軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』201号・要約

細菌戦に手を染めた薬剤官 ― 増田美保の場合

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・代表)

  • 小説『蚤と爆弾』

    私は石井部隊(関東軍防疫給水部(七三一部隊))を知るために吉村昭の小説『蚤と爆弾』を読むことを薦めている。吉村は『戦艦武蔵』の「あとがき」で、「戦争を根強く持続させたのは、やはり無数の人間たちであったにちがいない」としていることに共感を覚えるから。

    小説『蚤と爆弾』には次のように書かれてあった。「囚人たちは、再び別館から外へ出ることはなかったが、稀に外へ連れ出される者もあった。かれらはトラックで飛行場にはこばれると、息ぬき穴のうがたれたドラム罐の中に一人ずつ詰めこまれ輸送機の中へはこびこまれる。操縦するのは操縦士免許をもつ軍医で、洋上を飛びこえて東京にむかう。囚人たちは、貴重な実験動物として陸軍軍医学校に送りとどけられていたのだ」。

    吉村はどのような情報からこのような記述をしたのか。

  • 増田薬剤官
    「空中散布試験」
  • 操縦士免許をもつ薬剤官

    『陸軍軍医学校五十年史』によると、最初の「操縦士免許をもつ軍医」は田所吉輝二等軍医(1935年)。田所は1936年11月7日に行なわれた陸軍軍医学校五十年記念祝典で、落下傘による衛生材料及び薬物投下の演技を見せている。演技者の中には二等薬剤官の増田美保もいたと推測できる。

    増田美保は前年の『軍医団雑誌』(第261号・第271号 1935年)に陸軍二等薬剤官の肩書で薬物投下に関する二編の論文を掲載している。増田は軍医ではなく薬剤官であった。石井四郎が1933年秋に「満洲」の背蔭河に創設した細菌実験施設「五常研究所」の東郷部隊名簿(背蔭河守備隊名簿)に記載されており、『軍医団雑誌』に「昭和8年9月、パラチフス患者の菌の培養基を飛行機にて持ち帰り」とある。操縦士免許を取得は田所軍医より早い。

  • 衛生材料の空中投下

    増田薬剤官は衛生材料を竹製の籠に詰めて空中から落下傘で投下する試験を繰り返した。実戦に即した試験であったと思われる。軍用機は2人乗りの八八式偵察機を使用、試験判定の結果、落下傘を使用した場合は5トン前後の重量が適当、使用しない場合は10キログラム程度が望ましいとある。

  • 衛生材料を投下用の籠に詰める(満州事変)
  • 九七式軽爆撃機
    空輸材料を九二式偵察機に搭載
    (満州事変)

    増田薬剤官は1937年3月から4か月間、熊谷飛行学校で操縦訓練を受けたのち、浜松飛行学校で爆撃訓練を行なう。彼は1936年8月に正式発足していた関東軍防疫部に属しており、1936年11月に浜松陸軍飛行学校で行なわれた「召集佐尉官第一次図上戦術想定」には「細菌攻撃法」が明記されていた。

    石井部隊が細菌戦で使用した軍用機は九七式重爆撃機と九七式軽爆撃機で、その陸軍での制式採用は1938年6月。おそらく増田薬剤官は最新鋭の同機の操縦と爆撃の訓練を受けた。

  • 増田・金子
    「低空雨下試験」
  • 低空雨下試験

    増田薬剤官には細菌戦の理論的研究を行なっていた金子順一軍医との共同研究がある。『陸軍軍医学校防疫研究報告』(第1部 第42号)に掲載された「低空雨下試験」(1940年6月7日)だ。金子にはもう一つ増田薬剤官に協力を得た「雨下撒布ノ基礎的考察」(1941年3月31日)もある。これらの論文は細菌液やペスト蚤などの粒状物を実際に空中から撒布するための試験をまとめたものである。

  • 安達実験場での人体実験

    安達実験場では中国人捕虜たちを使ったさまざまな細菌投下実験を行なった。石井部隊で車の運転をしていた運輸斑の越定男の『日の丸は紅い泪に』(教育史料出版会 1983年)には、「飛行機が超低空で飛んできて、十字の木にしばりつけられているマルタの上を、くり返し旋回する。細菌のカンが開かれ、細菌が霧状になってゆっくり降下する」とある。増田薬剤官と同じ航空班にいた倉島寿亀は、「細菌ネズミの入った細菌弾を落とした。高度による落下範囲、ネズミの生存数、感染状況などを調べていた」(「週刊金曜日」1994年11月)という。

    島村喬の『三千人の生体実験』(原書房 1967年)にも関連した記載がある。

  • 細菌戦理論

    こうした入念な準備の末に石井部隊の細菌戦は実行された。

    金子順一軍医には石井四郎が考案した細菌戦理論に基づいて、細菌戦の最大効果を研究した「PXノ効果略算法」(『陸軍軍医学校防疫研究報告』 第1部 第60号1943年12月14日)という論文がある。石井は細菌戦にあたって考慮すべき条件として、感染流行の外的条件(A:外因)、攻撃用の病原体(B:媒体)、病原体の毒力(E:病原)、攻撃目標の防疫体制(D:内因)、運用器材の整備(O:運用)の素因を変数で表す関数を導き出した。金子は、(A)の予想では、攻撃目標地区に過去の流行記録がない場合には流行が実際に発生するか判定する必要があると主張する。

    金子「PXノ効果略算法」

    航空機からペスト蚤を散布した実践例として1940年10月4日に衢県(浙江省)、同じ年の10月27日に寧波(浙江省)、1941年11月4日に常徳(湖南省)がある。金子軍医はそれぞれの地区に於ける第一次感染死亡者数と第二次流行時の死亡者数を基に流行係数をはじき出している。結論として、北米大陸を目標地区にしたPX1.0キログラムの効果は最小11人、最大11,200人と予想した。

    その根拠は、1945年6月に農安 (吉林省)などで地上にペスト蚤を撒布し、第一次感染死亡者が12人、第二次流行が2424人であった。金子は、都市内での地上撒布と航空機からの空中撒布の条件の違いを考慮せず、意識的に細菌戦の効果が絶大であることを誇示する論文に仕立てた。

    金子は、細菌戦に関する一連の論文を東京大学に提出して博士号を取得した。

  • ペスト蚤の空中撒布
    九七式軽爆撃機と増田美保

    『蚤と爆弾』で取り上げた寧波(浙江省)での細菌戦はどのように実施されたのか。

    1998年2月16日から始まった細菌戦裁判の「最終準備書面」によると、次のような経過をたどっている。

    日本の陸軍参謀本部は1940年、細菌兵器の使用を本格的に検討、6月5日に参謀本部作戦課の荒尾興功、支那派遣軍参謀の井本熊男、南京に所在した中支那防疫給水部の部隊長代理の増田知貞の間で細菌戦実施について協議。責任者は関東軍防疫部長の石井四郎、攻撃目標は浙江省の主要都市、作戦方法は飛行機による菌液とペスト蚤の撒布であった。8月には実行部隊の「奈良部隊」が臨時編成、前線基地を杭州とし、総勢120名の隊員が杭州の旧国民党中央航空学校に集結した。9月18日から10月7日までに、コレラ菌、チフス菌、ペスト菌による6回の細菌攻撃が行なわれた。

    支那派遣軍参謀の井本熊男の『業務日誌』に、10月7日、奈良部隊の増田大尉らから細菌戦実施の報告を受けたとある。増田大尉とは増田薬剤官のことである。増田薬剤官と同じ航空班にいた松本正一はこの時の模様を次のように語っている。「寧波や衢州への攻撃に使ったのは九七式軽爆撃機で2人乗り。翼の下に取り付けた容器に小麦、ノミ、フスマなどの穀物が入れてある。投下点でレバーを引くと容器が開いて自然の風圧で中のノミと穀物が吹き出す。その様子は、翼から煙が出ているようだった。これを低空からやりました。じっさいに操縦して細菌を投下したのは、増田美保中佐(当時は大尉)と平沢正欣少佐だった」。

    寧波市在住の胡賢忠は東京地裁の陳述している。本軍の飛行機が寧波の上空を低空で旋回し、霧のように麦が落ちてきた。彼は両親と姉と弟の4人がペストで失った。

    井本熊男の『業務日誌』には11月の細菌戦と結果としてのペスト流行を記している。(吉見義明/伊香俊哉『七三一部隊と天皇・陸軍中央』(岩波ブックレット 1995年))

  • GHQによる尋問

    松本正一によると、増田薬剤官は石井四郎の姪を妻にした関係で縁戚関係となり、石井部隊長専用の航空機の操縦士でもあった。青木冨貴子の『731』(新潮社 2005年8月)では、敗戦後に「石井はこの間、増田美保薬剤少佐の操縦する飛行機で飛びまわり、破壊された平房本部の写真を上空から撮影、そのフィルム現像のため大連に立ち寄った、と大連衛生試験所の目黒正彦が証言している」と記されている。

    増田薬剤官は戦後、GHQによる尋問を受けている。アーヴォ・T・トンプソン獣医中佐(トンプソン・レポート)には、生物兵器用病原体の散布方法や細菌を投下する爆弾の開発・試験について記述されている。

  • 接収文書の返還

    石井部隊は研究成果と引き換えに米国によって戦犯免責された。奈須重雄によると、増田薬剤官はGHQによる公職追放の解除後、1951年10月に警察予備隊に入隊。警察予備隊から保安隊に改組された1952年頃には保安庁技術研究所に勤め、保安衛生学会の理事に就任。1954年に自衛隊が創設され、保安庁技術研究所は防衛庁技術研究所となり、増田薬剤官(1陸佐)は企画室勤務で、「衛生関係の仕事」に従事した。1957年1月、米軍の技術研究機関の視察のため約30日間米国を訪問。米軍に接収された石井部隊関係資料の返還交渉が増田1陸佐の任務だったのではないかと奈須は推論する。増田1陸佐は『大東亜戦争陸軍衛生史』(全9巻 1970年)の編纂にも関わる。

    戦後、自衛隊の幹部になった石井部隊関係者は多い。

  • 石井四郎の死

    石井四郎は1959年10月9日、新宿区の若松町にある国立東京第一病院(現在の国立国際医療研究センター)で喉頭がんのため死去した。享年67歳。

    告別式は陸軍軍医学校に程近い月桂寺で執り行われた。葬儀委員長は陸軍軍医中将で石井部隊の第2代部隊長であった北野正次が務めた。

    晩年の石井四郎は葬儀が行なわれた月桂寺に通い、禅に深く入れ込んでいた。死の直前にはカトリックの神父に洗礼をお願いしたとも伝えられる。一方、増田美保は操縦士だった経験から航空医学の専門家として、防衛大学校教授の職を得た。

    「戦争を根強く持続させた無数の人間たち」の無反省な姿勢は戦後にも持ち越されている。薬害など医学的犯罪が後を絶たないのは、石井部隊関係者の思想は今日においても払拭できていないことの表れである。

    細菌戦を企画立案した石井四郎と中国の人々の頭上に細菌を撒布した増田美保の歴史的事実は決して消えることはない。

(2020年6月13日)

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web担当:坂本 礼奈

新型コロナと文明 何に見舞われているか 科学を操る日本政府

常石 敬一(神奈川大学名誉教授)

2020年6月19日(金)高知新聞 学芸欄

 COVID-19の問題への取り組みは世界同時ですから、明治以来の日本のやり方「追いつけ追い越せ」(実態は「追い付け追い付け」)という模倣モデルは成り立ちません。日本は独自に考え立ち向かう必要があります。それは追い付け追い越せモデルから脱却のチャンスとなると考えています。脱却に際し、向かう方向は、明治以来の富国強兵の国家の科学から人々のための科学、であってほしいと願って書きました。

七三一陳列館からの要請に応え、究明する会、資料を提供する

鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)

3月10日、電子資料を送付した。また、現物資料も、ABC企画を通して送付予定。

以下に陳列館に送った会の紹介文を記す。

  • 七三一部隊による人体実験の犠牲者かと指摘されている「人骨」の真相究明を求める

    軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

    軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会(以下、人骨の会)は常石敬一を代表に1990年に結成した。1989年に東京都内の新宿区にかつて存在した陸軍軍医学校の跡地から100体以上の人骨が発見され、人骨は七三一部隊など旧日本軍の医学犯罪に関連する犠牲者なのではないかと予見されたからだった。以後、人骨の会は人骨問題の真相究明のため30年間、地元自治体の新宿区や日本政府の厚生労働省との交渉を続けた結果、人骨は現状のまま発見現場に設置された納骨施設に保管されている。今後はさらなる真相解明と人骨の身元調査が課題となっている。

    (文責 川村)

  • 会の概要
    1. 設立

      1990年4月3日

    2. 名称

      軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会(略称 人骨の会)

    3. 役員

      代表者:川村 一之・事務局長:鳥居 靖

    4. 所在地

      日本国東京都武蔵野市

    5. 目的

      1989年に陸軍軍医学校跡地で発見された人骨問題の真相を究明し、人骨の身元を確認し、人骨を遺族に「遺骨」として返還する

    6. 人骨の会web

      人骨(ほね)は告発する http://jinkotsu731.web.fc2.com/

    7. E-mail

      jinkotsu731@yahoo.co.jp

    8. 会報

      「究明する会ニュース」

  • * 人骨問題の経過・資料目録は省略

訃報:人骨の会・初代事務局長、高橋武智さん逝く

2020年6月22日、究明する会初代事務局長で、高橋武智さんがご逝去。
2020年6月26日(金)朝日新聞
2020年6月27日(土)京都新聞 他

高橋武智さんを悼む

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・代表)

 高橋さんの活動履歴を振り返ると国際主義と歴史認識という二つのフレーズが思い浮かびます。高橋さんは自らの社会運動を通して得た経験によって、国際的な連帯と市民運動が実を結び、戦争責任意識を高めたことが人骨問題の大きな成果だと考えておられたようです。高橋さんの人骨問題へのご努力に感謝しつつ、心よりご冥福をお祈りいたします。

他の弔辞、鳥居 靖・平野 利子

(2020年6月26日)

【 備忘録 】
  1. ◆ 2020年3月26日「戸山人骨問題の解明にあたっての質問と要望」を厚生労働省大臣官房厚生科学課に提出。
  2. ◆ 人骨発見31周年集会等、イベントはすべて中止

2020.07.12

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