軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

陳述書

k.s

一九九四年四月二日

  1. 私は、一九三八年(昭和一三年)の秋ごろ、束京郁新宿区にあった旧陸軍防疫研究室の建物の四階屋上で、水瓶の中にホルマリンで漬けられた人間の生首を見たことがありますので、これからそのことについて述べます。
  2. 私は、一九〇九年(明治四二年)七月二五日今の愛媛県で生まれ、一九二六年(大正一五年)に地元の楠河農業補修学校を卒業した後、大阪に出て銀行員となり、その後親戚筋を頼って横浜に出ました。そして、一九三七年(昭和一二年)から、新宿区戸山の旧陸軍軍医学佼に併設されていた石井四郎軍医の創設した防疫研究室に軍属として勤務することになりました。
  3.  当時、防疫研究室は、第一研究室から第六研究室までに分かれており、第一研究室は、建物の外の作業場で陸軍防疫給水部の将校たちに濾水器の操作や車輌への装着などを教えていました。また第二研究室では、濾水器に入れる濾水管の開発や研究をしていました。このように第一及び第二研究室は、濾水器に関する研究・開発や研修が主たる業務であったのです。私は第一研究室に配属されていました。

    そして、第三研究室から第六研究室は、細菌の培養を行っていました。細菌とは、ペストやコレラ等の細菌です。私自身、第三研究室に行く階段の途中でコレラ菌の入っていたアンプルが落ちているのを見つけたこともありますし(これを当時防疫研究室にいた北条圓了中佐に報告したところ、北条中佐は第三研究室の室員に厳しく叱りつけました。)、また毎日のように第三ないし第六研究室から大量のノミやマウスの入った輸送用の金属製の筒や金綱製の箱を運び出していくのを見たこともあります。これらのノミやマウスは、恐らく細菌に感染させられ、立川飛行場から中国大陸に運ばれたものと思われます。

  4.  一九三八年(昭和一三年)の秋ごろのある日、私は何の気なしに防疫研究室の建物の四階屋上に一人で上ってみました。その四階屋上は、従前から北条中佐(後にドイツに渡り、ドイツ軍とともに防疫の共同研究をしたそうです。)の通達により誰も上がってはいけないとされておりましたので、私はそれまで上がったことはなかったのですが、その日は何の気なしに上がってしまったのです。

    四階屋上には見慣れない水瓶が一五個くらい木で蓋をして並べてありました。その水瓶は、みな直径が約四〇センチメートル、深さもやはり約四〇センチメートルくらいあり、おわん型をしていましたが、特微的なことは、その外側の色でした。それまで国内で見た水瓶は、みな赤茶色をしていましたが、そのとき屋上で見た水瓶は、グレーがかった黒色をしていたのです。それで、私は珍しい色の水瓶もあるものだと思い、一つの水瓶の木で出来た蓋を開けて見たのです。

    そうしたところ、水瓶の中にはホルマリンに漬けられた人間の生首が三個か四個入っており、私は飛び上がらんばかりに驚いてしまいました。その生首は全て男性のもので、顔つきからするとみなアジア系の人種のものでした。生首の中には、眉間に刀傷のあるものもありましたし、また散髪途中だったのか半分だけ髪を刈られたものもありました。私は、続けてそこにあった水瓶を三つくらい開けて中を見ましたが、やはり男性の生首が三個か四個ずつホルマリンに漬けられて入っていました。

    そうして二、三分くらい水瓶の中の生首を見ていたのですが、そのうちに恐ろしくなり、また上がってはいけないと言われていた四階屋上にいるところを人に見られてはいけないと思い、すぐに屋上から階下に下りました。幸い、私が四階屋上に上がって水瓶の中を覗き込んでいたことは、誰にも見られていなかったようでした。

    そうして二、三分くらい水瓶の中の生首を見ていたのですが、そのうちに恐ろしくなり、また上がってはいけないと言われていた四階屋上にいるところを人に見られてはいけないと思い、すぐに屋上から階下に下りました。幸い、私が四階屋上に上がって水瓶の中を覗き込んでいたことは、誰にも見られていなかったようでした。

  5.  私が四階屋上に上がったのはこのときだけです。また、屋上で水瓶の中に入っているホルマリン漬けの生首を見たことは、当時誰にも話しませんでした。なぜなら、私は上がってはいけないと言われていた屋上で、見てはいけないものを見てしまったのではないか、と思ったからです。

    また、当時は水瓶の中の生首が、日木人のものか、それともそれ以外の中国人や朝鮮人などのものかはわかりませんでした。

  6. その後、防疫研究室の建物の中では人間の生首を見たことはありませんでしたが、一度、防疫研究室に併設されていた旧陸軍軍医学校の教室から生首を板の上に乗せて運んでいるところを見たことがあります。その光景を見て、私は当時軍医学校の医学実習教育で人間の頭部を使ったのかな、と思った記憶はありますが、私自身軍医学校の教室には入ったことはなかったので定かなことは分かりませんでした。
  7.  その後、一九三九年(昭和一四年)の五月ころ、私は新宿区の防疫研究室から中国・広東にあった旧陸軍南支那派遣軍防疫給水部(波八六〇四部隊)に転勤になりました。この防疫給水部は、当時広東の東山にあった中山大学医学部に置かれており、私は、そこでも濾水器の使用方法や操作を陸軍将校に教える仕事をしていました。

    ところが、ある日広東郊外の農村地帯を自動車で通りかかった時、私は農家の軒先に新宿の防疫研究室の四階屋上に置かれていたのと同じ形や色をした黒い水瓶が置かれ、日常の家事に使用されていることを発見し、はっとしました。つまり、束京の新宿にある防疫研究室の屋上に置かれていた水瓶、そしてその中にホルマリン漬けにされていた生首は、中国の広東から運ばれたものではないか、と思ったのです。日本ではかつて見たことのない黒い色の水瓶であったことも、それで納得することができました。

  8.  こうした事実から今振り返って考えてみると、当時新宿の防疫研究室ないしは陸軍軍医学校には、中国大陸からいくつもの人間の生首がホルマリンに漬けられて運ばれてきており、軍医学校ではそれを使って医学的な実習教育や研究が行われていたのではないかと思います。

    また、人骨を処理する上で一番処理しやすいのは自分の所有ないしは管理する土地に捨てることであり、他人の土地に捨てることは常識的に考えてありえないのですから、旧陸軍軍医学校跡地から多数の人骨が発見されたのなら、それは旧陸軍軍医学校の関係者が捨てた人体のものだと思います。

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