軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

陳述書

S.Y

  1. 私は、大正五年一二月一三日に四谷区で生まれました。 昭和一二年に現役兵として入隊、一四年二一月広東省従化で負傷し、内地返還となり除隊致しました。その後、昭和一五年暮れ頃に試験を受け、防疫給水部研究室に軍属として採用されました。
  2. 私の当時の防疫給水部での仕事は、民問より納品された濾過管の性能検査です。大腸菌を用いて濾過管の細菌濾過試験をなし、一定基準により合・否の判定、及び試験に使用する大腸菌の大腸培養並びに純粋培養が主な仕事でした。
  3.  この防疫給水部での勤務のなかで、私が見聞きし、印象に残った事実を述べたいと思います。

    昭和一八、九年頃、細菌実験用のねずみが逃げて大騒動になったことがあります。

    この時上官は「猛毒な菌を持ったねずみが逃げたとの想定で演習を行う」と告げ、通常の作業が大幅に縮小されました。私はねずみ捕獲班として防疫給水部敷地内、そして二、三日後には付近の住宅地まで拡げ、トラックにねずみ捕り器具を積んで、実験用のねずみが必要なのでと説明して民家や、ゴミ箱、ドブなどに置き、回収する作業を一〇日位致しました。捕獲したねずみは病理検査班が検査をしました。消毒班は敷地内に消毒薬を散布したり、実験用動物飼育小屋一棟を鉄板で囲って焼却したり、大掛かりなものでした.幹部総動員の対策本部や上官のただならぬ表情、態度から、これが演習でないことが次第にわかりました。

    またある時防疫給水部・敷地内を散歩中に、厚い防水天幕で覆った、人の丈ほどの高さの野積みされた積載物があり、何かなと思いました。帰室してそのことを話すと、先輩に「あれはマルタが入っているので、立入禁止区域で見つかると始末書を取られるぞ」と注意されました。それ以前より、人体実験用の人体及び実験済屍体をマルタと呼ぶこと、それがハルピンから送られて来ていることは、雑談などで聞いておりました。この様なことはその時が初めてでした。

    私たち下級者には夜問の宿直割当があり、各室より当番が出て五、六人が勤務致します。この時にいろいろな話が出ます。蚤の大量発生の研究をしているが、木のオガ屑が一番成績が良いなどの話が記憶にあります。

    名前は忘れましたが、私たちの室長は石井四郎の尉官か佐官クラス時代の部下で、濾水器研究初期から完成まで働き、またハルピンでの勤務経験もある方でした。ハルピンの方では相当手ひどいことが行われているということも時折の話のなかで知ることができました。

  4.  昭和二十年の初め頃に、内地より衛生資材を送っても、海外の現地に到着せず、それは輪送船が沈んでいることが噂として耳に入り、もう負け戦だと思いました。この頃、防疫給水部内で一部秋田か山形かの方に疎開することになり、私たちは新宿駅で貨車への積み込み作業を行ったり、私たち兵役経験者は機関銃の訓練を受けて、陸軍病院の屋上に機関銃陣地を作り空襲の折りは勤務するなど、勤務が不規則でした。東京大空襲で防疫給水部が被災して後は、六、七月を最後に出勤せずにおりました。

    終戦後一一月頃、未払給料、積立金の払い戻し、在籍証明等を渡すからと通知が来ましたが、今まで勤務中に知り得た話しから、石井四郎等は戦犯になると考え、防疫給水部で働いたことを忘れたいと考え、取りに行きませんでした。また戦後、防疫給水部に勤務したことを誰にも話しませんでした。

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