佐倉鑑定の概要

 

89年に人骨が発見されてから、新宿区は厚生省(当時)に再三身元確認調査を要求したが、厚生省は調査を拒否、逆に「速やかな焼却・埋葬」を求めた。

業を煮やした新宿区長・山本克忠(故人)は、1989年9月21日、区議会本会議で、人骨鑑定を区独自で行うと約束、鑑定人の選考に入った。ところが、国立科学博物館、聖マリアンナ大学、慈恵会医科大学など、鑑定依頼は次々に断られた。

クリックすると大きくなります

暗礁に乗り上げた鑑定依頼であったが、1991年、国立科学博物館人類研究部長・佐倉朔教授が、私立大学の札幌学院大学に転職したことを機に、改めて鑑定を依頼したところ、内諾を得た。

1991年8月31日、新宿区は、佐倉教授に正式に鑑定を委託し、それから約半年間の鑑定期間を経て、翌92年3月30日、佐倉氏から新宿区に鑑定報告書が提出された。

それが「戸山人骨の鑑定報告書」。いわゆる「佐倉鑑定」である。

4月22日、新宿区は記者会見を開いてこれを一般に公表、その衝撃的な内容が明らかにされた。

究明する会では、すぐに同報告書を分析。「外国人のもので、殺人の被害者となった人のものが相当数含まれることが明らかになった」(常石敬一著『骨は告発する―佐倉鑑定を読む』より)のであり、「普通法治国家においては…その身元の確認と殺人(犯罪)の内容を明らかにするのが常識である。」(同書)と、判断した。

佐倉鑑定の要点をまとめると以下のとおりである。

@ 土中経過年数は数十年から100年以下
A 個体数は100体以上(前頭骨だけで62体)
B 性別は男性:女性=3:1、大部分が成人であるが、少なくとも一体の未成年者を含む
C モンゴロイド系の複数の人種が混在(一体だけモンゴロイドではないと思われるもの在り)
D 複数の頭骨にドリルによる穿孔、鋸断、破切などの人為的加工の痕跡(そのうちには脳外科手術の開頭術中耳炎の根治手術などに類似するものも)
E 切創、刺創、銃創の痕跡。また四肢骨の鋸断したものあり
F 一部にフォルマリン等で固定されたもの、晒し骨の乾燥標本と思われるものもあった

以上の結果は、発見された「人骨」は戦争との関係が極めて濃厚となったことを示している。それにも拘らず、新宿区(小野田隆区長)は731部隊との関連は見出せなかったとし、焼骨・埋葬の方針を固めた。

一方、厚生省は、鑑定結果が出る直前に人骨の由来調査に取り組むことを表明した。

→ 厚生省の取り組み


トップページ  鑑定報告書  添付資料

inserted by FC2 system