軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

陳述書

天野 良治

  1.  私は、大正七年一月二四日、東京都世田谷区で生まれました。

    小樽高商を繰上げ卒業して、昭和一五年一二月、近衛一連隊に入隊し、六カ月聞、幹部候補生としての教育を受けました。

    昭和一六年六月、幹部候補生として陸軍経理学校に入校しました。

    昭和一七年四月末、卒業と同時に陸軍軍医学校防疫研究室に配属されました。主計少尉でした。防疫研究室は陸軍防疫絵水部ともいいます。昭和一八年六月末まで一年ニカ月勤めました。

    その後(昭和一八年)六月末、主計中尉となり、中国の九江の兵站部付となりました。九江では、前線部隊につくことも度々あり、その際、迫撃砲で両足を負傷してしまいました。

    負傷したこともあって、昭和一九年からは新潟港を基地とする船舶兵団付となりました。昭和二〇年八月一日、大尉となりました。そして、終戦を迎えました。戦後は、特殊鋼の販売をしている商事会杜に、五五才で定年になるまで勤めました。その後、建築会社に再就職して六七才まで勤めました。現在は、年金で生活しています。

  2.  私が昭和一六年四月末から昭和一八年六月末まで配属されていた陸軍軍医学校防疫研究室のことについてお話致します。

    陸軍軍医学校防疫研究室は、陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方から指揮、命令を受けていました。図にすれぱ別紙一のとおりとなります。陸軍軍医学校防疫研究室というのが、陸軍軍医学校の指揮系統の呼び名であり、陸軍防疫給水部というのが、陸軍参謀本部の指揮系統の呼ぴ名なのです。実際、陸軍軍医学校防疫研究室(陸軍防疫給水部)の敷地の門には「防疫研究室」の看板が、事務棟の入口には「陸軍防疫給水部」の看板が掲げられていました。また、たとえば、陸軍防疫給水部(陸軍軍医学校防疫研究室)の内藤や橋本は、陸軍軍医学校の教官も兼務していました。

    私は、防疫研究室の経理部にいたわけですが、陸軍の各部隊の経理部の要員の人事権は陸軍省の経理局が持っており、各部隊を移り歩くわけです。したがって、その部隊に配属されても、経理部要員は、あくまで経理局の監督下にあり、その部隊の中では脇役的存在なので、防疫研究室のことについても分からないことが多くあります。が、分かる範囲のことについてできる限りお話したいと思います。

    防疫研究室には、一研から一七研までありました。「研」とは、簡単に言えぱ班のことで、一七の部門に分かれていました。私は、それらの班とは別の経理部に所属し、経理部六名の中では、N02の立場にありました。秋葉主計中尉(当時)が経理部の責任者で、そのほか久米、植草という方がいらっしゃったのを覚えています。

    防疫研究室には、人員が三〇〇人くらいいました。三分の一が軍人で三分の二が軍属でした。また、丁種学生(防疫給水部配属の下士官、軍曹や曹長)が防疫研究室の敷地内の兵舎に泊まっていました。

    当時、石井四郎は少将で、防疫研究室の責任者でした。「隊長」と呼ばれていました。

    経理部の要員は、前渡金管理官ともいわれ、医療器材(やぎ、馬、犬、ねずみ、のみ等の生物、研究薬品、培養缶等の細菌実験のための材料を含む。)、被服、食料などの支払等をしていました。また、物資の調達も私の任務でした。私が調達をしていた品物としては、細菌培養缶、寒天、実験用のねずみ、肉、猿等です。

  3.  次に、防疫研究室の行っていた活動について、私の分かる範囲でお話致します。

    主計をしていたので、研究内容についてはわかりません。しかし、陸軍防疫給水部(陸軍軍医学校防疫研究室)が、前線の各陸軍部隊の防疫給水部(第七三一部隊等)を指揮しており、その指揮・命令の内容が細菌戦等の攻撃面にあったこと、現地部隊ではそのための人体実験等を行っていたことは、間違いのない事実だと思います。防疫給水部は、中国で生体実験などを繰り広げた第七三一部隊などの現地部隊の総本山であり、中枢でした。防疫研究室には、事務棟(別紙二図面の①)、研究棟(別紙二図面の②)、実験用の動物舎(別紙二図面の③)、丁種学生の兵舎(別紙図面二の④)がありました。防疫研究室の敷地内には憲兵がおり、研究内容等については、外部からはわからないようになっていました。防疫研究室の方から軍医学校の敷地に行くのはほぼ自由でしたが、軍医学校側から防疫研究室の敷地に入るのは困難でした。事務棟には、石井四郎、内藤良一、井上等がいました。私は事務棟の隣の別棟の事務室にいました。

    まず、陸軍防疫給水部(陸軍軍医学校防疫研究室)が、第七三一部隊等の指揮命令をしていたことは、絶対間違いありません。陸軍防疫給水部と第七三一部隊等の現地実戦部隊とはいわば同じ部隊でした。というのは、毎日、午後三時に「命令・伝達」が発表され、人事が明らかにされていましたが、第七三一部隊等に陸軍防疫給水部(陸軍軍医学校防疫研究室)から頻繁に派遣されていましたし、第七三一部隊等から陸軍防疫給水部(陸軍軍医学校防疫研究室)に派遺されることも頻繁にあったからです。まさに、人事交流が、日常毎日のように行われていたのです。

    また、石井少将等は、第七三一部隊等に頻繁に行き来していました。第七三一部隊と第一六四四部隊には飛行場がありました。陸軍防疫給水部(陸軍軍医学校防疫研究室)から立川の基地まで車で行き、立川の基地から第七三一部隊まで直接飛行機で行っていました。立川の基地から第七三一部隊に着くまでおよそ三時間半程度かかったと思います。実際、私も、物資調達等の業務連絡のために、右の経路で第七三一部隊に三回ほど行きました。なお、陸軍防疫給水部(陸軍軍医学校防疫研究室)経理部では、第七三一部隊等で使うろ水器、ろ水管、被服等を購入していました。

    さらに、私は、内藤良一等が南方軍防疫給水部を作るためにシンガポールヘ赴任する際、陸軍防疫給水部(陸軍軍医学校防疫研究室)で出陣式をやったのを見たことがあります。そのとき、私の叔父にあたる天野小文治が技師として内藤良一とともにシンガポールに行きました。おそらく、前線の各陸軍部隊の防疫給水部の出陣式は、陸軍防疫給水部(陸軍軍医学校防疫研究室)で行われていたと思います。以上のとおり、第七三一部隊等前線の各陸軍部隊の防疫給水部は、陸軍防疫給水部(陸軍軍医学校防疫研究室)の指揮命令を受けていたと思います。

    次に、陸軍防疫給水部(陸軍軍医学校防疫研究室)が第七三一部隊等と一体となって行なっていた内容についてお話します。部内では、細菌戦や生体実験をやっていたことが公然と話され、私もそれを耳にしていました。その一つは、細菌実験です。私は、第七三一部隊等で人体実験を行っていたことを、第七三一部隊等と陸軍給水部(陸軍軍医学校防疫研究室)の間を行き来していた多くの人達から聞いています。生きた人間の凍傷実験をやったり、生きた人間の腹を割ったり、細菌を生きた人間に注射してみたりなどの事実を、何度も聞いたことがあります。たとえば第一八五五部隊から防疫給水部に戻ってきた佐藤さんから、生きた人間の腹や胸をたち割ったという話を聞いたことがあります。第七三一部隊、第一八五五部隊、第一六四四部隊の三部隊が生体実験をやっていたことは間違いありません。第七三一部隊には、生きた人間を入れる檻もあると闇いていました。当時、私は、このような話を聞いても異常とは思いませんでした。軍隊は人間の感覚をマヒさせてしまうのです。陸軍防疫給水部(陸軍軍医学校防疫研究室)は、第七三一部隊等と連係しながら細菌の実験をしていたのです。私は、研究棟の地下に入ったことがありますが、そこには細菌を培養するための缶が多数並んでいました。

    もうひとつ私が聞いていたことは、その実験の結果を実戦し、敵を攻撃することです。私は、ノモンハンでペスト菌を散布した事実を聞いたことがあります。

  4.  陸軍軍医学校跡地から百体にも及ぶ人骨(以下「本件人骨」という。)が発見されました。発見された地点は、別紙図面二の⑤です。私は、これら人骨は、陸軍軍医学校の臨床講堂(別紙図面二の⑥)の中に百体ほどあったホルマリン漬けの人体標本ではないかと思います。というのは、私は、臨床講堂の中で、瓶に入ったホルマリン漬けの人体標本を何度も見ているからです。それら標本は、頭だけのもの、足だけのもの、胸部だけのものといった具合にパラバラの状態で瓶に入っており、瓶の数は優に百を越えていたと思います。これらの人体標本は、軍医学校の学生(特に、乙種学生。乙種学生は、軍医候補であり、今で言えばインターン。)の「教材」とされていました。

    私は、それら人体標本は、陸軍軍医学校の要請を受けて、陸軍軍医学校防疫研究室(陸軍防疫給水部)で調達したものではないかと思います。つまり、「マルタ」(強制収容され、生体実験・解剖に便われた中国人捕虜)の死後体を第七三一部隊から陸軍軍医学校に運んだのではないかと思うのです。というのは当時、陸軍防疫研究室(陸軍防疫給水部)では、第七三一部隊等との間を飛行機で頻繁に往復していたので、平房から人体を運ぶことが極めて容易であり、人体標本を運んでいたのではないかと思われるからです。また、陸軍軍医学校防疫研究室(陸軍防疫給水部)の中にあった動物舎の、実験用の動物や春日部及び近在から調達していた実験用のねずみなど、陸軍軍医学校にも陸軍防疫研究室から回していたりしていたので、人体標本についても同様のことがあったのではないかと思われるからです。実際、私は、箱詰めのものが陸軍軍医学校に搬入されるのを見た記憶もあります。

    本件人骨を埋めたのが誰かはわかりませんが、人体標本をどうやって調達したかは、陸軍防疫研究室の主要メンバーは分かるはずです。なお、陸軍防疫研究室は、昭和一九年、新潟に移りましたが、新潟疎開の先導隊長は沖縄の防疫給水部の大科違夫少佐でした。その後、新潟疎開部隊の責任者は、天野少佐、内藤良一中佐になったということです。この話は、私が新潟の船舶兵団にいたことから、新潟疎開部隊にいた知り合いの崎田中尉から聞いたものです。

  5.  私は、戦争中のことは知り合いにも一切話をしませんでした。当時は、軍隊の中で感覚が麻痺していましたが、戦後になって防疫研究室のやっていたことが悪魔の所業であり、犯罪行為であることが分かったからです。しかし、一九八九年三月、高校生が平和を願って第七三一部隊のことを調ぺているという報道がテレビ朝日でなされましたが、その報道を見て、いろいろなことを知っている私がしゃぺらなければという強い気持ちに駆られました。以来、戦時中、自分が見聞きしたことを話すようになりました。

    本件人骨が第七三一部隊から運ばれたものであることは間違いないと思います。軍隊というものが、どんなに人闇の心をむしばむものか、私は身をもって体験しました。その恐ろしい記録を闇に葬ってはなりません。真相究明の道をふさぐことはあの戦争を許してしまうことです。あの戦争は二度と許されてはなりません。今、私たちの年代がそのことを語り継ぐ責任があると思います。人骨の真相究明を強く望みます。

一九九四年九月一四日

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