陸軍軍医学校跡地と軍都新宿のフィールドワーク : ご希望があればご案内します
半日(4時間以内) 5000円 / 一日(4時間以上) 10000円
(但し、少人数の場合、学生の場合、料金はご相談に応じます)

恒例 2003年度
 お花見ウォーク
軍都・新宿を訪ね、軍医学校跡地で発見された
遺骨たちに思いを馳せるフィールドワーク


3月30日(日)実施

講 師 : 川村一之さん(前新宿区議・戦争被害調査会法市民会議事務局長)

コース

JR山手線新大久保駅改札口 集合場所。駅構内階段下の壁には、2001年に酔客を助けようとして一緒に轢かれた日本人カメラマンと韓国人留学生の勇気を讃えた碑文を刻むブロンズのプレートがある。
公営社 人骨が発見されてから、厚生労働省が納骨施設に納めるまでの保管場所として利用されていた葬儀屋。新宿区内の身元不明遺体を預かる所。
国立科学博物館分館 人骨の鑑定人である佐倉朔先生のもとの職場。佐倉先生の後任の馬場悠男先生には、今もいろいろと助言をいただいている。
都立衛生研究所 化学兵器などの研究をしていた陸軍技術本部跡地に建てられた。90年代まで、当時の施設が一部残っていた
諏訪神社 ここから一望できる新宿区スポーツセンターや早大理工学部、都立戸山公園などがある山手線東側から明治通りまでの一帯には陸軍戸山ヶ原射撃場跡地があり、射撃場として利用されたかまぼこ型のドームが7つあった
学習院女子大学 陸軍近衛騎兵連隊兵舎の一部は今も現存し、校舎として利用されている
都立戸山公園箱根山地区運動広場 陸軍軍医学校防疫研究室跡地。まだ大量の人体標本が埋まっているらしい見上げると箱根山があるが、ここは23区内でもっとも標高が高いところ、士官・下士官の教育機関・陸軍戸山学校があった。構内には陸軍軍楽学校もあり、野外音楽堂の跡も残っている
遺骨保管施設 89年に人骨が見つかった国立感染症研究所(建設当時は国立予防衛生研究所)敷地内に、納骨施設を建立、02年3月に納骨された

 

コース解説

@ JR新大久保駅

 2001年1月、JR山手線新大久保駅のホームから転落した酔客を助けようと韓国人留学生、李秀賢さん(26)と横浜市のカメラマン、関根史郎さん(47)が、ホームに飛び降り、電車に轢かれて一緒に亡くなった事件がありました。その勇気を称えて、JR東日本が駅構内に「顕彰の碑」を作製、2002年2月15日、除幕式が行われました。

 碑はブロンズ製プレート(縦55センチ、横75センチ)で、新大久保駅ホーム階段下の壁に設置、日本語と韓国語で以下のように記されてます。

 

A 公営社
  大久保通りを新大久保駅から大久保駅に向かってずっと歩くと、右側に公営社という青い看板の葬儀屋があります。
  


公営社の地下室に置かれた遺骨
鑑定はここで行われた

  89年7月22日、国立予防衛生研究所建設現場で大量の人骨が発見されました。近隣の弥生式住居址の調査をしていた戸山遺跡調査会は、埋蔵文化財ではないと判断し、牛込警察署に通報しました。そこで四体が科学捜査研究所にまわされ、残りは新宿区が墓地埋葬法に則り、身元不明の遺体として区内の葬儀社・公営社に保管されることになりました。(後に科捜研にまわった人骨は5体分と判明、他の骨と一緒に公営社に預けられる。)

その後、時の新宿区長・山本忠克氏(故人)は議会で独自鑑定を約束し、紆余曲折を経て、91年9月、札幌学院大学の佐倉朔(さくらはじめ)教授(形質人類学)に鑑定を依頼しました。鑑定は公営社の地下保管室で半年かけて行われ、個体数は前頭骨だけで62体、アジア系の外国人のものが多数混在しており、銃創、刺創などもあることが分かりました。
 鑑定後、厚生省(当時)は土地管理者の責任として調査を開始し、逆に新宿区は、区長が代わっていたこともあり、人骨の焼却埋葬を主張しはじめます。92年3月30日に「戸山人骨の鑑定報告書」が完成すると(一般への公表は4月22日)、新宿区は翌年度から毎年人骨焼却予算を計上し始めました。

96年10月16日、731部隊の犠牲者遺族、敬蘭芝さんと娘さんの郭曼麗さんが、自ら起こしている国家賠償請求訴訟の原告として来日した際、新宿区役所を訪れ、遺骨の保管と身元調査を求めました。その後、公営社地下室に段ボール箱に詰められて保管されていた人骨は、14箱の桐箱に移されました。「人骨」が「遺骨」になった瞬間です。

 

B 国立科学博物館分館

 公営社の角を曲がって細い路地をくねくね西に行くと社会保険庁病院に出ます。その西側に国立科学博物館分館があります。

佐倉教授(2002.7.21) 馬場教授(1999.7.17)

 89年8月、新宿区は、区長、区議会一体となって厚生省(当時)に人骨の身元確認を迫りますが、厚生省は国立栄養研究所名で3度にわたって拒否回答をしました。これを受けて当時の山本区長は、9月21日の新宿区議会本会議で、独自鑑定に取り組むという歴史的決断を表明したわけですが、その後、新宿区が鑑定を依頼すると、学者本人に内諾を得ても館長や大学名で断られるという、奇妙なことが続きました。

究明する会でも、当時国立科学博物館人類学研究室に勤務していた形質人類学の第一人者、佐倉朔先生と接触を図ってきましたが、結局研究室を退任し札幌学院大学に移った91年まで、鑑定を待たなければならなかったという経緯がありました。

また、現在佐倉先生の後任で、現在国立科学博物館人類学部長を務めている馬場悠男先生は、99年7月17日に開催した人骨発見10周年で講演し、今後、DNA鑑定だけでなく細胞に含まれる炭素や窒素の同位体など、科学鑑定の手法が系統的に進歩すれば、発見された人骨の由来確認にも役立つ可能性があることを示唆しました。

 

C 陸軍技術本部・陸軍科学研究所

山手線西側99000mの戸山ヶ原演習場敷地内には、陸軍の各種兵器・技術の研究・開発を行う施設が建設されていました。「陸軍技術本部調査班刊行物総目録・昭和四・五年版」には「細菌戰」「化學兵器の戰術的價値」などの項目が見られます。昭和12(1937)年には科学研究所の出張所として登戸に第九研究所が設立されました。

戦後、跡地には都立衛生研究所、国立科学博物館分館、社会保険庁中央病院などが建てられました。

 

D 陸軍戸山ヶ原射撃場

 山手線東側から明治通りまでの一帯は射撃の練習に用いられました。諏訪通りを隔てて反対側の高台に存在する諏訪神社から射撃場が一望の下に見渡せ、諏訪神社境内には、「明治天皇射的砲術天覧所址」の碑が建立されています。

昭和2(1927)年から3(1928)年にかけて、長さ300メートルの鉄筋コンクリートのトンネル式射撃場7棟が造られました。これは巨大なかまぼこ型の土管のような形で、その異様な姿は人々に気味悪がられたといいます。戦後占領軍に接収され、現在は、早稲田大学理工学部、新宿スポーツセンター、都立戸山公園などになっています。

E 陸軍近衛騎兵連隊  
  諏訪通りを進んだ先にある現在の学習院女子大学や都立戸山高校近辺は旧近衛騎兵連隊跡地です。近衛兵は、宮城の守衛、儀杖、供奉などに任ずる兵で、全国から品行方正・体格良好な優秀者を選抜しました。

  学習院女子大学構内には、戦前からの桜並木が残っており、その傍らに4号館と呼ばれる2階建の赤煉瓦の建物が当時の兵舎、C館と呼ばれる平屋建が当時の炊事場・風呂場でした。→ 詳細はこちら

 

F 陸軍軍医学校防疫研究室

  1932年、陸軍軍医学校の中に防疫研究室が発足します。軍医学校の中にありながら、その中でさえ厳重に管理され、自由に行き来できない場所だったといわれています。

 そして、この防疫研究室こそが、生体人体実験を通して細菌戦の研究・開発をしていた731部隊をはじめとする防疫給水部隊と、日本の医学アカデミズムをつなぐ、ネットワークの中枢機関でした。実際、731部隊の部隊長・石井四郎は嘱託としてしょっちゅうここを出入りしていたそうです。

 現在は、この一帯は都立戸山公園箱根山地区運動公園になっており、毎日子供たちがサッカーや野球に興じています。また、最近ゲートボール場もできました。

 「新編・続悪魔の飽食」(森村誠一著)には、戦後大量の医学標本を遺棄したとあります。当時軍医学校で看護婦をしていた石井十世さんの証言から、現在この一画にある厚生労働省敷地・国立国際医療センター官舎の辺りがその場所ではないかと考えられています。
 ただし、そこに住む住民がいることを十分配慮し、興味本位で覗いたり、心霊スポットのように扱うことは慎みたいものです。

G 陸軍戸山学校・軍楽学校

運動公園から箱根山に登ると、旧市内で最も標高の高い44.6mの築山の頂上にでます。ここから眺めると眼下に戸山ハイツが広がりますが、この一帯には陸軍戸山学校がありました。

明治6年陸軍兵学寮戸山出張所が置かれ、各地の上・下士官を招集し、陸軍全体の教育を統一しました。明治7年に戸山学校と改称し、戦術、射撃、体操剣術などの教育・研究をしました。

校内には軍楽学校も併設され、野外音楽堂は箱根山のふもとのすり鉢状のくぼ地にありました。

 

H 陸軍軍医学校・人骨発見現場

昭和4(1929)年、東京第一衛戍病院の敷地内に陸軍軍医学校が開設され、軍医学生や軍陣衛生の育成・教育と研究を行っていました。前身は明治21年麹町に作られ、その第7代、第12代校長は森林太郎(森鴎外)です。

軍医学校の研究は、例えば、本部北側の軍陣衛生学教室では化学兵器の研究をしていました。因みに、その建物は最近まで残っており、国立栄養研究所が利用していました。

元731部隊軍属の篠塚良雄さんも、近くにある清源寺を宿舎として同校で教育を受けていたそうです。

 

 昭和60(1984)年、国立栄養研究所・旧国立身体障害センターの敷地を再開発し、国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)、病院管理研究所、国立栄養研究所の3研究機関を合築し、戸山研究庁舎を建設することが決定され、工事に入りました。工事中区域内から土器が発見され、弥生式住居跡ということで東京都教育委員会を中心に戸山遺跡調査会が組織され、発掘調査が行われていました。

 1989年7月22日、その近隣、当時の本部北西、標本図書室と防疫部(軍陣病理学教室)の間くらいから大量の遺骨が発見されたわけです。

納骨施設に刻まれた碑文

その後は前述のような経過を経て、2001年6月、厚生省の調査報告書が公表されました。そこで旧陸軍軍医学校の関与を認め、遺骨が発見された近くに遺骨保管施設を造って、今後の再調査の可能性を含み、現状のまま弔意をもって保管することを決定しました。

そして、2002年3月、戸山研究庁舎敷地内北側に御影石造りの立派な納骨施設が完成し、雨の中納骨式が行われました。 軍医学校の南側は陸軍第一病院でしたが、戦後は東京第一病院、国立第一病院を経て、現在は国立国際協力医療センターになっています。また軍医学校跡地には、戸山サンライズ身障者総合福祉センター、新宿区障害者福祉センター、財務局若松住宅などがあります。

 

I 陸軍第一病院と陸軍軍医学校をつなぐ地下道(歴史の隠蔽?)
 
戸山研究庁舎の前の通りを国立国際医療センターの方にしばらく行くと、新宿障害者センター、戸山サンライズ等がありますが、その向かいの医療センターの石垣に、一部埋められたような跡が残っています。戦前、陸軍第一病院(現医療センター)と陸軍軍医学校(現感染研)は地下でつながっており、その地下道の入り口であったと思われます。つい最近までブロックが積まれ突き出ていましたが、97年に埋められ、現在のようになりました。

1994.3.21

1996.4.7

1997.4.6

 

  さらにその先の財務局若松住宅に入る道端に、車止めのような石塊が見られます。ここには以前は「医校会」と記されていましたが、人骨が発見された直後、「医療センター」「駐車禁止」などと書き直されました。 → 2004年度版参照


     2004     学習院     サンデー毎日

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