。明治7年に戸山学校と改称し、主に下士官候補生に対して戦術、射撃、体操剣術などの教育・研究を行った。
校内には軍楽学校も併設され、野外音楽堂は箱根山のふもとのすり鉢状のくぼ地にあった。2004年2月に封切された映画「この世の外へ クラブ進駐軍」の冒頭に出てくる軍楽隊の演奏は、まさにこの地での出来事だ。
また、箱根山の南側には戸山教会がある。正面から見て白い「戸山教会」の地下室にあたる部分が、当時戸山学校の将校会議室(集会室)であった。市ヶ谷の大本営からも将校が極秘裏に集まって会議をする場所だったという証言もある。また、天皇が訪れたときに一度だけ使ったと伝わるトイレが今も残っている。
《9》陸軍軍医学校防疫研究室
軍医学校の本来の業務は軍医の教育と研究で、医学・衛生学・病理学・臨床検査・防疫などがある。
本部北側の軍陣衛生学教室では科学研究所などとも協力して化学兵器の研究をしていた。因みにその建物は1992年頃まで残っており、国立栄養研究所が利用していた。また、本部東側には防疫部があり予防接種等の研究を行っていたが、昭和7(1932)年8月、新たに北側の近衛騎兵連隊敷地に防疫研究室を開設する。
《10》陸軍軍医学校
昭和4(1929)年、東京第一衛戍病院の東北側に陸軍軍医学校が開設され、軍医学生や軍陣衛生の育成・教育と研究を行っていた。前身は明治21年麹町に作られ、その第一代、第五代校長は森林太郎(森鴎外)である。
軍医学校には診療部があり、隣接する済生会病院(右)とのつながりもあって一般外来患者が一日300人もいた。また、昭和6年(1931年)のいわゆる満州事変(柳条湖事件)以降、部隊の現地派遣や東京第一衛戍病院に運び込まれる戦傷者の診療も始まった。
陸軍軍医学校と隣接する防疫研究室の配置図も資料として発見されている。
※ 配置図は、常石氏所蔵の図版に、厚生省(当時)が聞き取り調査によって得た情報を書き込んだものです。実際の調査報告書では、書き込みはワープロで書き直されていますが、原版のほうが迫力があるのでこちらを掲載します。
《11》現在の軍医学校跡
さまざまな経緯を経て、遺骨は、2002年3月14日、厚生労働省が、発見現場近くに納骨施設を建立。将来調査する可能性を含みながら、弔意をもって保管している。この日はお花見ウォーク参加者とで献花を行った。
また、納骨施設の近隣には、麹町区富士見町(当時)から当地に移転した昭和4(1929)年、天皇が見学に訪れたことを記念して建てられた「天皇行幸記念碑」がある。
軍医学校跡地には現在、上記の他に戸山サンライズ(身障者総合福祉センター)、新宿区障害者福祉センターなどがある。軍医学校と済生会病院の間には門衛があり、その塀や車止めの石柱と思われるものが残っているが、石柱に刻まれた「医校会」という文字は、人骨発見直後「医療センター」と書き換えられた。(下写真中央)
済生会病院は、現在は財務局若松住宅、児童公園、住宅などに変わっている。また、陸軍第一病院は、戦後東京第一病院になり、現在は国立国際医療センターになっている。軍医学校の中にありながらその中でさえ厳重に管理され、自由に行き来できない場所だったといわれる防疫研究室は、現在は都立戸山公園箱根山地区運動公園になっており毎日子供たちがサッカーや野球に興じている。また、最近ゲートボール場もできた。
「新編・続悪魔の飽食」(森村誠一著)には、戦後大量の医学標本を遺棄したとある。当時軍医学校で看護婦をしていた石井十世さんの証言から、現在この一画にある厚生労働省敷地・国立国際医療センター官舎の辺り(写真)がその場所と考えられている。
下の写真は高台から眺めた陸軍軍医学校防疫研究室跡。
《12》陸軍経理学校
明治19(1886)年開校。陸軍の主計将校養成の学校である。予科生徒2年、隊付勤務8ヶ月、本科生徒2年、見習士官4ヶ月の後、主計少尉に任官するのが一般であった。
現在、跡地には東京女子医大(写真)や韓国学園がある。
《13》陸軍砲工学校
明治22(1889)年開校し、砲工兵科の少尉、中尉を対象とした。普通科・高等科各一年で卒業だが、研究のためにさらに一年残る学生もいた。昭和16(1941)年、陸軍科学学校と改称された。跡地は今は総理府統計局統計センターになっている。
ガイド派遣のページへ
《1》公営社
2003年の解説へ