軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』203号・要約

731部隊の『伝染演習』~ 加藤秀造の小説「黒死病」を読む (一)~

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・代表)

  • はじめに

    旧「満洲国」の「N県」で発生したペスト流行を背景とした加藤秀造の小説「黒死病」は『文芸東北』の1960年12月号に発表された。この小説は、元法政大学教授で文芸評論家の西田勝氏から紹介された。西田氏からの送り状には「同封の小説、731部隊による伝染演習を素材にしています。この舞台はどこか、ご教示いただければ幸いです」(2020年8月2日)とあった。

    1960年頃は731部隊の存在は一般にはまだ知られていなかった。この論考は西田氏への返答でもある。

  • 「満洲国」警察と加藤秀造

    加藤は「N県」の地理や街の概要、ペストの流行とその防疫対策などを的確に描いていた。西田氏によると、加藤は1915年生まれで、1935年末に「満洲国」のハルビンに渡り、「濱江省警務庁」の「警備隊」に職を得た。「濱江省」は1934年12月に「満洲国」政府が黒龍江省と吉林省を再編・設置した。

    小説「黒死病」は日本の「満洲国」統治形態を次のように記述している。

    「一応中国人を夫々の責任者に任命していたが、その補佐役に必ず日本人をつけてある。…実質的に日本人が支配するように考えた機構で、中国人側の人事異動も任免も日系上級官吏によって行われ」ており、「たいていの警察分駐所には日系警察官が配置されて」いるとあり、県公署にある警備電話は県内の全村に通じている、と、関係者でないと知り得ない情報も描かれている。

  • ペストが流行した「N県」

    小説「黒死病」では、新京(長春)の新聞社の記者をしている中国青年が別件の取材のために「N県」に到着すると、熱病患者が発生していて、巻き込まれていく。

    新京から列車で数時間の距離にあり、1940年にペストが流行した県という条件にあてはまるのは新京市から北西に60キロメートルほど離れた農安県である。

  • 山田清三郎の小説「明けない夜はない」

    山田清三郎の小説「明けない夜はない」(理論社 1955年)は、旧ソ連のハバロフスク裁判の公判記録をもとに731部隊の罪状を暴いた。

    この公判記録は旧ソヴィエト連邦が1949年12月にハバロフスクで行なった軍事裁判における731部隊員への審問記録を紹介したものだったが、当時は旧ソ連のプロパガンダと言われた。

    山田はこの小説に731部隊から脱走した人物を登場させ、その人物に農安で細菌撒布を行なったことを告白させている。

    山田の小説が発表される前に731部隊に関して注目を集めたのは、1952年1月27日発行の『サンデー毎日』である。

  • 「N県」における「黒死病」の発生

    小説「黒死病」は中国人青年記者が「N県」に到着した8月中旬、難民街で最初の患者が見つかる。記者の友人の事務官は「黒死病」と思われる患者を前に防疫対策に追われる。上司の日本人衛生科長は、大げさにしたくない日本人副県長に逆らって、新京の中央防疫所や、警察隊の警備電話を通じて全県下に報告、防疫の準備に着手した。新京の防疫班は来ず、代わりに、関東軍の「白井部隊」が派遣されてきた。

  • 農安におけるペスト患者の発生と流行

    実際には、1940年の農安におけるペスト流行に関しては、731部隊のペスト班責任者・高橋正彦が「昭和15年農安及新京ニ発生セル『ペスト』流行ニ就テ」(1943年)として『陸軍軍医学校防疫研究報告 第2部 第514号』に発表している。

    小説「黒死病」では新京の防疫班は来ず、関東軍の「白井部隊」が派遣されてきたとなっているが、歴史的事実は、農安におけるペスト発生時期は6月で、7月には「満洲国」の衛生保健司が防疫班を派遣し、防疫態勢をすでに取っていた。小説に「白井部隊」として登場する731部隊が農安に派遣されたのは流行のピークを過ぎた10月になってから。

  • 農安におけるペスト患者の発生と流行

    その「白井部隊」が「N県」に姿を現した情景は次のように描写される。

    「日本軍の自動車隊が、前触れもなく県城に入ってきた。…防疫班は小学校を防疫本部と患者収容所にあて、住民の検診をはじめた。憲兵は…県城内外の交通を制限した。予防注射がはじめられ、注射の証明書をもたない者は城内を歩くことも出来ない」。

    このような防疫態勢は実際には731部隊が派遣される前に行なわれていたが、新京に伝播したことによって、731部隊が派遣され、防疫態勢がより厳格に行なわれたことは、新京憲兵分隊情報係の軍曹だった岡野金吾や「満洲国」治安部警務司教育督察科長の三宅秀也らによって、中国の戦犯管理所での自筆供述書に書かれている。

  • 県衛生科と「白井部隊」の確執

    小説では「白井部隊」が腺ペストを特定し、防疫態勢を確立するに至って、県衛生科の仕事は奪われてしまった。県衛生科長が独自に発病経路の調査をした結果、患者たちは発病前に城外に旅行したことのない人たちであった。その頃、住民たちの間で、今度の「黒死病は白井部隊の謀略」らしいと囁かれ始めていた。

    実際に満洲里憲兵分隊長の藤田薫が満洲里日本領事にあてた1940年7月29日付の「通牒」によると、憲兵隊は謀略説を気にしていた。

  • 「白井部隊」の実像

    小説「黒死病」で、記者は新京からハルビンに向かう汽車の中で「白井部隊」の存在を商人から聞き及んだ。 「あの部隊の傍らに孫家屯という小さな屯子(むら)がありますがね。…、実験するために菌をばらまいたという話です。そういう特殊部隊なものだから、あの辺一帯は軍事機密地域になっていて、ソ満国境よりも厳重に警戒されているそうですよ」

    加藤は731部隊を「病原菌」を研究している特殊部隊だとつかんでいたからこそ、「白井部隊」として小説に登場させ、その実像を描いた。

    小説では、更に、県衛生科長は白井部隊に対し「殆んど防疫らしい仕事をせず、死亡した患者を解剖しては、病理の研究に腐心していた」ことを不審に思っていた。

  • 感染効果の研究

    それでは731部隊は農安でいったい何をしていたのか、高橋論文には、農安と新京で行なった業務概要が記載されている。

    「満洲国」の国務院総務庁弘報処長だった武藤富男が『私と満州国』(文芸春秋 1988年)に同じことを書いている。農安の封鎖、仮設病棟建設、全住民の診察・隔離、鼠と蚤の調査・消毒等、ペスト菌絶滅の過程について記述。一方、ペスト症の病理学的検査、予防接種の注射証の発行と所持の義務化、毒瓦斯による鼠と蚤の撲滅、ペスト菌の検索、死亡者の病理解剖などについては書かれていない。

    高橋論文を紹介した慶応大学の松村高夫は「『新京・農安ペスト流行』(1940年)と731部隊」(『三田学会雑誌 Vol.95、No.4』 2003年1月)で、731部隊は新京と農安で124体のペスト死亡者を解剖し、臓器標本を平房の本部に持ち帰り、ペスト菌を検出、58人がペスト感染で死亡したことを確認したと記述している。

    そのことは、新京での防疫業務に動員され、自身もペストに感染した731部隊の少年隊員だった鎌田信雄の証言(『細菌戦部隊』晩聲社 1996年)からも裏付けられる。

    731部隊が行なったことは「県衛生科長」が不審に思った通り、「病理の研究」にあったことがわかる。それはペスト菌という細菌兵器の効果を確かめるためであった。

  • 新京への伝播

    小説では、「白井部隊」への不審が高まっている9月、中央防疫所から、首都新京でペスト患者発見の連絡が入る。県城は封鎖状態になった。

    新京市が焼却を決定した建物には記者の住居があり、妻が住んでいた。記者は「N県」を脱出し新京に戻ろうとするが、巡察している兵隊に見つかって、再び妻に会うことができなくなる。

  • 新京におけるペスト患者の発生

    ここでもう一度、高橋正彦の論文を参照すると、新京での初発ペスト患者の発生する様相が記述されており、その場所は新京駅から東南方向に600メートルほど離れた日本人居住区で、「三角地域」と呼ばれていた。

    小説「黒死病」には「三角地域」の名こそ出てこないが、加藤はそれを知っていたと想像できる。

    731部隊は「関東軍臨時ペスト防疫隊」として1940年10月5日に新京に派遣された。高橋は同論文でその経過を語っている。

    先に紹介した「満洲国」総務庁弘報処長の武藤富男は10月9日に行なわれたペスト防疫会議で石井四郎が発言した内容を記述している。石井は、自信ありげにペストは農安から伝播したものだと言い放った。

  • ペスト発生地の家屋焼却

    小説「黒死病」にも記された「三角地域」の焼却について、弘報処長の武藤富男は実際にその場に立ち会っていた(『私と満州国』)。その記述は、鎌田の証言とほぼ同じだ。

    武藤は当時、日系官吏の宴席で流行ったとされる「ひげペストの歌」を著書に紹介している。京都市立芸術大学の日本伝統音楽研究センターに歌詞と音源がある。

  • N県城からの脱出 その1

    記者がN県城の脱出を決めたのは妻から受け取った一通の電報だった。「ペストのため、今夜八時までに避難の命令が出た、至急おいで乞う」という簡単な内容だった。

  • N県城からの脱出 その2

    小説「黒死病」は記者が「N県城」を脱出する模様を克明に描いている。

    「巡察隊が城壁の内外を警戒しているのを彼は知らなかった」「日本兵を見つけた瞬間から、彼はいつもの冷静な自分でないことに気づいていた。捕まれば、憲兵の拷問にかけられる、という恐怖心が、続いて、敵愾心が彼の平常の理性を縛りつけてしまった」。

    ここで治安部警務司の三宅秀也の供述によれば、交通の遮断は人民に対し精神的にも、生活上にも、経済上にも大なる損失を及ぼし、且検問等では身体に直接の被害を及ぼした。このような状況下で記者が「N県城」を脱出することなど不可能であった。

    三宅秀也は農安に来る前、新京の防疫対策会議に出席しており、「石井四郎軍医中将の意見に依り、偽新京のペスト防疫の完避を期するため偽農安県城をペスト病源地として、偽警察力を以て包囲し、外部との交通を完全に遮断することを決定致しました。」と供述し、奉天(瀋陽)から農安に派遣された警察隊の責任者であったことを白状している。

    三宅は「奉天省」警務庁にいた。ハルビンの警務庁にいた加藤秀造も関係者であったことは十分考えられる。なぜなら、農安から新京にペストが伝播したのであるから、松花江によって船で結ばれていたハルビンでも防疫態勢は採られていたはずである。

    三宅の供述は、石井部隊はペスト流行を利用して農安と新京を細菌作戦に備えるための実験場にしたと指摘していた。同様な思いは加藤秀造にもあったと考えられる。

(つづく)

「人骨問題と731部隊」開催

鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)

11月13日(金)午後7時、武蔵野市吉祥寺の武蔵野商工会館4階市民会議室において、標記の学習会を開催。
同学習会は、地域学習団体である「むさしの科学と戦争研究会」と、731部隊関連の裁判やパネル展示等に係る諸団体が集う緩やかな連絡会である「731ネットワーク」の共催。同ネットワークが企画する「731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会」の第2回。
今年は停滞した一年になったが、最後に他団体のお力を借りて活動ができた。

<当日の様子はTwitterからご覧になれます。(web用追記)>

Twitterアカウント開設! @jinkotsu731

2020.12.27

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