軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

『究明する会ニュース』200号・要約

戦場の軍医 ― 富士正晴の小説から

川村 一之(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・代表)

はじめに
大阪府の茨木市は私のふるさとである。茨木にゆかりのある作家、富士正晴と七三一部隊員で戦後、ミドリ十字会長にもなった内藤良一を紹介する。
富士正晴
富士正晴は戦後、茨木市で作家になり『競輪』『敗走』『徴用老人列伝』で芥川賞候補、『帝国軍隊に於ける学習・序』で直木賞候補となった。1913年生まれ。戦争末期の1944年に31歳で教育召集を受け丙種合格。故郷の徳島の部隊に入隊した。
富士は『帝国軍隊に於ける学習・序』(六興出版 1981年)に「前線で将校が続々と死ぬ。…学生は繰上(げ)卒業させてザックリさらえ取った。残るところは召集した補充兵の中の中等学校卒業生以上だ。営庭に集合させて准尉は幹部候補生を志願するようにすすめる。中学校卒業以上の連中の顔は准尉の憂国的熱弁に何の反応も示さぬ」と書いている。この話は私の父から聞いた話と同じだ。
『帝国軍隊に於ける学習・序』の「おぼえがき」にもある通り、富士の戦争体験小説は小説の名を借りたノンフィクションである。
『童貞』と『帝国軍隊に於ける学習・序』
以前、私は「慰安婦」を題材にした小説『童貞』(1952年1月 VIKING)を次のように紹介した。
「軍の「慰安施設」は軍上層部の開設目的とかい離し、…戦争末期には…強姦から輪姦の場へと様相が変わっていくのである。「河野談話」を巡って「強制性」か、「強制連行」か、という議論がなされているが、実際はそのような議論がむなしいような状況であった。」(『廃娼運動と「慰安婦」問題(下)』市民会議ニュースNo.159 2014年11月)
以下は1961年1月、新日本文学に発表した『帝国軍隊に於ける学習・序』の抜粋である。
「親戚の軍医を訪ねて見る。…余り暇なので、今から思ったらどうしてあんなことしたかと思うようなこともした。…ぞっとするが、やってる時は平気だった。何をしたかって? 退屈まぎらしだよ。人間の血管に空気を注入すると、その泡が頭のてっぺんで止って血液が流れず死ぬと本に書いてある。それをシナさんのゲリラの捕虜でやってみた。苦しむけど、死なんね。…それなら血をどの位放血したら人間は死ぬか、こいつで実験して見ようと…なあに、医学的意義なんかあるもんか。退屈ざましだ。…ゲリラか何か本当は判るもんか。どっかの小屋でねむっていたとこを運悪くつかまって手柄にされただけだろう。…軍医中尉はこういった。」
これが皇軍の軍医の実態であったのである。
茨木市の富士正晴記念館
『帝国陸軍に於ける学習・序』
内藤良一
茨木市の出身で軍医となり陸軍軍医学校の教官だった人間に内藤良一がいる。内藤良一は七三一部隊員として人体実験に関与し、戦後は血液製剤によって多くの被害者を出したミドリ十字の会長を務めた人物として知られている。
内藤は「私の中学、三高、京大医学部―大学院と続いた学校生活のなかでほんとうに骨身にこたえた教育を受け、母校として懐かしむのは茨木中学校である」(「懐かしきスパルタ教育」 1975年)と回想している。自信過剰の性格が文章に表れている。
その内藤は人がどの位赤血球を失うと生命の危険に至るかについて次のように考察している。
「外傷や手術で血液を失う場合、血液の10分の2乃至10分の3が急に失われるとショック状態に入って危険となる。このとき、このショックに陥る前に、血漿(赤血球を含んでいないもの)を…静脈に注入すると、ショックは全く起こら(ない。)…このような実験を反復して、全身の血液の容積がもとの量でありながら赤血球だけが減って行くようにして見ると、赤血球が最初の20%程の量になるまでは無事である。」(「輸血の進歩」1965年)
これも七三一部隊における人体実験の結果から判断された「成果」というものだろうか。
内藤はこのような研究をしながら血液学の権威となり、戦時中は乾燥人血漿の生産に携わった。
内藤は「日本でも、昭和18年から軍用乾燥血漿が製造され、戦場へ供給された(斯く申す筆者がその仕事を担当した)。戦後、アメリカでも、日本でも乾燥血漿は、安全に使われる輸血材として、臨床側で大いに重宝がられ、朝鮮戦争の頃まで、ずいぶん大量に使用された」(『輸血の進歩』 1965年アルプスシリーズ)と自身の貢献を吹聴した。ところが乾燥血漿は、売血による採血と非加熱製剤のために輸血者に肝炎ウイルスを感染させていた。
内藤は1963年に「乾燥人血漿について私のお詫び」(日本産科婦人科学会雑誌15巻11号)を載せ、「患者さんをこの乾燥血漿によって肝炎に罹らせた」ことを認めたが、決して謝罪はなかった。
内藤は戦後、「輸血後肝炎を起こす」ことになる「日本ブラッドバンク」創立に奔走し、「創立総会までの設立事務所は茨木の私の宅(老父が建てた家)」を使用したと書いている。茨木市上中条町にあった。2020年2月9日、私はそこを訪れた。2階建ての建物のシャッターには「IBARAGI MEDICAL CENTRE」と読み取れたが、もう使用されている気配はなかった。
ミドリ十字発祥の地となった内藤良一宅跡
MEDICAL CENTRE」の文字が見える
茨木市住宅地図帳(1968年)に記載された内藤宅
おわりに
私の父は1917(大正6)年生まれだから、富士正晴は4年先輩。内藤良一は11年先輩、川端康成は18年先輩になる。
昭和の初期、1930年代の前半はドイツではナチスが政権を掌握、日本も軍国主義に傾斜していく。当時の人たちは誰も戦争への道を止めることはできなかった。
ヘーゲルは『歴史哲学講義』(長谷川宏訳 岩波文庫 1994年)において「君主や政治家や民衆にむかって、歴史の経験に学ぶべきだ、と説く人はよくいますが、経験と歴史が教えてくれるのは、民衆や政府が…歴史から何かを学ぶといったことは一度たりともな」いと語っている。
それは人々がそれぞれに都合の良いように世界を解釈するから。人々は現象面にとらわれるあまり、その日々の生活に追われ、一面的な見方に終始してしまう傾向がある。歴史の本質を摑まえるためには普遍的な物差しが必要だ。
私は「仁」という一文字に帰着するのではないかと思う。
私は「君主や政治家や民衆」に道徳を説くのではない。「仁」は理想ではなく実利だから。「仁」は二人の関係を示すのであるが、それを社会関係に拡張すると、一国が自己第一主義を押し通せば、他国も自己第一主義で応酬する。あらゆる戦争はその最たるものである。戦争によって他を攻略しても、必ずその反作用で己を滅ぼす。物事の本質を摑まえるにはまず、己を客観的に見て、事象に利他的な精神が宿っているか否かを見極めることが重要であると思う。歴史の事象もまたそのようにすれば歴史における「仁」の本質を摑まえることができる。

(2020年2月13日記)

《2020年連続フィールドワーク・プレ企画》報告

鳥居 靖(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会・事務局長)

2月2日(日)、ウィズ新宿会議室にて学習会「陸軍技術研究所の全体像」開催。参加者35名。
人骨の会フィールドワークチームは、今年は陸軍技術研究所を理解するための活動を行う。そのプレ企画として、まず全体像を描いてみた。レポートの主な資料は、「陸軍技術研究所之部」*

陸軍技術研究所は、陸軍による兵器開発の中枢機関であり、その研究項目を見ると、日本陸軍の組織や兵器開発の変遷がわかる。1903(明治36)年に板橋の火薬製造所内に陸軍火薬研究所を設置。1919(大正8)年に東京砲兵工廠内に陸軍技術本部を設置し火薬研究所を陸軍科学研究所に改編。1933(昭和8)年に火薬の研究は陸軍造兵廠に移り、科学研究所は物理兵器・化学兵器を扱う。1939(昭和14)年に登戸出張所設置。1941(昭和16)年に陸軍科学研究所が廃止、9研究所体制に、翌年陸軍行政本部の下に第1~第9陸軍技術研究所体制になる。
簡単に言うと、陸軍の兵器開発は、第一次世界大戦を境に、銃砲・火砲中心の技術から、毒ガス、電磁波、戦車、飛行機など、大量破壊兵器、謀略兵器へと軸足を動かしていくのである。

*アジア歴史資料センター「陸軍技術研究所之部」

アンケート結果
省略
連続フィールドワークの今後の予定

第1回 お花見ウォーク 陸軍技術研究所から陸軍軍医学校へ
4月5日(日)JR大久保駅北口 13時出発

詳細

第2回 登戸研究所(要予約)
6月20日(土)小田急線生田駅改札口 13時出発

詳細

人骨発見31周年集会「陸軍登戸研究所と731部隊」
日 時 7月19日(日)14時~16時
 講 演 山田 朗 さん
会 場 戸山サンライズ大・中会議室

新刊・究明する会ニュース合冊・第5集
 ニュース168号~199号 2014年7月~2019年12月 頒価3000円+税

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主 催  軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

2020.3.15

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