The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College
陳述書
k.s
一九九四年四月二日
そして、第三研究室から第六研究室は、細菌の培養を行っていました。細菌とは、ペストやコレラ等の細菌です。私自身、第三研究室に行く階段の途中でコレラ菌の入っていたアンプルが落ちているのを見つけたこともありますし(これを当時防疫研究室にいた北条圓了中佐に報告したところ、北条中佐は第三研究室の室員に厳しく叱りつけました。)、また毎日のように第三ないし第六研究室から大量のノミやマウスの入った輸送用の金属製の筒や金綱製の箱を運び出していくのを見たこともあります。これらのノミやマウスは、恐らく細菌に感染させられ、立川飛行場から中国大陸に運ばれたものと思われます。
四階屋上には見慣れない水瓶が一五個くらい木で蓋をして並べてありました。その水瓶は、みな直径が約四〇センチメートル、深さもやはり約四〇センチメートルくらいあり、おわん型をしていましたが、特微的なことは、その外側の色でした。それまで国内で見た水瓶は、みな赤茶色をしていましたが、そのとき屋上で見た水瓶は、グレーがかった黒色をしていたのです。それで、私は珍しい色の水瓶もあるものだと思い、一つの水瓶の木で出来た蓋を開けて見たのです。
そうしたところ、水瓶の中にはホルマリンに漬けられた人間の生首が三個か四個入っており、私は飛び上がらんばかりに驚いてしまいました。その生首は全て男性のもので、顔つきからするとみなアジア系の人種のものでした。生首の中には、眉間に刀傷のあるものもありましたし、また散髪途中だったのか半分だけ髪を刈られたものもありました。私は、続けてそこにあった水瓶を三つくらい開けて中を見ましたが、やはり男性の生首が三個か四個ずつホルマリンに漬けられて入っていました。
そうして二、三分くらい水瓶の中の生首を見ていたのですが、そのうちに恐ろしくなり、また上がってはいけないと言われていた四階屋上にいるところを人に見られてはいけないと思い、すぐに屋上から階下に下りました。幸い、私が四階屋上に上がって水瓶の中を覗き込んでいたことは、誰にも見られていなかったようでした。
そうして二、三分くらい水瓶の中の生首を見ていたのですが、そのうちに恐ろしくなり、また上がってはいけないと言われていた四階屋上にいるところを人に見られてはいけないと思い、すぐに屋上から階下に下りました。幸い、私が四階屋上に上がって水瓶の中を覗き込んでいたことは、誰にも見られていなかったようでした。
また、当時は水瓶の中の生首が、日木人のものか、それともそれ以外の中国人や朝鮮人などのものかはわかりませんでした。
ところが、ある日広東郊外の農村地帯を自動車で通りかかった時、私は農家の軒先に新宿の防疫研究室の四階屋上に置かれていたのと同じ形や色をした黒い水瓶が置かれ、日常の家事に使用されていることを発見し、はっとしました。つまり、束京の新宿にある防疫研究室の屋上に置かれていた水瓶、そしてその中にホルマリン漬けにされていた生首は、中国の広東から運ばれたものではないか、と思ったのです。日本ではかつて見たことのない黒い色の水瓶であったことも、それで納得することができました。
また、人骨を処理する上で一番処理しやすいのは自分の所有ないしは管理する土地に捨てることであり、他人の土地に捨てることは常識的に考えてありえないのですから、旧陸軍軍医学校跡地から多数の人骨が発見されたのなら、それは旧陸軍軍医学校の関係者が捨てた人体のものだと思います。