The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College
3月30日(日)実施
軍都・新宿を訪ね、軍医学校跡地で発見された遺骨たちに思いを馳せるフィールドワーク
案内人:川村 一之 (前新宿区議・戦争被害調査会法市民会議事務局長)
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1 | JR新大久保駅 |
2 | 公営社 |
3 | 国立科学博物館分館 |
4 | 陸軍技術本部・陸軍科学研究所 |
5 | 陸軍戸山ヶ原射撃場 |
6 | 陸軍近衛騎兵連隊 |
7 | 陸軍軍医学校防疫研究室 |
8 | 陸軍戸山学校・軍楽学校 |
9 | 陸軍軍医学校・人骨発見現場 |
10 | 陸軍第一病院と陸軍軍医学校をつなぐ地下道 |
《2》公営社
鑑定後、厚生省(当時)は土地管理者の責任として調査を開始し、逆に新宿区は区長が代わっていたこともあり、人骨の焼却埋葬を主張しはじめます。92年3月30日に「戸山人骨の鑑定報告書」が完成すると(一般への公表は4月22日)、新宿区は翌年度から毎年人骨焼却予算を計上し始めました。
96年10月16日、731部隊の犠牲者遺族、敬蘭芝さんと娘さんの郭曼麗さんが、自ら起こしている国家賠償請求訴訟の原告として来日した際、新宿区役所を訪れ、遺骨の保管と身元調査を求めました。その後、公営社地下室に段ボール箱に詰められて保管されていた人骨は、14箱の桐箱に移されました。「人骨」が「遺骨」になった瞬間です。
遺骨は公営社の地下室に置かれ、鑑定はここで行われました。
《3》国立科学博物館分館
公営社の角を曲がって細い路地をくねくね西に行くと社会保険庁病院に出ます。その西側に国立科学博物館分館があります。
89年8月、新宿区は、区長、区議会一体となって厚生省(当時)に人骨の身元確認を迫りますが、厚生省は国立栄養研究所名で3度にわたって拒否回答をしました。これを受けて当時の山本区長は9月21日の新宿区議会本会議で独自鑑定に取り組むという決断を表明しました。しかしその後、新宿区が鑑定を依頼すると学者本人に内諾を得ても、ご本人が勤務する施設側や大学側で断られるということが続きました。
究明する会でも当時国立科学博物館人類学研究室に勤務していた形質人類学の第一人者、佐倉朔先生と接触を図ってきましたが、結局研究室を退任し札幌学院大学に移った91年まで鑑定を待たなければならなかったという経緯がありました。
また、現在佐倉先生の後任で現在国立科学博物館人類学部長を務めている馬場悠男先生は、99年7月17日に開催した人骨発見10周年で講演し、今後、DNA鑑定だけでなく細胞に含まれる炭素や窒素の同位体など、科学鑑定の手法が系統的に進歩すれば発見された人骨の由来確認にも役立つ可能性があることを示唆しました。
《4》陸軍技術本部・陸軍科学研究所
山手線西側99000㎡の戸山ヶ原演習場敷地内には、陸軍の各種兵器・技術の研究・開発を行う施設が建設されていました。「陸軍技術本部調査班刊行物総目録・昭和四・五年版」には「細菌戰」「化學兵器の戰術的價値」などの項目が見られます。昭和12(1937)年には科学研究所の出張所として登戸に第九研究所が設立されました。
戦後、跡地には都立衛生研究所、国立科学博物館分館(新宿区百人町3-23-1)、社会保険庁中央病院などが建てられました。
《5》陸軍戸山ヶ原射撃場
山手線東側から明治通りまでの一帯は射撃の練習に用いられました。諏訪通りを隔てて反対側の高台に存在する諏訪神社から射撃場が一望の下に見渡せ、諏訪神社境内には、「明治天皇射的砲術天覧所址」の碑が建立されています。
昭和2(1927)年から3(1928)年にかけて、長さ300メートルの鉄筋コンクリートのトンネル式射撃場7棟が造られました。これは巨大なかまぼこ型の土管のような形で、その異様な姿は人々に気味悪がられたといいます。戦後GHQに接収され、現在は早稲田大学理工学部・新宿スポーツセンター・都立戸山公園などになっています。
《6》陸軍近衛騎兵連隊
諏訪通りを進んだ先にある現在の学習院女子大学や都立戸山高校近辺は旧近衛騎兵連隊跡地です。近衛兵は、宮城の守衛、儀杖、供奉などに任ずる兵で、全国から品行方正・体格良好な優秀者を選抜しました。
学習院女子大学構内には、戦前からの桜並木が残っており、その傍らに4号館と呼ばれる2階建の赤煉瓦の建物が当時の兵舎、C館と呼ばれる平屋建が当時の炊事場・風呂場でした。
《7》陸軍軍医学校防疫研究室
1932年、陸軍軍医学校の中に防疫研究室が発足します。軍医学校の中にありながら、その中でさえ厳重に管理され、自由に行き来できない場所だったといわれています。
そして、この防疫研究室こそが、生体人体実験を通して細菌戦の研究・開発をしていた731部隊をはじめとする防疫給水部隊と、日本の医学アカデミズムをつなぐ、ネットワークの中枢機関でした。実際、731部隊の部隊長・石井四郎は嘱託として頻繁にここへ出入りしていたそうです。
現在は、この一帯は都立戸山公園箱根山地区運動公園になっており、毎日子供たちがサッカーや野球に興じています。また、最近ゲートボール場もできました。
「新編・続悪魔の飽食」(森村誠一著)には、戦後大量の医学標本を遺棄したとあります。当時軍医学校で看護婦をしていた石井十世さんの証言から、現在この一画にある厚生労働省敷地・国立国際医療センター官舎の辺りがその場所ではないかと考えられています。
ただし、そこに住む住民がいることを十分配慮し、興味本位で覗いたり、心霊スポットのように扱うことは慎みたいものです。
《8》陸軍戸山学校・軍楽学校
運動公園から箱根山に登ると、旧市内で最も標高の高い44.6mの築山の頂上にでます。ここから眺めると眼下に戸山ハイツが広がりますが、この一帯には陸軍戸山学校がありました。
明治6年陸軍兵学寮戸山出張所が置かれ、各地の上・下士官を招集し、陸軍全体の教育を統一しました。明治7年に戸山学校と改称し、戦術、射撃、体操剣術などの教育・研究をしました。
校内には軍楽学校も併設され、野外音楽堂は箱根山のふもとのすり鉢状のくぼ地にありました。
《9》陸軍軍医学校・人骨発見現場
昭和4(1929)年、東京第一衛戍病院の敷地内に陸軍軍医学校が開設され、軍医学生や軍陣衛生の育成・教育と研究を行っていました。前身は明治21年麹町に作られ、その第7代、第12代校長は森林太郎(森鴎外)です。
軍医学校の研究は、例えば、本部北側の軍陣衛生学教室では化学兵器の研究をしていました。因みに、その建物は最近まで残っており、国立栄養研究所が利用していました。
元731部隊軍属の篠塚良雄さんも、近くにある清源寺を宿舎として同校で教育を受けていたそうです。
昭和60(1984)年、国立栄養研究所・旧国立身体障害センターの敷地を再開発し、国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)、病院管理研究所、国立栄養研究所の3研究機関を合築し、戸山研究庁舎を建設することが決定され、工事に入りました。工事中区域内から土器が発見され、弥生式住居跡ということで東京都教育委員会を中心に戸山遺跡調査会が組織され、発掘調査が行われていました。
1989年7月22日、その近隣、当時の本部北西、標本図書室と防疫部(軍陣病理学教室)の間くらいから大量の遺骨が発見されたわけです。
《10》陸軍第一病院と陸軍軍医学校をつなぐ地下道
戸山研究庁舎の前の通りを国立国際医療センターの方にしばらく行くと、新宿障害者センター、戸山サンライズ等がありますが、その向かいの医療センターの石垣に、一部埋められたような跡が残っています。戦前、陸軍第一病院(現医療センター)と陸軍軍医学校(現感染研)は地下でつながっており、その地下道の入り口であったと思われます。つい最近までブロックが積まれ突き出ていましたが、97年に埋められ現在のようになりました。
さらにその先の財務局若松住宅に入る道端に、車止めのような石塊が見られます。ここには以前は「医校会」と記されていましたが、人骨が発見された直後、「医療センター」「駐車禁止」などと書き直されました。
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《1》JR新大久保駅
2001年1月、JR山手線新大久保駅のホームから転落した酔客を助けようと韓国人留学生・李秀賢さん(26)と横浜市のカメラマン・関根史郎さん(47)が、ホームに飛び降り電車に轢かれて一緒に亡くなった事件がありました。その勇気を称えてJR東日本が駅構内に「顕彰の碑」を作製。2002年2月15日、除幕式が行われました。
碑はブロンズ製プレート(縦55センチ、横75センチ)で、新大久保駅ホーム階段下の壁に設置。日本語と韓国語で記されています。