軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

「七三一部隊-虚像と実像」常石 敬一
(神奈川大名誉教授・軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会代表)

人骨発見17周年集会

常石 敬一・代表

 今日のタイトル「731部隊-虚像と実像-」の説明から始めましょう。今年は、731部隊が創設70周年になります。それで「実像と虚像」というタイトルですが、僕が部隊についての最初の本、『消えた細菌部隊』(海鳴社・1981年)を書いてから25年ぐらいになります。731部隊と付き合うのも四半世紀だなあ、そろそろ止めて他のこと、別のテーマにしようかなあと思っていたんですね。
 そういう意味で言うと、人の関心をひくために731部隊というのは大変なんだぞと僕自身が虚像を膨らませていたところもあったと思うのです。ところが、そろそろ止めようかなという段になり、いやあれたいしたことないよと、水を注すようなことをいう。研究者というのはそういう狡いところもあります。で、まあそんな中で本当のところとうそのところを見ていきたいなあと考えているわけです。

  • スライド1
  •  これまで僕たちが付き合ってきた人骨(ほね)、1989年7月22日、17年前に見つかった人骨(ほね)というのは、出てきた場所から言うと731部隊から送られたものではないだろうと思っています。しかしいろいろな方々が731部隊との関連を戸山の人骨(ほね)についておっしゃるときに、僕たちはあえて否定はしませんでした。それはそれでいいだろう、少なくともその人骨(ほね)のことをみんなが忘れないでいてくれれば、それが人骨(ほね)を保管し、いずれ出身地というか、そういうところに返すことができるかもしれない。そんなようなことを考えていました。そんな意味では戸山の人骨(ほね)を731部隊とつなげることは虚像だった、と自覚していました。しかしスライド2、「17年目の転機」にあるように、虚像だったものがいつの間にか実像になるかも知れない。
     それはあの、このタイトルは何を話すかよくわからないままに二ヵ月前につけたのですが、その間に状況がまた変わってきて、必ずしも虚像としての731部隊だけではなくて、あの人骨(ほね)というのはまた一箇所だけではなかったということが分かって、731部隊とつながるところもこれから出てくるかも知れないなあと、今は考えているところです。

    ※2011~12年の発掘調査の顛末は、『人骨問題とは』ページで公開しています(2021.2.14)
  • スライド2
  •  スライド2の左側のノートには「終戦メモ、1946-1-11」その下に「石井四郎」、右側のものには「1945-8-16」その下に「終戦当時メモ」と書かれています。これらは一昨年に、青木富貴子さんが石井の頼みで預かっていた人から入手した石井四郎の直筆のノートです。1946年というのは内容的には誤記で、45年の1月11日だろうというふうに青木さんは分析しています。それから45年の8月16日、終戦当時メモ。これは後になってこのタイトルはつけたのだろうと思います。例えば今は「人骨(ほね)発見当時メモ」と言うのはありますが、その時に「人骨(ほね)発見当時メモ」とは書かないわけです。書くとしたら「人骨(ほね)メモ」。
     この二つのノートのうち「終戦当時メモ」には、明らかに人体実験であるとか、生物兵器の使用であるとか、そうしたことがはっきり書かれている。ですからこれを持っているわけにはいかないだろう、しかしかと言って、石井にとっては非常に意味のある、彼の生涯にとって非常に重要なノートだったろうと思う。ですから燃してしまうとか、ずたずたに引き裂いてしまうということは忍びなくて、その青木さんの本(『731』新潮社、2005年)で言うと渡辺あきさんに預けます。そのときにこの二つのタイトルと何月何日ということを書いたんだろうと思います。それはたぶん46年になって1月か2月頃。米軍の調査をひかえて、こんなメモを持っていて、それが見つかるとまずいというので、渡辺あきさんという方に預けるためにタイトルを書いたのだと思います。

  • スライド3
  •  今日はスライド3のような順番で話をしますが、その前に僕がなぜ731を始めたのかということをお話しようと思う。
     動機はけして古いことに関心があったのではなくて、僕自身は元々理系の学生でした。それからだんだん科学の、人間の活動としての科学の歴史をやるようになりましたが、その過程で、科学者はどれだけ視野が狭くなれるか、視野が狭くなるとどれだけ残酷なことができるんだろうか、を見たかった。実はこれは僕自身の問題でもある。僕自身が残酷なことをやるかも知れないが、幸いそういう機会もなかった。しかし機会があればやったかもしれない。それで歴史の中で科学者たちはどんなことをやってきたんだろうと考えたのが、こういうことを調べ始めたきっかけです。それは決して他人事ではなかった。
     科学者というのは少なくとも知識をいっぱい持っています。色々なことを知っています。ですから何となく偉そうにしています。心臓なら心臓の分野ではきっと偉いわけですね。それから素粒子論なら素粒子論について専門家なわけですね。ですから専門家として偉い顔をしている。それはそれでいいんですけれども、じゃあそれ以外の分野で、いつもそんな風に偉そうにして常識を持って行動しているんだろうかと思ったりするわけです。本当に常識があってものを考えているんだったら、原爆というのはつくるんだろうか、と思ったりもするわけです。
     一見紳士風の科学者たちが本性を現すのは、戦争という危機的状況の中であぶりだされてだろうと考えて、戦争中の特に日本の科学者たちを調べようと思った。これは原爆だったらアメリカのマンハッタン計画だとか、それに協力したドイツからイギリスに亡命して、原爆をもっと小型にできることを発見した科学者たちがいます。そういう人たちを調べるためには、英語が読めるだけではダメなんですね。例えば、先のノート(スライド2)の石井四郎なんていう字は漢字で薄い字です。薄い字ですけれども漢字だから僕読み取れます。あれがドイツ語だとか英語だったらあんなに汚らしく書かれていたら全然読めません。だけど多分ドイツ語あるいは英語を母語にしている人だったらそんなものも読んでいけるわけです。そうすると同じテーマで研究をやっている人との競争ということを考えると、外国のことをやっていては、そうした人たちと競争にならないわけです。
     そういうこともあって日本の科学者たちを選ぼうということになった。で、第二次世界大戦中の兵器でABCですね。Aは核兵器、Bは生物・細菌兵器です。Cは化学兵器。日本はどれもやっていました。原爆もつくろうとしましたけれども失敗しました。原子炉すらできないというか、連鎖反応の前で止まっているわけですね。これは失敗。それから化学兵器。これは僕が住んでいる地域に海軍の工場がありまして、そこの北側の町で製造していました。今から4年前、2002年、道路工事中に古い毒ガスが出てきて作業員の方が受傷した。海軍よりもっともっと大規模なのが広島県にあった大久野島。ここでびらん剤だとかくしゃみ剤だとかそういう毒ガスを造っていた。
     ところで、最初の毒ガス製造装置はフランスから輸入してきたのですね。日本軍の毒ガスというのは、新しい毒物も探求しましたが結局第一次世界大戦、1918年に終わっていますが、その時までに開発されたもの以外は開発できませんでした。そんなことから言いますと科学史の対象としては原爆も毒ガスもあまり面白くない。科学者の役割というのはあまりたいしたことない。その中で残っていったのは生物兵器、石井四郎たちの活動ということになる。最初から人体実験を狙って研究を始めたのではなくて、今のような経緯で戦争中の科学者というのはどのように振舞うんだろう、というようなことを考えて消去法で行ったらここにたどり着いてしまったというのが正直なところです。
     それで、最初の六つの節では、細菌に関してはこのようなことが行われましたよなどいう具体的なデータや実験などの「実像」の紹介、次いで細菌の実践試用という「実像」と「虚像」の狭間の事例を紹介します。それから戦後の活動、このあたりからかなり「虚像」がふくらんでいきます。例えば細菌の実戦試用なんかでは、実態はどうだったのか。それから戦後の活動、米軍との関係でどうだったのか。その辺りからですね、かなり石井機関の虚像というのは広がっていっただろう。そういう中で、石井機関の遺産、遺産というのはいいものも悪いものもいろいろあります。いい悪いはその立場によって違ってきます。Aにとってよいものは、対立するBにとっては悪いもの、ということはよくあります。

  • スライド4
  •  スライド4は、1945年9月および10月段階の「日本における科学情報調査」、通常サンダースレポートと呼ばれているものにある図です。その中にある防疫給水部の配置図。東京の陸軍軍医学校、ハルビンの731部隊、北京の1855部隊、南京の1644部隊、香港の先の広州の8604部隊、ここまでが1939年までにできた。それから1941年に、第二次世界大戦に日本が参加したときにシンガポールのイギリス軍を追い出しました。そこのエドワード七世医科大学に南方軍防疫給水部(9420部隊)というのをつくる。シンガポール、広州、南京、北京、ハルビン、この五つが固定の舞台で、全部で1万3000人規模、戦時編成の師団ひとつ分の人員です。
     それら全体を統括していたのが東京の陸軍軍医学校の防疫研究室。そういう構造があるので最初に17年前に人骨(ほね)が出てきたときに731部隊との関連というのが取りざたされるということになったのだろうと思います。

  • スライド5
  •  スライド5の表は「防疫研究報告」第二部の第九九号からとったものです。1941年に発表されたものです。記述の本事変というのは当時の日本の呼称で「支那事変」、今の言い方では日中戦争ですね。その時に新設セラレタル防疫機関。これらが1から18まであって、これが固定って書いてあります。スライドの4と同じですが、関東軍(ハルビン)、北支那軍(北京)、中支那軍(南京)、南支那軍(広州)の各防疫給水部で、全体を取り仕切っているのが最後に出てくる軍医学校陸軍防疫研究室ということになります。このあと、1942年にシンガポールの南方防疫給水部が加わります。

  • スライド6
  •  スライドの6は戦前、軍医学校があった頃の構内図です。感染症研究所の上方からさらに左の方へと、防疫研究室の広大な敷地がありました。人骨(ほね)が見つかったのがこの辺です。感染症研究所の建築工事中に、建築現場の地下から出てきたわけです。右側の写真がそうです。

  • スライド7
  •  スライド7はさっき見ていただいた陸軍軍医学校「防疫研究報告」第二部に論文の発表している研究者のうち、1940年から45年の期間、大学の教員だった人たちのリストです。小島三郎は東大の教授です。細谷省吾、内野仙治、小林六造、緒方規夫、柳沢謙みんな東大などの教授で嘱託としてそれぞれ論文を、防疫研究室が出していた研究雑誌に発表していた。柳沢謙の場合は論文は発表しなくて論文指導だけです。これらの研究者のうち、小島と細谷と内野は、1947年に石井機関での人体実験がアメリカ側に発覚しますと、米軍の尋問対象となります。その時には、石井四郎などと並んで、大学の小島三郎、細谷省吾それに内野仙治が調査対象となった。彼らが石井機関との関係でやった研究について米軍の調査を受けるということになったのだった。
     45年の9月から1年くらいかけて石井機関の調査を行った米軍は人体実験を暴露できなかった。そのことはソ連が米国に、石井たちに対する裁判を要求したことで明らかになった。それで人体実験に関して、47年になってアメリカ側の調査担当者が来ます。

  • スライド8
  •  スライド8が、先ほどの細谷なんかが書いた「防疫研究報告」第二部、これがナンバー1から900まであるんです。本当はこれが9冊なきゃいけないんですが、1冊なんか第七巻が一冊抜けています。これらがどこにあるかというと、米国の議会図書館にあるんですね。日本にはありません。これは明らかに「寄贈 防疫研究室」とあり、さらに軍医学校の判・蔵書印もあるんです。これ要するに、敗戦のときに米軍が日本から持っていた。持っていって自分たちの財産にしているわけです。こういうものは返してくれと言わなきゃいけないんじゃないかなと思ったりしています。しかし、実は2004年から2年かけてマイクロフィルムを元にして不二出版が復刻しました。ですからこういうものが返還されると不二出版が迷惑するのかなあと考えたりしています。
     石井四郎は、1932年に防疫研究室を発足させまして、その前年の柳条湖事件(満州事変)によって32年にできた、日本の傀儡国家、満州国において、日本国内ではできない研究をしたい、と考えた。石井の持論として生物兵器の開発にはAとBがある。Aというのは、Angliefの意味です。これドイツ語で攻撃で、英語のアタックではなくて石井が使っていたのはドイツ語のAngliefです。じゃBは何かというと防御(Bogyo)というドイツ語を知らなかったのかどうかわかりませんが、Bは防御と言っている。Bは防疫研究室でできる。Aはできない。それで植民地である満州で何かやりたい。
     その結果、32年から場所を物色してもらって、背陰河というハルビンから南に100キロくらいのところに実験場をかまえることになった。そこで石井たちの活動が始まる。背陰河の活動とはなんだったのか。それは人の殺し方の研究でした。人の殺し方の研究というと変ですが、例えばここに僕がいてBさんがいてCさんがいる。この三人に同じペスト菌を1グラムずつ飲ませる。それで三日くらい経ってから僕を生きたまま解剖するとペスト菌はどうなっているか。四日目にはBさんを解剖するわけです。五日目にCさんを解剖するわけです。どれくらいでペスト菌が身体の中を廻っているのかを一日毎に見ていく。そのためには生きたまま殺すのが一番いいのかも知れないですけれども、そうすると何か事故があったら困るということで静かに解剖したい。静かに殺したいということで青酸化合物などで殺害すると、何か別の病変が起こる、なんてこともあるかも知れない。
     ここでもっとも集中的に行われたのは、青酸化合物は飲みやすいものではないわけですね。これを牛乳に入れたら飲んでくれるか、お茶に入れたらどうか、混ぜたらどうか、なんてことをいろいろ調べたことが分かっている。人間の青酸化合物に対する致死量、そんなことを背陰河の部隊ではいろいろ研究しています。

  • スライド9
  •  スライド9には「捜査報告手記」と書いてありますが、これは1948年に起きた「帝銀事件」という、青酸化合物で銀行員が12人殺された事件のものです。警察の捜査は、かつて日本軍で毒物を扱っていたところ、あるいは731部隊みたいな細菌をばら撒いていたらしいところ、あるいは毒ガスを使っていたらしいところに進んだが、実は警察で捜査を担当していた人たちはそれら存在をほとんど知らなかった。捜査が始まってから軍の関係者から聞き取りをすると、秘密の部隊731部隊というのがある。日本国内には九研(登戸にあった第九陸軍技術研究所)のようなスパイが使う毒物を作るところもある。それから毒ガス教育の習志野学校だとかチチハルの毒ガス部隊だとかいろんなものを日本軍は持っていたことが分かってくる。
     それで作成されたのが旧軍の秘密活動の一覧表です。さっき言いました青酸化合物で人を殺すとき、牛乳だったらどうか、ワインだったらどうか、コーヒーだったらどうかというのは全部、捜査対象になった人から警察が聞き出しこの報告書の中に書かれている。当時はまだ記憶が薄れていないわけです。右にあるのは背陰河守備隊の名簿です。ここに書いてあるのは陸軍少将、これ全部敗戦時の肩書です。白川、佐藤、羽山・石井四郎の名前がないですけれども、これトップは当然石井、この人たちはみな背陰河では偽名を使っていました。石井四郎は東郷ハジメでした。
     この実験場の目的は、人体実験は本当に効果があるのか、それからまた植民地満州で人体実験の被験者が本当に十分得ることができるのだろうかの確認でした。これは人体実験の可能性を探る部隊だった。失敗したら無かったことにもできるわけです。そのためもあり偽名だったのでしょう。人体実験というのは必ず大きな成果が上がるとは限らないのです。相当大きな研究計画の指揮者として、そのくらいの用心深さ、そんなものを石井は持っていた。失敗するかも知れないということを考えながら人体実験をあれこれやっている。よかったらきちんとした正式な部隊をつくろう、というのが東郷部隊の意義だった、と僕は考えています。
     最後に捜査手記を見て、唖然としたことは何かといいますと、この正式に731部隊になった後、現地中国で集められた中国人、ロシア人、朝鮮人たちがみんな人体実験の被験者になるわけではないんですね。最初に健康診断を受けて、健康な人が人体実験の対象になります。例えば結核で苦しんでいる人を連れてきても、BCGの研究対象にはならないし、そんな人に他の病原体を植え付けても石井たちにとっては意味がない。彼らは非常に科学的な現実性、というものを重んじていた。これは背陰河の東郷部隊という可能性を探る部隊を作った慎重な石井ならではの用意周到さです。
     それを知ったとき、僕は実験室で殺す人の健康診断をすることに、ものすごい違和感を覚えました。その違和感は今もって消えません。多分科学者として、科学的な現実性だけ言うのであればそれはきっとなすべきことなのでしょう。しかし、731部隊をトータルに見たときに奇妙な感じというのは今も持ち続けている。
     それで健康診断の責任者というのは吉村寿人という後で出ますけれども凍傷の実験などをやっていた生理学です。生理学者というのは、生理学というのは何かというと、人間が死んだあるいは病気の原因究明をやるのが病理学、逆に生きている理由を明らかにするのが生理学です。ですから、彼が健康診断をやったというのは適材適所ですけれども、変な感じはします。

  • スライド10-11
  •  ここで使用しているスライド10と11はどちらもアジア歴史資料センターのサイトからとったものです。サイトのアドレスは次の通りです。
    http://www.jacar.go.jp/
     アジア歴史資料センターの設立のきっかけは、1994年8月31日、当時の村山富市総理が行った、翌年の戦後50周年を記念した「平和友好交流計画」に関する談話でした。その中で、歴史資料センター設立が言われました。それを受けて国の諸機関が保存公開している「アジア歴史資料」についてインターネットを通じて提供することになり、国立公文書館の組織として2001年11月30日に開設されました。
     このサイトで資料を見るには(2006年9月16日現在機械更新のためお休み中)、先のアドレスを入れ、検索して資料を見たいと希望すると、規則を守るかとかいろんなことをやって検索という画面に行く、そこでC01003171600と入れるとこの資料が一発で出てきます。逆に731なんて入れると10回くらいかかりますが、とにかくとても便利です。英語でも検索できるようになりつつあります。だからどこにいても使えるので非常に便利です。

    ※資料閲覧関連情報は2006年講演時のものです(2021.2.14)

     スライドの10の資料は、昭和11年8月8日付です。タイトルは「編成完結の件」、内容は「左記ノ通編成完結ス」。「軍馬防疫廠」、これが100部隊のことで、8月3日、で、「関東防疫部」これが昭和11年、1936年の8月5日に、天皇の命令どおり、編成が完結しましたという報告書です。それから成立後70年経ったということです。
     スライド11も資料センターですけれども、左の資料は防疫部で何をやっていたかということが分かる文書です。書かれているのは「香港上海方面ヨリスル『コレラ』等ノ侵襲ヲ防護セントス」、要するにコレラ等を防ぐということです。それから次に、右の昭和15年の8月25日ですね。1940年8月25日、具体的な記述はこの次のページかなんかにあるんですが731部隊の編成を改正します。どう改正したかというと「関東軍防疫部」を「関東軍防疫給水部」と、他の部隊と同じような部隊名に変えた、給水を入れたというのがこの資料です。

  • スライド12
  •  スライド12は、731部隊のデータを引き継いだ米国が保管していた三種類のレポートです。A、GそれにQレポートです。これは1993年にNHKが731部隊の2時間のドキュメンタリーを放映しましたが、その製作過程で発見されたレポートです。その後しばらく行方がわからなかったのですけれども、2005年くらいになって米国議会図書館にきちんと納められていたということが分かりました。ご覧になって分かると思いますけれども、ぼろぼろです。一枚一枚プラスティックのケースに入っています。僕たちが行って見られるのは製本してあるほうです。こちらはコピーです。本物はこうして一枚一枚ケースに入っているのが20~30枚ずつ箱に入っている。オリジナルを写真に撮るといっても出してこれ以上ぼろぼろにするのはいやですから、上から写真を撮ったので光っています。AとGは人体実験のレポートです。
     これを発見したのはNHKですけれども、実際に資料漁りを行ったのは、シェルドン・ハリスというカリフォルニア州立大学ノースリッジ校の歴史の先生でした。彼の『死の工場』(柏書房・1999年)は日本語で読むことができますが、その中で、彼は自分が発見したこれらの資料について、これらは皆、関東軍軍馬防疫廠―100部隊の関係者がまとめたものだと書いている。それは何でそういうことを書くのかと考えると『死の工場』は731部隊や100部隊を取り上げていて、如何に日本は大変なことを、残酷なことをやったかということを一生懸命書いているが、100部隊についてはあまり資料がないんです。でこんな引用、流用をしたのかなあと僕は勝手に考えています。
     これらレポートは人体実験が暴露された後、1947年春に調査のため来日したノーバート・フェルという生物兵器の専門家がいます。彼は調査した結果、日本人研究者に何通かのレポートをまとめさせました。そのうち今残っているのがこの三本で、Aというのは炭素菌についての人体実験、Gというのは鼻疽菌についての人体実験についてのそれぞれレポートです。それからQ、これは人体実験ではないと思います。1940年に新京、それから農安で流行したペストについてまとめたレポートです。

  • スライド13-15
  •  フェルの調査の後、ヒルとビクターが夏以降に来日し、調査を行いました。ヒルとビクターが先ほど言った嘱託の小島三郎東大教授、細谷省吾東大教授、内野仙治京大教授などを含めて人体実験の中身を調べている。その一覧表が全部で三つ―スライド13~15あります。赤痢の嘱託2というのが小島三郎と、細谷省吾。で、小島三郎は赤痢のワクチン開発を受け持っていたのですけれども、なかなかできなかった。いろいろやったんだけれどもあれは多分部隊では人体実験でやっていたんだろうなあ、ということを米軍に対してしゃべっている。
     コレラについて135人と相当多くの人に実験をやっていますが、有効な標本は半分以下。表の軍医というのは石井四郎のような人物を言います。技師というのは、例えば先ほど吉村寿人は凍傷で有名だと言いましたけれども、彼は京都大学の講師から部隊にきたので軍人ではありません。民間人のまま731で働いていた。こういう人たちを技師と言います。それから嘱託はさっき言ったとおり。技師というのは民間人の中でも将校待遇の民間人のことをいう。
     これも基本的には同じ。ムチンというのは豚の胃腸や何かを使ったもので、これと一緒に病原体を撒くと感染力が増すとか、あるいは感染後の症状がひどくなるとかいろいろな効果を調べようと思ってこんな研究を行っている。この嘱託というのは、先ほどの京都大学の内野仙治です。でいろんなことをやってペストで人体実験したのが180人。一方新京での流行が66名で有効な標本が64です。これが先ほどのQレポートの記録です。
     孫呉熱、流行性出血熱、これは現在では腎症候性出血熱といわれていますけれども、この研究で101人の人を殺害する。結核、結核はBCGなんかもそこに入っているのではないかと思う。
     これの標本のほとんど全部が石川太刀雄丸という技師、彼は1938年部隊委に行き1943年に金沢大学医学部に移ります。移った時にハルビンから金沢大学に病理標本を持っていきます。それを元にして作られたのが、先の三本のレポートであり、ヒルとビクターのレポートで、それらから作ったのがこの表ということになる。ですから多分これ以外に人体実験をされた人としては、部隊から離れたところに安達というところがあって、そこで杭に人間を縛り付けて、真ん中に炭疽菌をまぶした破片のいっぱい入った爆弾をどかんと破裂させて負傷させて、足の怪我から炭疽菌がどうやって入って行くかという実験なんかやっていますけれども、そういう爆発実験の被害者なんかは入っていないのではないかと考えています。

  • スライド16
  •  左はA、中がG、そして右がQレポートです。AとGの被験者たちは部隊ではマルタと呼ばれていましたが、番号でしか呼ばれませんでした。それから年齢は25才とか35才とかいうのもありますが、単に若い男とか約30才とか、そういう表現もあります。
     他方Qレポート。新京でのペストの流行についての報告ですが、柱の左端の列のSの一番というのは新京の一番とか新京の二番という患者番号を意味しています。患者番号の右の列にアルファベット二文字があります。これは患者のイニシャルです。僕だったらT・KかK・Tです。それから次の列は年齢です。一番上は6才。それとかずっと、30才とかいろいろとあります。それから次に書いてあるのは男性か女性かです。その次の列は発病してから死ぬまで何日かかっているかという数字です。右端の列はペストの種類で、基本的にはほとんどGですから腺ペストばかりです。
     ここで僕が申しあげたかったのは、右側のAとかGのレポートの人体実験だと、こういう個人情報がほとんどない。イニシャルだとか、年齢でも正確な年齢は出てきません。番号と若い男とかそういう表現になっている。これから分かることは、違法・許されない人体実験の被験者は名前どころか、ほとんど全ての個人情報を剥奪されている。他方、治療の場合は、論文では実名は避けるにしろ、イニシャルや年齢、それに性別を書き、患者の特定ができるような個人情報が示されている。
     例えば新京のペストでは患者28人が出て、26人が死にますが、そのうち半分が日本人、半分が中国人。その区別はおおもとの論文の患者名簿で分かります。スライドのQレポートの表はその大元の論文を英語化したものです。被験者の名前があるかどうかが許される人体実験かどうかというときにはかなり重要な要素になるのではないか、と考えています。

  • スライド17
  •  次はスライド17です。内容は部隊員の博士論文です。博士論文のタイトルは「イヌノミペスト媒介能力ニ就テノ実験的研究」です。その下に書いてあるのは、「満州第七三一部隊(部隊長陸軍軍医中将石井四郎)陸軍軍医少佐平澤正欣(まさよし」平澤は部隊のパイロットも兼務しており、45年の夏までに戦死します。死後、9月26日付で、京都大学医学部からこの論文で博士号をもらっています。
     スライドの右側部分は、彼の「サル」を使った特殊実験を記述したページです。表の上に「イヌノミニヨルさる攻撃」と書いてあります。この表によれば、ノミ一匹使っただけでは何も起こりませんよ。もっと使うと、五匹だと一頭発病します。10匹だと二頭発病します。そういうことが書かれている。赤の下線の部分に「発病さるハ附着後六-八日ニシテ頭痛、高熱、食欲不振ヘ同時ニ局部琳派腺ノ…」と書いている。
     これ本当に猿?とクラスで学生に聞いたら「猿は訴えないでしょ」という。人間だからですよね。食欲旺盛な猿が餌を食べなくなったらこいつ何か悪いもの食ったなあ、具合が悪いなあ、食欲ないなあというのがわかる。熱があるのはわかる。赤い顔がもっと赤くなる?でも頭痛は分からない。
     「頭痛」の文字は言われないと読めないかもしれません。この二文字が「頭痛」であることを確認するまでの作業を、楽屋裏を公開します。スライドの左下に書いてありますが、日本の博士論文のかなりのものが国立国会図書館の関西館に所蔵されている。ここに書いてあるUT51-60-Q534というのが平澤の博士論文の国会図書館での請求番号です。関西館に行くといっぺんに10冊くらい見ることができます。それでなくてこれだけ見たいと思えば、東京の国会図書館に行って一週間前に頼んでおくと、一週間後にはこれを見ることができます。僕は軍医学校の防疫研究室の人たち30~40人分見たかったので関西館に行ったんですが、大量なのでコピーだけして帰ってきたんですね。これを見て、どうも「頭痛」と読めるんですけれどもコピーだとよくわかりません。ですからこれは取り寄せなきゃいかん。でやっぱりこれは「頭痛」であるということを現物で確認しています。関西館まで行かなくて東京で見られるということは本当に楽になったなあと実感しています。請求番号もネットで調べるとすぐ分かりますので、簡単に見ることができるようになった。

    ※資料閲覧関連情報は2006年講演時のものです(2021.2.14)

     ここで言いたかったのは人体実験をやっていたということではなくて、こういう、誰が見ても人体実験やっていることがはっきりしている、こんなものが堂々と博士論文として京都大学医学部に提出されたこと、そしてそれに対して京都大学医学部が博士号を出したことです。これを見てもやはり部隊での人体実験というのは、731部隊での蛮行は公然の秘密であった、ましてや京都大学では当たり前のことだったんだろう、ということがこの平澤の論文から判断できる。

  • スライド18
  •  スライド18は日本軍が行った生物兵器攻撃、今から見ると「試用」の歴史を示しています。スライドの試用より前、1939年に中国-モンゴル-ソ連の国境に近いノモンハンという所で病原体を川にまいています。その後1940年、寧波、ここは上海の対岸で昔遣唐使が乗った船が着いた港、この寧波の港に日本軍は細菌戦攻撃をかけます。それから中国中部の浙江省と江蘇省の境界、浙カンと呼ばれたところですね。その地域に1942年、大規模な作戦をやります。それからすでに見ましたが農安と新京、同じ1940年にペストが流行します。これは長いこと731部隊の生物兵器攻撃が原因ではないかと言われていた流行です。
     ある病気の流行が生物兵器の攻撃による人為的なものか、それとも自然の流行なのか、見きわめるのに疫学というのは非常に重要です。実際に今ここで疫学的な説明はしませんが、歴史的な事実については疫学的な分析をすることによって、その病気の流行が人為的な流行だったのか、或いは自然の流行だったのかをかなりはっきり見きわめることができるだろうと考えています。

  • スライド19
  •  それについてスライド19と20で具体的に説明します。スライド19の『凄惨人実的細菌戦』(残酷な人体実験的な細菌戦、1993年刊)は、著者の黄さんと歩さん、お二人から1994年8月2日寧波でいただいたものです。左にあるのが1940年の寧波でのペストの被害地図です。斜線部分が患者が出た家です。この本では1940年10月27日にペスト攻撃され、次々に患者が出て、死んでいった経過が、一人ひとりについて全員の名前と性別と、いつ発病し死亡したかが記録されています。これは極めて貴重なデータです。これは生物兵器攻撃被害についての研究としてきわめて貴重な研究だと僕は思っています。

  • スライド20
  •  スライド20の系列二は寧波の死者発生を、日にちと死者数を先の本によってグラフ化したものです。四日目に一人死んでいます。それから十日目くらいまでに30人くらい亡くなっています。
     今度は系列六。これは1928年に中国東北部、銭家店というところでペストが大流行しましたが、そのときの患者(死者)の発生状況です。その時に日本の満鉄の大連研究所の人たちが、現地で実際に死者の数を経過日数とともに調べている。これをグラフにしたのが、系列六です。流行の最初は患者(死者)が少しずつ増えていくわけです。三週間目くらい経ってかなり流行がひどくなっていって、それの後一回落ちるんですが、またピークがくる。これが一ヵ月くらい後。それで一回落ちて、またもう一回上がっていますが、これは多分実はこの間何日間かのでーたがなくて、後でまとめて入ったので特別に高くなっていると僕は思っています。ただ、ピークが二つあってそれからだんだん下がっていって二ヵ月ぐらい続いてやっと収束します。
     何で収束したのか、当時抗生物質はなくペストに有効な治療はありません。せいぜい栄養とって寝ているくらいです。何で収束したかというと、この時のペストはみんな腺ペストでした。腺ペストは、ネズミの体内にペスト菌がいて、それをノミが吸います。そしてそのノミが人間を吸うと人間が腺ペストに感染する。昔でいう満州の奥地ですから、10月にもなると寒くなってノミはあまり動かない。ですから流行が終わったのはノミが動かなくなったというだけの話。治療方法が分かったわけではありません。

  • スライド21
  •  逆に寧波の系列二。ここは上海の対岸ですが結構暖かく、ノミが動けなくなるにはまだだいぶ時間があるわけです。これ、最初にペスト菌をもったノミたちが散々活動したあと、自然環境に合わないからどんどん衰退していく。それで最初に流行のピークがきて後はずっと降下していく。一方系列六では、最初はネズミの中にペスト菌を持っているものがそんなに多くなかった。しかし一定時間が経過してから患者数がピークになるというのは、実はそれに先立ってネズミの感染が拡大していたわけです。ペスト菌をもったネズミがどんどん増えているわけです。ですからそれをノミが刺す。ということでネズミのピークに遅れて人間のペストのピークが出てくる。ネズミがいてもノミの活動が止まると鎮静化する。
     下の系列四。系列四は新京での患者の発生数です。小さいけれどピークが二つあります。さらに患者の発生がだらだら続き、最初の患者発生から50日過ぎてからも新たに患者が出ています。新京での患者発生は寧波でのパターンと比べると明らかに自然発生だと判断できます。最初に発生したところは日本人が経営する家畜病院でした。

  • スライド22
  •  スライド22は、石井機関による生物兵器の使用が虚像に終わった例です。
     石井にとって大失敗の例です。1942年の浙カン地区での話です。コンフィデンシャル(秘密あるいは部外秘)と書いてありますが、1944年12月12日付の捕虜尋問調書です。ここには中国における日本軍の細菌戦の失敗が、捕虜とした防疫部隊の兵隊(衛生兵)を尋問した結果分かった。日本軍が42年の浙カン作戦のとき生物兵器攻撃を行ったが、そのときに細菌攻撃を行った地域に日本軍が予想外に早く入り込んでしまった。それで患者が日本軍で一万人出た。非常に短期間に一万人の患者が出た。この衛生兵が南京の防疫給水部で見た文書には、1700人が死んだと書かれていたという。
     通常こういう数字、不愉快な数字は低く見積もられるのが常だから、実際にはもっといっぱい死んでいるのではなかろうかと言っているわけです。
     日本軍が浙カン作戦で各地域に大量の病原体をばら撒いた。そのことを知らないで、日本軍が進入したわけです。一万人というと師団ほとんどすべてです。師団の全員下痢や発熱に悩まされた。そのうちの1700人が死んでしまったわけです。
     こういう大失敗をした。それで生物兵器とか細菌戦について、石井の言動や部隊を含めた虚像がいっぺんに明らかになり、陸軍上層部の信頼を急速に失っていく。
     生物兵器攻撃をうまくやるためには、本来使う予定の病原体に対するワクチンがないと、病原体はまけないわけですよ。しかし石井たちが考えていたのは、攻撃する人にだけワクチンをするぐらいで、一般の兵隊たちにはワクチンを与える余裕はなかった。そういう意味で言うと生物兵器を使えるような状況には日本はなかったのではないかと思ったりもしています。

  •  ここまでが戦争中のことで、以下から戦後のことになります。ひとつだけ、補足をしておきます。それは石井の生物兵器使用の計画のその後です。1942年の浙カン作戦での失敗で「虚像」が暴露されたのですが、その後、44年になってサイパン島陥落が必至の情勢となった春先、ハルビンの731部隊から京大卒の二人の軍医大尉に率いられた20人弱の攻撃チームが病原体を持ってサイパン島に向かった。結果は大部分がサイパン島到着前に米軍の攻撃でそれぞれが乗っていた船が沈没などして、途中で戦死した。これはこの時期になると、虚像にもすがりたいという、切羽詰まった情況であったことが分かる。

  • スライド23
  •  スライド23の左側の一.~三.の記述があるのは冒頭で見ていただいた石井ノートの最後にあるページです。物理的には最後のページですけれども、どうも石井のノートの使い方からすると彼が最初ここに書き込みをしているような気がします。以下読み上げます。

    1. ペスト地 北尾雇員、小形雇員、加茂野技手ノ昇級
    2. 家族ノ採用
    3. 十二班トPxトホ号ノ一部
      及各部長ガ得ニ推奨スル人
      物ヲ審査シテ決定ス

     その内容ですが、三.の十二班というのはなんだかよく分かりません。ただの石井のノートを見ると「八月九日・十日真先ニ報告ス十二班ノ破壊」というのが出ています。それで相当に秘密性の高い、隠す必要のあるグループと予想できるので、僕はこれは人体実験を受けていた被害者たちが収容されていた監獄ではないのかなあと思っていました。Pxはペストノミのことです。人工的にノミを増やして、ペスト菌を大量に持っているネズミにくっつけて、そのネズミの血をノミが吸って、体内にペスト菌をいっぱい詰め込んだノミのことをペストノミ、Pxという暗号で部隊では言っています。ホ号というのは細菌戦、生物戦の実施のことを指しています。そうした特別な人たちを選んで決定すると書いてある。
     これを最近元部隊員の方に見て貰いましたが、自分は十二班が何かは分からないが、文脈からするとペストノミをやっていた田中班ではないか、とおっしゃっていました。
     次にスライド23の右側です。相見湾は相模湾の間違いだと思います。ここでは「帰帆船ナラバ人員器材ガ輸送デキル見込」に注目してください。人員器材とはなんだろうか。器材というのは顕微鏡のような医療機器、研究機器かもしれません。しかし人員器材となると、もう少し別の可能性を考えるべきだろうと思います。

  • スライド24
  •  スライド24は同じノートの見開きで、左側がその上段の一部です。右側がその下段です。
     「内地ヘ出来ル限リ多ク輸送スル方針 丸太―Pxを先ニス」というのは何を意味しているのでしょうか。最初これを見たときは、まず「丸太」っていうのにびっくりしたですね。丸太っていうのを部隊関係者が漢字で書いているのを見たのは初めてなんです。みんなぼかして書いているんですね。露骨に書いてあるのは初めて見ました。それは個人的な感想です。
     ここで考えたのは、この人たちは、被験者は45年8月15日以降も生きていたのか。実際に見ていくと、14日くらいにはみんな殺されているわけですね。ですけれどもここにこう書かれているわけですね。「Pxヲ先ニ」、Pxも、ペストノミもあったのか。ペストノミはだいたい試験管に入れておくと1942年までのデータで言うと二週間、17~18日もつ。大きい試験管ではなくて、直径1センチくらいの試験管に入れておくと、全滅するまでに二週間以上かかる。ですから二週間くらい輸送に時間がかかるとしてもその間生きているわけです。十二班は田中班ではないか、とおっしゃっていた方によれば、45年夏にはノミは熱と光から守ってやれば三ヶ月生存すると部隊では言われていたという。Pxというのはあっても不思議ではない。それを先に送る。というふうにこれは読めます。
     僕が不思議に思うのは右(ノートの下段)にあるこっちです。「方針 一.婦女子、病者、及ビ高度機密作業者、及ビ順次全員ハ万難ヲ排シテ内地ニ能ウ限リ速ヤカニ内地へ帰還セシム」。人間については「輸送」ではなく「帰還」と書いているんですね。
     こうした比較から、左の(上の段)記述は、被験者およびPxを先に日本へ送ろうと、と読めるわけです。被験者についてはいくらなんでも生きている人を送るとは考え難いので、人体実験のデータをできるだけもらさずに集めて送ることか、とも考えられる。そのデータには人体実験で得られた標本も含まれるかもしれない、と考えたりしています。

  • スライド25
  •  スライド25の左側には「一.六万満洲カラ 二.一ヵ月デ全滅 三.夏程ヨイヤレ …六.釜山ヨリヤレ …八.元山ヨリモ小船ナリ」とあります。何をしようとしていたのでしょう。
     スライド25の右側には「二六/八(8月26日)」と書いてあります。中身は、一.では医務局でいろいろな話が出たこと。予備役を含む復員のこと。「資材ハ附近ノ陸病(陸軍病院)ヘ」と書かれている。二.の「高山、中山 復員案」というのは多分軍医学校の中山学校というのが千葉にできるんですね。だからそこに持っていくのかなあと思います。「一部ハ東一院附(東京陸軍第一病院)ですね。その下が明日退」。次が青木さんの本ですと「研究抽出」となっているんですけど他のところに「抽出」という文字があって、その抽出とはちょっと違っていて「機密」と読めます。
     「機密」だとするとこれは実は先ほどの「丸太」という言葉に象徴される中国人やソ連の、あるいは朝鮮の人たちから取った臓器などの標本、そういうものを彼らは「丸太」と呼んでいて、そうしたものを持ち帰っており、それをどこかに始末しなければいけない、といいうのがこの辺りの話なのかなあとも思える。そうすると「東一」に置いておいたものがいよいよまずくなって厚労大臣への証言にある1947年くらいにあちこちに分散された、という話につながっていくかも知れないなあとも考えられる。つまり、研究書類であるとか、人体実験のデータであるとか、それは紙ですからこれは燃やしてしまうことができます。あるいはびりびりに破いてしまうこともできます。わざわざどこかに隠すということもないだろうと思っています。
     三.の「河辺(虎四郎)」というのは参謀次長。「梅津(美治郎)」というのは参謀総長、これは731部隊ができた時の関東軍の司令官ですね。この辺は石井の上司だったことがある人たちです。
     河辺は「犬死ヲヤメヨ」、梅津は「静カニ時ヲ待テ」。このことの意味は、一般的には阿南陸軍大臣が8月15日に割腹自殺した。クーデターをしないでくれということで彼は割腹自殺をしたんですけれども、そういう意味でことさら米軍、連合軍に対していろいろ反抗しないという意思一致があっての表現として「静かに時を待て」という言い方がありました。しかし河辺と梅津がこうしたことを8月26日になって石井に言うのは、彼がこの時になってもまだ何かを画策していたのではないか。もしハルビンから8月14日に持ち出したとすれば、ペストノミはこの頃にはまだぎりぎり生きているんですね。
     8月14日に最後の部隊が出ます。最後の部隊には一発が長さが1.5メートルほどで、中に乾燥菌、多分炭疽菌、を詰めた細菌爆弾が60発ほどつんであったという証言があります。部隊での細菌爆弾は、8月14日夕方に最後の部隊が出るまでに現地で破壊していると言われていました。しかし、60発積み込んだと証言する人は、列車で最後に逃げた人ですが、8月22日から三日間くらいかけて、釜山で、中身が入っている細菌爆弾を全部海に捨てた、とも話しています。
     8月10日か11日に東京から新京に飛んできた朝枝という参謀が石井に対して、一切の証拠を隠滅せよ、何も持って帰ってはいけない、部隊は存在しなかったことにしろみたいな大本営の命令を伝えます。しかしその命令に背いて、中身の詰まった細菌爆弾を、少なくとも釜山まで運んでいるわけです。そんなことから考えると石井は、米軍にひと泡吹かせてやろうと考えていたのではないかと思うのです。
     ただ飛行機はすでに24日には使えなくなっています。他方731部隊では、1945年9月に、夜桜特攻隊を組織して、ペストノミをみんなに持たせて、いろいろな所に部隊員を散らそうということを考えていた。夜桜隊員はペストノミをばら撒くだけではなく、自分自身をも感染源とする「特攻部隊」でした。
     飛行機が使えない状況の中での石井の攻撃は、米軍が上陸する前に上陸予定地点にペストノミをまいておく。日本人が感染するということもあるけれども、多分集落からはなれた上陸地点を考えていたと思う。しかし実際にやれば、栄養も体力もある米兵には感染は広がらず、栄養失調で疲弊していた日本人に広がっただろうか思います。石井は米軍の上陸地点を探るのに河辺を訪ねたのではないか、と思います。米軍の上陸地点の詳細は河辺が一番良く知っていたはずです。8月の21日か22日に、フィリピンから米軍の命令書を持って帰ってくるんです。彼には米軍の上陸地点はどこか、いつ上陸するなんてことは分かっていた。
     これは状況証拠ばかりで確定的なことは何もありません。ですけれども、その頃だと部隊から8月14日に持ち出したとすれば、ペストノミは未だ生きています。

  • スライド26
  •  スライド26は新妻ファイルの一部です。新妻ファイルというのは、今年(2006年)の5月末に防衛庁の防衛研究所かな、恵比寿にありますが、あそきに寄贈しました。皆からなんでそんな馬鹿なことをするんだと言われました。でも大丈夫です。新妻さんというのは敗戦時は中佐で、最後の一年間、陸軍省で科学技術行政の中心にいた方です。その仕事の一環として、広島に原爆が投下された時に仁科芳雄博士なんかと一緒に最初に広島に行った陸軍省のスタッフとなりました。広島原爆に関しても新妻さんはいろいろな文書を残していて、それは生前、広島の原爆資料館に寄贈されました。それが現在広島の原爆資料館のガラスケースの中に入って、展示されています。
     その一方で、彼は敗戦後に731部隊の事情聴取にも立ち会います。その時のメモが、新妻ファイルとして、「マッカーサー司令部連絡綴」として、ほとんど手書きですが200枚ちょっとある。そのうちの一つがスライド25の「北野中将ヘ連絡事項」です。これは1945年10月頃の書類です。北野というのは、1942年の8月に石井に代わって部隊長になります。私が彼にインタビューした時に、「着任した時はどんな感じでしたか?」と聞きました。そしたら彼は「ほら、南の方に行ったじゃない、あの部隊がちょうど帰ってきて、あわただしかったよ」と答えてくれました。彼は、はからずも浙カン作戦で、731部隊と1644部隊が合同で、その地に生物兵器攻撃を行ったことを自分から話してくれたことになります。
     連絡事項の一.に「○及『保作』ハ絶対ニ出サズ」とあります。○、これは石井四郎が書いた「丸太」のことです。保作というのは石井ノートのホ号、細菌戦作戦です。これは1945年10月段階での最重要事項だったことが分かります。それ以外に占領軍に隠したかったこととして、七・八棟、田中班、それに八木沢班があったことも分かります。それぞれについて、七・八棟は中央倉庫、田中班はペスト研究、八木沢班は自営農場であった、と説明するよう指示している。隠したかったことは、七・八棟については人体実験、田中班についてはペストノミ=攻撃的生物戦・細菌戦の研究開発、八木沢班に関しては植物に対する生物兵器攻撃の研究開発だっただろうと考えられます。
     「保研」とは、攻撃的な生物戦研究ですが、それについては自営のための研究と答え、さらに突っ込まれたら、それについては石井と増田しか知らないと、答えるよう指示している。このように答えよ、という指示から隠蔽したいことが浮かび上がってくる。こうした逆説が歴史的文書を読んでいて面白く感じるところです。

  • スライド27
  •  スライド27も新妻ファイルの一部で、増田大佐から新妻中佐への手紙です。②(スライド27の右側)には「尚、内藤中佐の意見は ㋟ と ㋭(それぞれマルで囲んである)以外は一切を積極的に開陳すべき」という書き込みがあります。内藤中佐というのは内藤良一中佐、戦後日本ブラッドバンクをつくり、そこの社長を務めます。その後ミドリ十字は吉富に吸収され、今は三菱ウェルファーマという会社になるんですが、そこを創った人です。
     増田も ㋟ という隠語を使って漢字の丸太を避けているんです。これが実態だろうと思います。
     それからもう一つは、この手紙が書かれた11月9日までに、アメリカ軍の最初の、M.サンダースによる石井機関関係の調査は終わるわけです。終わるんですが、細菌戦の研究はもっぱらワクチンのそれであったとGHQの記録にあり、得られた結果は人体実験なんてやってませんよなんていう説明に終始していた。それでサンダースはおかしいなと思い始めたのがこの頃です。11月になってから、サンダースが本国へ帰った後、さらに陸軍上層部からはどのような指示があったかを調べます。それで河辺とか若松(只一)とか、そういう陸軍省の幹部たち、参謀次長とか陸軍次官たちの尋問を追加的に行うのがこの時期です。ですからこの時期になると、増田や内藤とすれば人体実験と攻撃的生物(細菌)戦以外は全部積極的にしゃべらないとまずいんじゃないのという判断になったのだろうと思います。1946年の末までは大体こういう方針でうまくいっていました。
     防衛庁に寄贈するのは新妻さんの奥様のご意向です。それだけだと見られなくなることもあって、新妻ファイルは全部デジタル化しましてDVDになっています。それでDVDは壊れる可能性もあるのでマイクロフィルムも作ってあります。それで防衛庁にはDVDとマイクロフィルムと現物を差し上げたというか届けました。DVDは僕のところにありますので差し上げることができます。

  • スライド28
  •  スライドの28は戦後における米国が大きな役割を演じた731部隊・石井機関の虚像つくりのからくりについての話です。
     この文書はですね、入手したのはずいぶん前なんです。1988年の8月31日だったかな。その時に米国公文書館でこれをコピーした目的のひとつは、GHQの参謀二部のチャールズ・ウィロビーの直筆のサインがあることなんです。もう一つは右側のページの、そのサインの左下に同封書類と書いてあります。同封書類というのは、フェルのレポートだったんです。フェルのレポートとウィロビーのサインが欲しかったんです。
     コピーをとった後、赤で囲んであるところに何が書いてあるかというと、「フェル博士の報告書に含まれる情報は、15万円から20万円(現物給与、すなわち食糧配給を含めておよそ3000ドルから4000ドル相当)で入手できました。ほんの僅かな出費です。」と書いてある。10万円から20万円、いまのお金で言うと数千万円になると思います。そんなもんで貴重な情報を入手したというわけです。これがほんの僅かな出費かどうかは、意見が分かれるだろうが、今は立ち入らない。
     ウィロビーによるフェルの調査結果についてのこの高い評価の意味を、その後の経過も含めて考えてみたい。ポイントは赤で囲んだ部分の後にあります。そこには次のように書かれています。

     そのような支出は現在制限されています。フェル博士は彼の報告書の中で、細菌兵器研究に関する日本人からの完全な自白と共に、私たちが他の諜報目標についても等しく有用な情報を得ることができるかもしれないと述べています。私は、軍事情報開発資金の使用に関する新しい制限のために、この人達に引き続き情報を暴露するように誘導することが難しくなると申し上げます。

     この文書は、話が前後しますが、GHQの参謀二部という諜報部門の長から、S.J.チェンバリン少将という米国参謀本部の情報局長、いわばスパイの元締めですね、宛てです。つまり東京という出先のスパイの元締めから、ワシントンのスパイの元締めへの文書です。
     文書の内容は引用した通りですが、その意味は次のようなことです。スパイの経費を削減しよう、使途をもっと厳格にしよう、勝手に湯水のように使うのを止めさせよう、減らそうとしているわけです。それに対してウィロビーは、そんなに減らされてしまえば、情報作戦で我々は後れをとる。これは情報機関にとって自殺行為である。資金を潤沢に使え、いろんなものを、金品を提供することによってこのフェル博士のレポートも生まれたんだというのがこの提案です。
     話しを整理しましょう。これまで石井機関・731部隊の人体実験などのデータは戦犯免責と引き換えで米国に渡された、と言われてきました。僕もこの文書をきちんと読むまではそう思っていました。ところがこの文書を読むと戦犯免責どころか、人体実験のデータを提供した先ほどの東大の小島やなんかも含めて、彼らに身の危険は迫っておらず、逆に人体実験の資料を使って経済的利益を得ていた、ということが明らかになった。
     米国の学者にとって人体実験のデータをお金で買うというのは不思議なことでもなんでもないのだと思います。この中にも広島、長崎で被爆した方もおられるかも知れませんが、広島・長崎の原爆傷害調査委員会(ABCC)、現在は放射線影響研究所(RERF)は日米で予算を半分ずつ出し合って運営し、原爆被害者たちの健康調査をやっています。それほど大変なお金ではないですけれども、被爆者が来るたびお車代とかお弁当代とかいろいろ現実にお金を払っているんです。ですから彼らも被ばくデータをとるたびにお金を払っている。ですから人体実験のデータをとるためにお金を払うということは、米国人のセンスとしてはまったく当たり前のことで、それを731部隊でもやったのかなと、こんなことも考えたりする。
     さてウィロビーの評価、フェルの調査結果はすごいという評価ですが、フェル自身は自分が入手した人体実験のデータについて次のように考えていました。

     人体について得られた結果はいささか断片的である。それは統計的に有意義なほどの十分な数の被験者が得られなかったためだ。しかし、いくつかの病気、特に炭疽、については数年間にわたり数百人について研究が行われたようだ。人体実験のデータは、われわれおよび連合国が動物について持っているデータと対比した時、有効性が確認できるだろう。病理学的研究およびその他のヒトの病気についての情報は、炭疽、ペスト、それに鼻疽について本当に有効なワクチンを開発しようとしているわれわれにとって大いに役立つだろう。

     必ず役立つ、といった断定的なことは言っていない。人骨(ほね)鑑定の佐倉先生もそうですが、断定的なことはまずおっしゃらない。そういう可能性が高いとか、きわめて限定的な言い方をします。ですから、「役に立つだろう」という言い方は科学者特有の言い方かもしれない。少なくともウィロビーみたいに絶賛するようなことはフェルは言っていません。むしろかなり距離を置いた見方をしています。
     ウィロビーのこうした見方、情報予算を引き出すための高い評価=情報操作、が米軍の中で、731部隊についてのデータの過大評価、虚像というのができたのではないかと思う。
     その一方で、実際に最初に731部隊関係者を尋問した時は人体実験を暴露できませんでした。1946年末のソ連の通告で人体実験が暴露された後は、そのデータをお金で買い取っているわけです。米側の調査官の実力というのも内藤良一などに比べたら、たいしたことないのだろう。答えるほうは聞く方の能力に応じて答え方を変えているわけです。そういう意味で言うと石井機関で、本当のところはどのくらいのことをやっていたのかは、分からない。飽きたから止めるのだとか言ったんですが、もう少し考えないといけないかなあ、そうすると虚像をもう少し膨らませて、731部隊というのはすごいんだと言わなきゃいけないかなあと思っているところです。

  • スライド29
  •  スライド29に「右の論文は部隊の陸軍技師、吉村寿人が戦後発表した者である。生後三日の赤ん坊を実験対象としている。」と書きました。スライドの右側の英文のものがその論文です。そこにFig.2(図二)というグラフがありますが、そこで実線で示されているのが清吾三日の赤ん坊についての「実験データ」です。一ヵ月後のは太い線、細い線は六ヵ月後のものです。
     これら「実験データ」をどうやって計測するかというと、中指を水と氷が一緒になったような冷たい、塩を加えて0度では凍らないでもっと下がる溶液、それに指突っ込むわけです。どうなるか見るわけです。そうすると、指の温度が下がっていきます。そのまま下がり続けると凍ります。それは凍傷になるということです。グラフにあるように途中で温度が上昇すれば、戻れば凍傷になりません。そういう反応を見ている。生後三日の反応がこれです。
     これは1950年から52年にかけて発表された一連の論文の中で明らかにされたものです。こうした人体実験の論文が、戦後になって英文の学会誌に発表されたことの意味を押さえておきましょう。これは731部隊ならではの人体実験が、医学界では公然の秘密であって、隠すべきことではなく、共有すべき知見だった、と考えるべきなのでしょう。
     平澤のイヌノミの学位論文の場合にはまだ戦時中ということで、時代が違うということが言えたかもしれない。ところが、これは戦後ですよ。この論文が問題となった時、吉村は共同研究者の飯田さんの子供だった、と主張しました。その時すでに飯田さんは亡くなっておられた。彼の死後、そんな説明をしています。
     ある人から吉村が書いた『喜寿回顧』(1984年)という本をもらいました。本をくれた人は僕に、「この本を読むと、飯田さんの子供が生まれた時期に吉村さんも同じように子供ができている。どうして彼は自分の子供を使わなかったんだろう」と素朴な疑問を口にされた。僕は、「いやそもそも飯田さんの子供というのは嘘に決まっているじゃないですか、たぶん部隊で囚われていた女の人が子供を産み、その子供を産まれて三日で連れてきて、こういう実験をしたんでしょう」、と答えたことを覚えています。

  • スライド30
  •  スライド30の左右の写真は同じ写真です。写真の下のキャプションの変遷を見てください。最初は「鉄嶺に於けるペスト死体解剖、其二」、その下に英語で(Dissecting Victims of the Plague, Tiehling, -No.2)。そして出典として(『明治43年・44年南満洲ペスト流行誌附録写真帖』1912-3年)と続いています。出典としてあげた本は国立国会図書館と京都大学の図書館にあります。この写真はどっちかの写真帖からデジカメで撮影しました。きれいな写真を撮ろうとすると、本を壊しちゃうんですね…そういうことしちゃいけないということで、こんな風に曲がっています。曲がっていますけれども、上に日本語、下に英語の今紹介したキャプションがあります。
     この写真の上と下、つまりキャプション部分とその周りを少しずつちょんぎったのが左の写真。この上下のキャプションとその近くを切り取った写真は森村さんの『続・悪魔の飽食』に出ていましたが、その時は「マルタの運命・4 女子供を問わず、解剖された」というキャプションが付けられていた。これが現在は、「生物戦実験の被害者を解剖する731部隊の科学者」としてシェルドン・ハリス、さっき言ったNHKの番組のリサーチャーの本『死の工場』の第二版、で採用されています。これは「中日戦争の真実を追究する同盟」がシェルドン・ハリスに提供したことになっています。なお日本で読める第一版にはこの写真はありません。
     シェルドン・ハリスの写真と『悪魔の飽食』の写真は、切っているところが一緒です。キャプションがわからないようにしている。実はこのとき、1910年から12年にかけて満州で約5万人が肺ペストで死んでいる。肺ペストというのは、人から人に感染する。ノミは関係ありません。そのときは確か5万人近くが死亡。それから1920年-1年の冬にも10年後ですけど肺ペストが流行して、やはり1万人近くが死亡している。
     さてなぜ同じ写真を並べたのか。左の写真のキャプションは極悪非道な医学者の所業を指摘しています。右は、ペスト流行を食い止める、あるいはこれからペストが流行ったときにペスト制圧するためにどうしたらいいかをつかむために、感染の恐怖と闘いながら、解剖している医学者ということになります。
     同じ写真です。どっちも残酷そうです。それぞれキャプションを読んでこれら写真を見ると、左の写真の手術台・解剖台の上のヒトは、石井の言葉で言えば「丸太」なんですね。右のヒトは患者なんです。キャプションなしだと、何がなんだか分からず途方にくれてしまう。
     外見的には残酷非道でも、内実は献身的な医療活動もあれば、外見的には治療活動でも実態は非道な人体実験、というのもあるでしょう。それを外見的に区別できるのか。そんなことを言うのは、僕たちが今の日本の医療を受ける時、僕たちは右の写真の立場だと思っていますが、実態は左のキャプションの立場じゃないのと疑っているからです。
     科学の歴史をやっているのは、科学の現状に何かおかしいな、現状を肯定せずに批判したいと考えているからです。歴史をやるというのは現代に対する根底的な批判があって成り立つのではないか、と僕は考えています。日本の医療現場では多くの場合、患者がこういうマルタとしての扱いしか受けていないんじゃないかなあと思ったりする。それも石井機関・731部隊の研究を始めた動機のひとつです。
     外見的には分からない、医者の頭の中は分からない。もっとも医者の頭の中で半分くらいマルタを思わないと医者としての判断が出来ない、人間だと思ったらメスなんかふるえないと思ったりもします。

  • スライド31
  •  ここでは情報の独り歩きについて取り上げます。先のスライド30の写真もその要素が強いものです。スライド31の左は、1999年11月29日付けの朝日新聞の記事の本文です。中国の郭さんという年配の研究者が、石井機関の生物兵器攻撃で27万人が死亡と主張している、という記事です。スライドの右側は記事に付けられた二つのコメントです。最初の森さんは、「日本軍による細菌戦の歴史事実を明らかにする会」の会員です。彼は、これまでに被害者一万人の名簿を出した、とコメントしています。もうひとつは僕のコメントで、被害者は多くても千人くらいではないのか、としています。
     これの意味はどんなことかというと、ペストを中心に考えているかもしれません。ペストで27万人が確かに中国で死んでいるかもしれない。先ほど申し上げましたように、1910-11年には5万人が満洲で死んでいます。それからペスト菌の発見というのは、日清戦争の年でもある1894年、香港での流行においてです。香港での流行が日本にも来て、日本でもペストの死者が出ます。ですから中国の香港とか、満洲とか、中国はそういう意味でペストの汚染地域ですから、ペストで27万人が死んだというのは、それはそうかもしれません。ですけれども、それが全部人為的なものかどうかについては、僕は疑問に思っている。それを明らかにするのが、先ほど見たような、寧波で見たような、地道な疫学的調査です。そのデータの積み重ねで、これは人為的なもの、これはそうではない、という区分けをきちんとつけていく必要がある。さもないと、こういう過大評価、僕はこれも731部隊の虚像の一部だと思う。こうしたことがまかり通っていくのではないかと思う。

  • スライド32
  •  最後に、生物化学兵器が貧者の核兵器だというのは嘘だよと僕は言いたい。そのために用意したのがスライド32です。
     実は僕も新聞などで生物兵器というのは貧者の核兵器と言われて、誰でも勝手に持つことができて、すぐに作れて怖いですよ、なんてことを言っていました。しかしそれらの威力は原爆と比べると全然違う。
     スライド32にあるように、原爆で人を殺傷するのは三通りある。放射線で殺すことがある。それから熱線で殺すことがある。それから建物ががらがらと崩れてきて柱が当たって死んだりする。原爆は三通りで人を殺す。そのうち、放射線の強さとヒトの被害を見てみます。熱線とか爆風による被害にはいろんなケースがあるのでその強さとヒトの被害との関係を定量化することは難しい。
     広島原爆は今では原爆で一番小さなものですが、それで放射線でどれくらい人を殺すのだろうか。ある地域の放射線の濃度が一定水準を越えると、その地域の二人に一人が死ぬ。濃度が低くなれば、百人に一人くらいが死ぬことになる。
     広島原爆の場合には半径1キロの円の中が、放射線の半数致死量の濃度(100人のうち50人が死亡する濃度)だといわれている。半径1キロメートルの面積は、だいたい3.14平方キロメートルになる。
     一方サリンは、サリンというのは毒ガスの中ではかなり殺傷能力の高いものです。サリンを何十トンも弾頭の中に詰めることはしない。米軍のマニュアルなんかを読むと、通常55ガロン(230キログラム)のサリンを詰め込んだ弾頭を持ったミサイルを想定している。230キログラムのサリン弾頭が着弾したら、無風状態の場合には半径210メートルの円の外に出ろ、となっている。実際は風があるわけですが、無風状態でやると、半数致死量を超える免責というのは、0.14平方キロメートル。
     広島原爆なみの放射線だけの被害を出すためには、サリンミサイルが何発必要かは、3.14平方キロを0.14平方キロで割れば数値的には出てくる。答えは22発いることになる。これは机上の計算であって、実際にやると、風や、晴れか曇りか、日中か夜かどうか、といった不確定な要素が非常に大きく、確定的なことは言えません。しかしこれは核兵器と生物化学兵器とを比較する有効な目安だと思っています。さらにこんごの検討課題として次のことがあります。数ミクロン単位の炭疽菌を空中にまけば、いつまでの空中を漂い、大きな被害を出すことが想定される。そして現在では、数ミクロン 単位の炭疽菌を作り出すことは難しいことではなくなっている。
     ミサイルを22発いっぺんに撃ち込める国が、或いは人が貧者だろうか。あるいは多弾頭ミサイルを持ちうる国や団体は貧者だろうかということがあります。
     僕自身、そのように言っていましたが、今では「貧者の核兵器」というのは核大国の情報操作だろうと考えている。生物兵器禁止条約が1972年、それから化学兵器禁止条約が1993年に調印されます。英国がサリンガス、1940年にはもうできていたんですけれども、それよりさらに強いVXガスというのを1950年代に開発します。ところが、英国はVXガスの開発を全部米国に任せます。さらに生物兵器も化学兵器も、その開発を止めます。何故か。核兵器を持ったからです。核兵器を持った英国は、生物兵器も化学兵器も不要という判断をしました。
     生物兵器禁止条約も化学兵器禁止条約もこうした背景の下、核大国の間での話し合いで成立します。その一方で、これら二つの条約のような、兵器を持つことも、貯蔵することも、もちろん使用することも禁じた核の条約はまだできていません。生物兵器や化学兵器の禁止条約の成立は核大国の都合であり、その一方で「貧者の核兵器」という情報操作をしていると、僕は考えています。これは核大国がまき散らしている生物兵器についての虚像です。
     こういう計算をしてみて、僕自身が生物兵器は貧者の核兵器だなどと踊らされていて、情報操作に加担していたなあと反省しています。それとともに、やはり生物兵器や化学兵器禁止条約のようなきちんとした禁止条約を核についても作っていくということが必要なのだと思っています。

質疑応答
  • 主な質問は二つあったのですが、最初の質問の一は、当然講演の中で述べるべきことを僕が忘れており、質問一への答えを折り込んで、講演録を作りました。
  • さて、質問二は、
     今日人骨(ほね)は731部隊との関連で言うと、実像か虚像かといいう話をされました。先生の話を聞いたら、必ずしも731部隊との関連が分からないということなんですが、もし731でなかったら、どういうケースで人骨(ほね)が埋められたのでしょうか。
    その時の答えです。軍医学校跡地から出てきた人骨(ほね)に関連して言うと、こういう人体実験をやっていたのは石井機関だけではなかったわけです。具体的な例で言うと、例えば湯浅譲という軍医さん、彼は北京の近くの山西省で、第一師団の軍医でした。彼は数ヶ月に一回、手術演習と称して現地の人に対して外科手術の練習みたいなことをしていた。彼の『消せない記憶』(日中出版、1981年)という本の中に、中国まできた大阪大学の医学部助教授がそこで頭の脳を集めて帰って行った、ということが書かれています。
    ですからこの17年前に発見された人骨(ほね)に関しても、人骨(ほね)が象徴する野蛮行為に関わっていたのは731部隊・石井機関だけではなくて、冒頭で司会者が指摘しましたけれども、日本の軍医の中でかなり幅広く、骨を集めたり、珍しい骨を探してきたり、そういうことを行っていたのではなかろうか、と思われます。ですから逆に言うと、石井機関は決して特別ではなかった。中国のあちこちで日本軍は似たようなことをやっていた。その中で医者たちは、731部隊の異常さに気が付かなかった。むしろそういうことではないのかなというふうに考えています。
  • 質問
    • ということは、やはりその人骨(ほね)は人体実験の痕だと考えていいのでしょうか。
  • 常石
    • そうともいえないと思います。例えば、今まで日本で出会うことのなかったような、人骨(ほね)、例えば日本で手に入らないような種類の民族の方がなくなったときに、その人骨(ほね)を持ち帰る、そんなこともあったかと思います。そうしたものは実験というよりも単なる窃盗行為ということになり、必ずしも実験をした結果のものではないと思います。
  • 質問
    • 数年前だったかと思うんですけれども、疱瘡の菌ですね、ロシア辺りが菌を保管していると、世界的には疱瘡はなくなったので、もう使わないので捨てたんだけれど、確かロシア辺りがそれを保管して、将来的にまた微生物兵器としてみたいな話を聞いたことがあるんですけれども、抵抗がなくなったような日本人に密かに生物化学兵器に使うというようなことはないんですか。
  • 常石
    • 天然痘については、よく言われるんですけれども、それは何十年も前に撲滅されて、今ですと30歳以下ですと天然痘の予防接種は受けていません。僕にもここの所に痕が残っています。天然痘を撲滅した時に天然痘のウィルスを全部破棄しようという声があったんですが、一方で万が一の事を考えて保管しようというので、アメリカのアトランタとソ連のモスクワで保管することにしました。ところがその後、アトランタでは保管されていますけれども、モスクワで保管されていたものは何か理由つけて、WHOで承認を得てシベリアの研究室下に送られます。ところが1993年に、ソ連からアメリカに亡命したK・アリベックはソ連の生物化学兵器の技術部門のヘッドでした。彼が書いた『バイオハザード』(現在は『生物兵器』二見書房、1999年)という本の中で、ソ連の生物化学兵器の研究開発チームは、シベリアに移された天然痘ワクチンを使って生物兵器化しようとしていたということを暴露した。それで、ソ連に保管されていたものはきちんと保管されていなかった。保管したものは保管されているのですが、ウィルスを増やすのは簡単ですから、保管したものを元にして増やすという活動に使われたのではなかろうかというふうに考えている。アリベックが指摘しているのは、そこで研究していた人物が、自分の使っていたウィルスを持ってどこかの国へ流れていくということです。その結果として天然痘ウィルスは使われる危険があるし、使われると免疫がないからえらいことになるということが言われている。
      さきほど疫学的調査をすると流行している病気の原因が人為的なものか自然の流行歌が分かると言いましたけれども、それはかなり昔の話で、実は生物兵器禁止条約ができた1972年に遺伝子組み換えというのが発見・発明されます。そういったものを使うとさっきの場合にはノミの媒体を使うのでノミの活動が下がると流行も下がるんです。ところが1910年の肺ペストの流行では人から人へ感染するので、5万人もの死者がでたと申し上げた。ですから遺伝子組み換え技術なんかを使ってもしそんなことが簡単にはできなくても、いずれ行われるようなことになると事態は面倒なことになるだろう。兵器化される天然痘のウィルスとワクチン用は別なんです。ですから実は天然痘を撲滅したときに万が一を考えて、とっておくというのは実は本当は意味がなかった。ワクチンの専門家が今になってどうしてあのときもっと強く主張しなかったのかという反省の弁を述べてはいます。
      でもあまりこういうことを言うと、やっぱり生物・化学兵器は貧者の核兵器だと言われちゃうかなあと思うし、でも現実にはそういうところもあるということは言えるでしょう。

『究明する会ニュース』120号~123号掲載/2021.2.16Web公開

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