軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

The association demanding investigationon human bones discovered from the site of the Army Medical College

「人類学の進歩と人骨問題」馬場 悠男(元国立科学博物館人類研究部長)

人骨発見23周年集会

 こんにちは、国立科学博物館を2年半前に退職した馬場でございます。私は人類学を専攻しまして、大学では佐倉朔先生の後輩です。千葉大学医学部と獨協医科大学の解剖学教室に、通算16年半いまして、戸山人骨が発見される一年前、1988年に、国立科学博物館の人類研究部に移りました。その時の直属の上司が佐倉先生でした。戸山人骨の鑑定依頼が佐倉先生にありましたが、博物館の上層部があまり好ましくないという判断をしたので、佐倉先生は鑑定するのを遠慮されました。その後、佐倉先生が私立の札幌学院大学に移られたので、遠慮することもなかろうとういことで引き受けられたという事情を、私も聞いておりました。私自身は発見された戸山人骨の鑑定に直接関わったわけではありませんが、人骨の研究には長年携わってきましたので最近の人類学の研究で人骨を調べて何がどこまでわかるか、特に20年前、30年前に比べて、最近の技術的な進歩をお話しようと思います。

 ここに4人の女性の写真がありますが、私たちは一人ですと書いてあります。実は本当の私はいちばん右の人です。この方はアメリカ人ですけど、いわゆるヨーロッパ系の人とアフリカ系の人とアメリカの先住民、元をただせば私たちアジア人ですけど、そういう人々の混血です。だから、ちょっとお化粧すれば隣の日本人にも、その隣の北欧人、その隣のアフリカ人にも化けることができます。これはつまり、私たち世界中の人種の違いというのはうわべだけであってそんなに中身は違わないということを示す啓蒙的な意図で作られたものです。それは、これからの私の話の象徴でもあります。

  • 人類学とは何か

     私たちがやっている人類学というのはヒトの個体や集団を科学的に、特に生物学的な手法で研究する学問です。その中で私が専門としています古人類学というのは、発見された人骨や化石を調べて、人骨の特徴や出自、さらに人類の進化や日本人の形成過程を解明する学問です。
     まず、人骨の形態分析から、どこにどのような人がいたということが分かります。それから、人骨あるいは周辺の資料からいつ頃の古さなのか、年代が分かります。つまりその個体がいつ生きていたのかが分かるわけですね。それぞれの個体のDNA分析から近縁関係がある程度は分かります。食性分析、これは骨に含まれる炭素や窒素の安定同位体を分析することによってどんなものを食べていたかを推測することです。といってもイワシを三匹食べたとか、そんなことまではわかりません。しかし、魚をたくさん食べていたとか米をたくさん食べていたとか、あるいは別のものを食べていたとか、そんなことが分かるようになってきたので、これは後でまたお話します。それから重金属の分析ですね。これは環境汚染の問題です。そういう分析によって、個体の所属する集団だとか暮らし方、あるいは住んでいた場所が若い時と後とで違うなんていうことも、運が良ければ分かるようになってきました。

  • 背景としての人類進化

     日本列島やその周辺で発見された人骨を研究する際には、背景として人類の進化とか、東アジア人の形成過程を理解したうえで判断しないといけないので、その辺から簡単にお話したいと思います。人類は約700万年前にアフリカで誕生し、20以上の種に分かれて進化しました。それらを猿人、原人、旧人、新人と古い時代から新しい時代に向かって大まかに分けることができます。現在は新人であるホモ・サピエンス一種しか残っていません。私たち東アジア人は、10万年から5万年ぐらい前にアフリカにいたホモ・サピエンスの子孫です。ちょっと前まで、私たちはアフリカ人だったのです。東アジア人には二つのタイプがあります。アフリカにいた祖先の特徴をわりとそのまま止めている南方系の人たちと、ものすごく寒いところの気候に適応して独特の顔立ち・体付きを持った北方系の人たちです。もちろん、大部分の人たちはその両方の混血ですね、私たち日本人もそうです。そういう大枠をまずご理解ください。

     猿人、原人、旧人、新人とだんだん変わってきたわけですが、700万年前に誕生した私たちの一番古い祖先を猿人と呼んでいます。学名ではアウストラロピテクスとかアルディピテクスとかいくつかあります。アフリカにのみ住んでいまして、ちょっと悪口言うと立ち上がったチンパンジーみたいです。つまり脚が短く顔が口の辺りで出っ張っています。頭も小さいのです。

     それに比べて200万年ぐらい前以降の人たちを原人と呼んでいます。ホモ・エレクトゥスとか、ホモ・エルガスターとか呼ばれる人々です。急に脚が長くなって背が高くなりました。顔も少し引っ込んでいます。頭も私たちの三分の二くらいの大きさになり、かなり人間らしく見えます。いわゆるホモ何とかと呼ばれます。ホモというのはラテン語で人間という意味ですから。彼らの一部はアフリカからユーラシアに拡散していくことになります。

     60万年くらい前から旧人と呼ばれます。ホモ・ハイデルベルゲンシスとか、ホモ・ネアンデルタレンシスとか、いわゆるヨーロッパのネアンデルタール人ですね。そしてまたアフリカからユーラシアに拡散していきます。もうこの頃になると我々とほとんど変わりません。体は同じですし、顔立ちもややごつかったり眉の辺りが出っ張っていたりしますが、脳の大きさは私たちと同じです。そして20万年前以降に、新人、ホモ・サピエンスが誕生しました。そして今度は、アフリカらユーラシアだけでなく世界中に拡散していきます。

     先ほどから四つの段階に分けてきましたが、実は古い時代から何種類もの人類が生まれ、枝分かれしていって、大部分は絶滅してしました。最後に私たち新人だけが残っているわけです。そして議論になっているのは猿人と原人の間のホモ・ハビリスです。これを猿人にするか原人にするか、まだ結論は出ていません。

     模式図で、時間別・地域別に見ますと、横の時間軸は700万年ぐらいです、左から右までです。そしてアフリカが上下の真中の部分、上の部分がヨーロッパ、下の部分がアジアです。そうするとアフリカで生まれた猿人が700万年から200万年前くらいずうっと進化していきました。そしてホモ・ハビリスの状態を経過して原人になっていきます。アフリカからアジアに来たのが北京原人とジャワ原人です。皆様もおなじみだと思います。昔の教科書には、私たちは北京原人の子孫だと書いてあります。それが今は違うとなっています。アフリカの原人の中から生まれた旧人がまたヨーロッパに行きました。その子孫がネアンデルタール人になりました。アフリカの旧人がアジアにやってきて、北京原人を押しのけてしまうことにもなりました。その後、20万年ぐらい前に、アフリカで新人、ホモ・サピエンスが誕生しました。彼らは、今から5、6万年前、あるいはもっと早かったかも知れませんけれども、ヨーロッパやアジアに急速に拡大していって、もともと住んでいた原人と旧人の子孫たちを押しのけて、ある意味で絶滅させてしまったということが、最近の人類学の研究でよく分かってきました。

  • 「日本人になった祖先たち」篠田謙一著(NHKブックス)
  • 猿人の女性(ルーシー)
     上野の国立科学博物館には昔の人類をこのように復元した展示があります。これは300万年前の猿人の女性ですね。小柄で身長は1メートルぐらいしかありません。脳みそは私たちの四分の一ぐらいで、状況を判断する力がないでしょうから、もしここに蘇ったとすると博物館に現れた人たちを見て、びっくりして鼻水を垂らして涙を流してという復元にしています。

    原人の子供
    トルカナボーイ
     こちらは160万年前の原人です。ケニアに住んでいた子供です。この場合はちょっとつっぱって頑張っています。本当はびっくりしていますが、「僕ちゃん負けないぞ」と言って頑張っているような状況です。9歳ですが、既に身長は160センチあります。大人になったらどれだけ高くなるのでしょうか。暑いところで長距離を走るのが得意なマラソン選手みたいですね。そんな身体の特徴が獲得されていたということです。脚が長いのは、必ずしも現代的というわけではありません。それぞれの気候や環境に適応してこんな体付きが当時からあったということです。

    ネアンデルタール人
     逆に、ずんぐりして非常に頑丈なのがヨーロッパのネアンデルタール人で、これは寒い気候に適応してこんな体つきになりました。身長165センチくらいですけれど、体重が90キロくらいありました。だけどこの人の場合には脳容積が1600ミリリットルもあって、私たちの平均より大きいくらいですね。7万年前のフランスにはこんな人がいました。そこで、彼はたぶん冷静に私たちを観察することになるだろう。そんな演出もしました。このような展示を作って、来館者に人類進化の具体的な姿をアピールすることをやっきいました。

     そして新人ホモ・サピエンスが、いわば世界制覇をするということですね。原人の時代から旧人の時代には、アフリカから出て行って、だいたいユーラシア大陸の温かいところから東南アジアくらいまでしか広がらなかった。それが、六万年前、あるいはもうちょっと前とも言われていますが、新人がアフリカから出ていくと、あっという間にアジアだけではなくてオーストラリアにも行く、アメリカ大陸にも行く、最終的には遠洋航海の技術を使って太平洋にも広がっていく。

     実は、その少し前、10万年位前から、アフリカから出ようとした新人は、イスラエルの辺りでうろちょろしていました。ユーラシアへ広がろうとしたけど広がれなかったのです。なぜなら、その付近にはネアンデルタール人が住んでいたからです。しかし、最終的にはネアンデルタール人を押しのけてヨーロッパに入っていって、そこのネアンデルタール人を絶滅させてしまいました。それから東アジアの方にもやってきました。そして日本の周辺を見てみますと、今から四万年くらい前に、最初は南の方から、それから少し遅れて北の方からもいろいろなホモ・サピエンスの集団がやってきました。そういう背景があるわけです。

  • 人種とは何か

     アフリカからヨーロッパに行った人々、アジアに行った人々は、みんな数万年の間にそれぞれの気候環境に適応して肌の色が変わったり、顔付きが変わったり、手足の長さが変わったり、いろいろことが起こりました。その結果としての人種による違いは表面的なものに過ぎないということを、生物学的な根拠から申し上げているわけです。

     ここでちょっと専門的ですけれども、お話したいのは、生物の種というのは何かということです。わたしたち人類は、数十万年あるいは百万年以上の期間、ある集団が他の集団と別れていなければ(交雑できない状態)独立した一つの種にはなりません。同じ所に住んでいては別々の種にはならないのです。一般に種が違うということは、独立した生活集団を作っていること、形が違うということ、それは解剖学的なことですね。それから試しに結婚してみても交雑できない。つまり子供がちゃんとできない、あるいはできても子供が孫を産むことができない、そういう状態があれば、別の種と見なされます。今、私たちホモ・サピエンスは一種しかいませんけど、もし、ちょっと前まで、ほかの人類種が残っていたら、交雑が可能じゃなかったのかというのが、当然問題になりますね。

     そしてさらに種を分けると亜種になります。動物の例では日本列島にずっと分布しているシカですね。これは場所によって、格好は似ていますが大きさが違います。エゾジカは170キロになりますね。リュウキュウジカはたかだか30キロくらいしかありません。しかし、同じニホンジカの亜種です。イヌはオオカミの亜種です。オオカミから、15000年位前に家畜にされて変わってしまったんです。今でもイヌとオオカミとは交雑可能です。ですから本当は別種じゃありません。人工的な亜種に過ぎない。それからサラブレッドも道産子も同じウマの亜種にしか過ぎません。人工的な品種ということです。それからラバという使役動物がいますね。乏しい餌を食べて重い荷物を背負って非常によく働きます。それは雄のロバと雌のウマの一代雑種です。だけど残念ながら子供ができません。ちなみに雌のロバと雄のウマの子供は家畜としてはあまりよくないそうで、実際には作られません。

     人種というのは、ホモ・サピエンスという種の地域的な集団、亜種だと考えることができます。歴史的な経過のある分け方では、ニグロイド、モンゴロイド、コーカソイド、あるいは肌の色から黒色人種、黄色人種、白色人種と言いますけれども、こういう分け方をすると人種差別につながりかねないので、私たちはできるだけ地域に基づいて、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人、あるいはアフリカ系、アジア系、ヨーロッパ系というような言い方をいたします。

  • 左からアフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人、オーストラリア人
  • 人種についてもうちょっとお話しますと、ニグロイドのニグロというのはもともとラテン語で黒いという意味で肌の色が黒いということです。ただし、ニグロとかニガーとか言ったら非常に強い侮蔑の意味になりますので、特にアメリカではこの言葉は絶対使わないでください、殺されても文句は言えないということになります。ただブラックとかホワイトという言葉はあまり問題にならないようですね。

     コーカソイドというのは、コーカサス山脈の辺りがヨーロッパ人の起源という認識から来ています。本当はそうではないのですが、ヨーロッパの人種を研究している学者がかつてそう考えたことがあってコーカソイドといわれるのです。コーカサス山脈は、黒海とカスピ海の間、今でいうとグルジアとロシアの境の辺りです。

     モンゴロイドはご存知ですよね、モンゴル帝国のモンゴル。ヨーロッパの研究者がアジア人の典型的な例としてモンゴルの人を考えたわけです。これも実はある特殊な病気(蒙古症、ダウン症)のことを指す名前としても使われたことがありますので、あまり使わない方がいいと思います。そしてこの三つ、アフリカ人、ヨーロッパ人、アジア人ですね。これが大きな人種区分です。

     それ以外に四つ分けるとすると、オーストラリアの先住民、アボリジンですね。三つに分けるとすると彼らはアジア人に含まれます。だけどパッと見では、肌の色が黒くて手足も細長いのでアフリカ人に似ています。彼らは実はアフリカを数万年前に私たちの祖先と一緒に旅立って、そのままオーストラリアまで突っ走っていって、そこで昔のアフリカにいた当時の姿をそのまま止めている人々なのです。アフリカを私たちの祖先と一緒に旅立ったという意味では、アジア人と、もともと近い集団です。だけど、その後、私たちが随分変わったのですね。彼らはあまり変わらなかった。もともとアフリカを出た時には一緒のグループだったので、大きなくくりでは、特に遺伝学的な分析をするとアジア人に一番近いということになります。

     顔形もいろいろ違います。ヨーロッパ人は顔が割と小さめで鼻と額が出っ張っていて、それに比べて頬と口が引っ込んでいますね。我々アジア人はだいたい顔が大きくて平らですね。アフリカ人は口が前の方に出っ張っています。オーストラリアの人たちは独特の風貌をしています。つまり数万年前の風貌を止めているのでしょう。

     もう一つ人種と並んで民族という概念がありますね。これは文化的な概念で、自分自身がどういう集団に属したいかという帰属意識、これによって分かれるわけです。ですから肌の色がどうだとか、顔形がどうだとか、そういう肉体的な特徴とは本来は関係がないわけです。生まれ育った集団に対して帰属意識を持つことですので、言語集団にかなり近いわけです。私たち日本人は、アジア人という人種に属し、その中でも特に東アジア人の集団です。もちろん別の人種の方が少し住んでいますが、そのことは別です。

     ただ、日本人には3つの民族があります。まず、本土日本人、いわゆる普通の日本人ですね。それからアイヌの人たち、そして琉球の人たちです。つまり、日本人は人種的には単一ですが、民族的には単一ではないと、これが日本人の形成、日本人の起源を考える上で重要ということになります。アメリカの場合には多人種で多民族ですね。ちなみにユダヤ人というのは、ユダヤ教を信じる、ユダヤ教に対して帰属意識を持っている人たちでしょう。ですから人種的には極めて多様です。

  • 祖先の人類種は混血したか

     最新技術の紹介として、ネアンデルタール人と私たちサピエンスが別種かどうかの問題を紹介しましょう。ネアンデルタール人の化石からミトコンドリアDNAを抽出して私たちと比べると、ネアンデルタール人のDNAは私たちのDNAとはずいぶん違います。ですから、ネアンデルタール人は私たちとは交雑していなかったか、あるいは、交雑しても極めてわずかだろうということが、2年ほど前まで言われていました。

     ところが、つい最近、そうでないことが分かりました。ネアンデルタール人はもともとヨーロッパに住んでいたのですが、後の時代になると中央アジアからシベリア南部、アルタイ山脈の辺りまで広がっていました。アルタイ山脈で見つかった4万年間の人骨のかけらが、形態的にはネアンデルタール人なのかホモ・サピエンスなのかわからなかったのですが、その骨のミトコンドリアを調べたら、ネアンデルタール人の骨だと分かりました。それが2年ぐらい前の話です。

     その後ヨーロッパで見つかったネアンデルタール人の骨の細胞核のDNAが調べられました。細胞核の中にあるDNA、これは実際に私たちの顔形だとか能力だとかいろんなものを実際に司っているDNAですね。このDNAの塩基配列を全部調べたら、私たちアジア人とヨーロッパ人だけ、ネアンデルタール人のDNAと共通する部分があることが分かりました。つまり、私たちが数万年前にネアンデルタール人と交雑していたことが分かったのです。だけど、今アフリカにいる人たち(サハラ砂漠より南の方の人たち)は、ネアンデルタール人と交雑したことがないということが、ここ一年くらいでわかりました。

     ネアンデルタール人と私たちホモ・サピエンスは少なくとも50万年ぐらい前に分かれていました。つまり、私たちの祖先がまだアフリカにいたときに、ネアンデルタール人の祖先はヨーロッパに行きました。それ以後は、交渉がなかったのですが、数万年前に私たちの祖先がアフリカを出た時に、西アジアにいたネアンデルタール人と部分的に交雑したということが分かりました。ですから、50万年ぐらい経っていても完全に別種にはなっていなかったのです。ネアンデルタール人もサピエンスと変わらない能力を持っていたんだろうと、勝手に思っちゃいますね。遺伝学的な技術の進歩というのは、ほかにもいろいろあります。

     これは最初に見せた人類進化の概念図で、50万年間にヨーロッパに行ったネアンデルタール人がアジアにまで広がり、その後サピエンスと混血したということです。原人たちの子孫の一部も混血したことがあったらしいということまで最近いろいろ分かってきました、というのが前半の話で、後半は、今回の「人骨問題」に関連して、同じ東アジアのいくつかの集団をどのように判別するか、ということになります。

     一般的に言えば、比較的近縁な集団を鑑別するのは非常に難しいです。これは佐倉先生の鑑定書にも書いてあります。判別しようとする集団の比較資料が充実していて、たくさんある場合には、判別の可能性が高まります。つまり参考となるような人骨が、それぞれの地域にたくさんあるというような場合ですね。それから見つかった骨の個体数が非常に多くて保存状態がよければ、ある程度は可能だと思います。しかし、戸山人骨の場合は残念ながら個体数もそう多くなく保存状態もあまりよくありません。それから遺伝的な特徴に関しては、ある集団に特に多いとか、他の集団ではものすごく稀だとかという特徴も最近たくさんわかってきました。そういう遺伝的特徴が目的とする人骨の中に見つかれば、判別が可能ということになります。しかし、稀な遺伝的特徴が見つかるのは、偶然の要素も多分にあるので、簡単にはいかないということになります。

  • 日本人集団の形成史から考える

     そこで東アジア人あるいは日本人の集団形成史を理解することになります。その中で、問題の人骨を考えてみるということになります。まず、現状の分析です。アジア人の顔形を比較してみます。皆さんご存知のように、東南アジアの人は立体的な顔をしていますね。いわゆる濃い顔をしています。フィリピンとかインドネシアの人を考えていただくと典型的です。それに比べて北東アジア、北の方のアジアの人は、目鼻立ちが目立たず、のっぺりとして、濃い顔ではありませんね、立体的ではなくて平らな顔をしています。目も一重で細い人が多いですね。南の人は目が二重で立体的でいわゆる濃い顔をしています。日本人には両方のタイプがあるということはお気付きだと思います。本土日本人というのは両方の中間から北のアジア人に近いようです。

     この写真は10年ぐらい前の私の顔の写真で、隣は私の頭の骨です。と言っても本当に骨を出したら死んじゃいますから、これは15年ぐらい前にCTスキャンで撮ってそのデータで合成したプラスチックの模型です。ですから、私の骨と寸分違わず、まあ一ミリくらいの誤差でちゃんとできています。こんな顔の骨なんですね、私。ですから、私は、表面だけでなく骨も調べてみると、どっちかというと北の方に近いんですね、いかがでしょうか。

     これは3000年前の縄文人の骨です。彼らは南の方のアジア人の系統を引いているので、こんな顔立ちをしています。これは2000年前の弥生人の骨です。この人たちは北の方からやってきたという話を後でします。これはアイヌの人たちです。アイヌの人たちの顔というのは、まさしく非常に濃い立体的な顔です。ヨーロッパ人に間違えられる人もいらっしゃいます。ですから、実は北の方に住むアイヌの人たちが、顔の特徴から言うと南の方の人たちに似ている。そして同じような感じの人が、琉球人、沖縄の人にもいらっしゃいます。どうしてこんなことが起きているのか。本来なら南の方に住んでいるはずのアイヌの人たちが北の方に住んでいる。琉球の人たちの場合はいいかもしれませんが、少なくともアイヌの人たちはおかしいなということになります。それを考えてみようというのです。

     先ほどお話したように、サピエンスが四万年ぐらい前にアフリカから日本列島にやってきました。彼らはアフリカにいた人たちの特徴を止めていますので、わりと立体的な濃い顔をしていました。こういう顔をそのまま受け継いでいるのが、日本の旧石器時代の人たちであり、その子孫である縄文人であるわけですね。こういう顔立ちというのは、日本人とかアジア人というよりも、ある意味で世界中の人たちの平均の顔にも近いのです。濃い立体的な顔ですね。それから手足の特徴を見ても、彼らは身長のわりに手足の先の方が長く、手足がすんなりとしています。こういう特徴も、アフリカの人たちが特にそうですね。マラソンとか100メートルの選手を見てもみんな手足の先の方が長いですね。ただし、お尻のところはしっかりしている。そう特徴は走るのに都合がいいのです。また、暑いところに適しています。暑いアフリカで平原を走り回るような、そういう特徴を持った人たちが、日本列島にやってきて住み着いたということになります。

     その後、一部の人々が、シベリアの方に入っていきました。35000千年ぐらい前ですね。そしてものすごく寒いところで二万年ほど暮らしたために、顔形とか手足が変わってしまいました。簡単にいうと、手足の先の方が短い、顔が平らになる、目も細くなる、そのような特別なことが起きました。彼らを北方アジア人と呼んでいます。彼らはマンモスやトナカイを獲っていました。いわゆる採集・狩猟ですね、ハンターです。だけど、一万年ぐらい前から気候が変わり、暖かくなってきました。その結果、獲物が少なくなったのでしょう。そこで、北方アジア人が南の方に拡大してきて、中国人(漢民族)になりました。この拡大現象は今でも続いています。中国の人たちはベトナムやタイの辺りにもたくさんいます。あの辺には、むしろフィリピンやインドネシアの人々のような立体的で濃い顔をした人たちが住んでいたのですが、最近ではもともと北方アジア人だった中国系の人たちがどんどん拡大してきました。

     北方アジア人たちも、初めはマンモスやトナカイなどの狩りをしていたのですが、中国の北部にやって来た時に、粟や高粱、稗などをつくる農耕技術があってそれを獲得しました。さらに6000年ぐらい前というとご存知の方も多いでしょう、揚子江の辺りで稲作の技術が発展してきますね、水田の稲作です。それがどんどん北の方にも技術的に広がっていきます。彼らは、そういう技術も吸収して、つまり狩猟民族だった人々が農耕技術を獲得したうえで、今から2700年前ぐらい前から日本列島に入ってくるようになりました。進んだ金属器の文化も持っていました。それが弥生時代の幕開けということになるわけです。彼らの文化が持ち込まれて縄文文化と融合してできたのが弥生文化ということになるわけです。

     もともと日本列島には縄文人がずうっと住んでいました。北の北海道から南の沖縄までです。そして、ちょうど長い日本列島の真ん中、西日本に北方アジア系の人々が入ってくるということになります。そしてどんどん人口を増していくわけです。その結果、本土日本人と言われる私たちの大部分は北方アジア人の影響を受けてこのような顔形になりました。そして縄文人の影響というか遺伝子をそのまま受け継いだのがアイヌの人たちです。そして両者をおよそ半々に受け継いだのが琉球の人たちです。そんなことが、人骨の研究、最近ではDNAの研究でも分かってきました。つまり、日本には三つの民族集団が住んでいるということがきちんと認識されています。特に最近ではご存知でしょう、アイヌの人たちが先住民であるということが国会で決議されました。アイヌの人々の権利の見直し、あるいは、人骨の返還なども検討されようになりました。このような日本列島およびその周辺の東アジア全体での集団移動、その結果として今どこにどのような人々が住んでいるか、そういう背景をベースにして考えていこうということになります。

  • 北方アジア人の形成

     本論に入る前に、ちょっとだけ。北方アジア人がどうして特有の体つき・顔立ちになったかということを話しましょう。マイナス50度にもなるところでトナカイを獲るような生活をするためには完全に密封された衣服、縫い合わせた衣服が必要です。もちろん布はありませんから、毛皮ですね。それをつくる技術というのは、35000年ぐらい前に「縫い針」が発明されて初めてできるようになりました。その頃後期旧石器時代の「石刃技法」、石の刃と書いて「セキジン」と読みます。少ない石材からでも非常にうまい方法で両方に刃がある細長く薄い剥片を取り出します。それをまた加工して、それぞれナイフにしたり、ノミにしたり、キリにしたり、カンナにしたり、いろいろな道具を作って、例えば角を加工してヤジリにしたりモリにしたり、あるいは縫い針をつくります。ちょうど爪楊枝ぐらいの感じですね。これで毛皮を縫い合わせて密閉した服を作ります。手袋も靴も何でも作りました。もちろんソリの技術も開拓しました。こういうものがあって初めてマイナス50度の中でも生活できるようになりました。

     でも、そういう技術が開発されただけでは駄目なのです。ものすごく寒いところでうまく暮らすためには、熱の放散をできるだけ防がなくてはいけません。そのためには手足の先が短い方がいいですね。それから、例えばジョディ・フォスターとかクリント・イーストウッドみたいに細長くて、狭くて高いと凍傷になっちゃいますから、鼻は低い方がいいんです。あまり寒いと目玉も凍っちゃう恐れがあります。そこで瞼に皮下脂肪をためて細い目にするわけです。それが一重まぶたの起源なのですね。できるだけ凍傷にならない、熱の発散を防ぐために胴長短足でずんぐりだとか、低い鼻、一重瞼の細い目になりました。それから上顎洞、よく蓄膿症になっちゃう所ですね、ここに隙間がありますが、空気を暖めるために大きくなりました。それで顔が平らで幅が広くなったのです。それから、耳たぶが小さくなりました。これも耳たぶぐらいなら凍傷になってもいいようなものですが、どういうわけか実際に北方アジア人は耳たぶが小さい傾向があります。さらに毛が少なくなりました。これはどうしてかというと、うんと寒い所では吐く息が毛にくっついて氷柱になり。それで凍傷になります。髭とか眉毛とか睫毛は少ない方がいいのです。でも頭髪だけはさすがに変わらない。しかし、髭や眉毛の濃さは体毛とだいたい連動しますので、体毛も少なくなりました。

     それから、頬骨と顎と歯が大きく頑丈になりました。それは凍った肉をそのままガリガリ食べちゃうからです。それだけではなくて、衣服をつくるためには皮をなめさなきゃいけません。トナカイの皮はそのまま乾くとべニア板みたいになります。大きな和太鼓の革、ご存知ですよね。あれは牛の皮そのものですけど、ものすごく硬いですね。あれでは服になりませんから、生皮を口の中に入れてしっかり噛むのです、裏側を。噛んで、肉の柔らかい成分が出てきたら飲み込んじゃいます。栄養になっちゃいます。そうすると皮の繊維だけ残ります。そういう作業をするのに一体どれだけ顎と歯を使うか想像してみてください。父ちゃんが一生懸命狩りに行って帰ってきます。帰ってくると服の革はどっちみちなめし方が完全ではありませんから、ガバガバになっちゃいますね。それで母ちゃんは夜鍋仕事でもう一回噛んで柔らかくして、「父ちゃん、狩りに行って頑張ってまたトナカイを獲ってきてね」、ということになる。そうすると、ごつい顎と歯をしている人のほうが子供をたくさん残せることになりますね。あるいは手足が短くてわりと大柄な、どっちかというと相撲取りみたいな人がいいのかも知れません。そういう人が子供をたくさん残せるので、そういう特徴を持った遺伝子が増えていって、北方アジア人の独特の顔立ち・体付きが生まれました。

  • 再び日本人集団の形成史を考える

     さて、話をもとに戻しまして日本人の起源・形成を考えましょう。この二人は国立科学博物館で「縄文VS弥生」という展覧会をやったときにイメージ・キャンペーンガールに選んだお嬢さんです。私たちの祖先の縄文人たちはアフリカからやってきたホモ・サピエンスの本来の特徴を保ちながら現代化していったと言えます。ですから顔もある程度は華奢になります。歯も小さくなります。そして、こういう縄文人の顔になります。一方、シベリアで非常に寒い所にいた人たちというのは、かなり顔がごつく平らになり一重まぶたの弥生人の顔になります。さすがに一重まぶたで顔がごついモデルさんってなかなかいないで、そういう人の特徴を持ったまま進化するとこういう顔になるだろうというモデルさんを選びました。顔の違いというのは、実はそれぞれかなり前に独自の環境に適応した結果だということを示したくてこんな比較をしています。現代なら堀北真紀さんと片岡鶴太郎さんがいわば縄文の顔で、立体的ではっきりした二重瞼の顔ですよね。森三中の大島さんや笑福亭鶴瓶さんの顔はいわば弥生の北方アジアの顔だろうということになるわけです。

     日本人全体で見ますと、弥生系の顔の人が全体としては多いですね。だけどタレントさんで人気があるのは、今縄文系の顔です。ですからタレントさんの中で弥生系の顔を探すのはかなり難しいです。だけど一般人の中では弥生系の方が多いし、我々が親しみを持てるのは弥生系の方ですよね、温かみを感じて。縄文系は魅力があるけれど、ひょっとしたら怖い感じを受けるかも知れません。でも、見かけはそうですけどどっちかというと性格的には縄文系というか南方系の人はわりとゆるいというか穏やかなようです。例えば私はインドネシアによく調査に行きますが、彼らはゆるいです。沖縄の人たちもわりとゆるいですね、いろんな意味で。それに比べると北方系の人たちはいろんな意味でかなり鋭かったり厳しかったり、ある意味で頑張り屋さん、そういう感じがします。そうじゃないと暮らしていけないのでしょうね、北の方では。

     ということで復習しますと、もともとの旧石器時代人、アフリカからやってきたような人たち、これは台湾の先住民ですけど、それがそのままの形で進化してきたのが縄文人であり、日本人のいわば基層集団をなしていました。その系統をほぼそのまま引いているのがアイヌの人です。ですからこのアイヌの人もちょっと見るとヨーロッパ人みたいですよね。こういう顔形。それに対して一度シベリアのものすごく寒い所で、独特の顔になった、平らで頬骨が出っ張って顎がごつい、目が一重、そういう人たちが日本列島に後で入ってきて、基層集団の上に被さるように表層集団として分布しました。ですから平安貴族の絵巻物の顔というのは北方アジア人の顔でしょう。引目鉤鼻ですよね。つい最近まで、日本的だと言ってもてはやされていました。こうい

     同じようなことを、国立科学博物館の篠田さんや山梨大学にいる安達(登)さんは、ミトコンドリアDNAから研究しています。弥生時代や縄文時代の人骨からDNAを抽出するのです。弥生の系統にはミトコンドリアDNAのハプロタイプの中ではDやCが多くて、縄文の系統で多いN9bやM7aが少ないんですね。そして弥生人のDNAは現代の中国人や本土日本人に似ています。そして縄文人のDNAは、特にN9bとM7aが多いというのは、今の沖縄人と似ています。それがまさしく先ほどから申し上げた日本人集団の形成ストーリーとちょうど合致します。もうちょっと詳しくやってみますと、中国の山東省、遼寧省、それから朝鮮半島の人と本土日本人は、Dのハプロタイプが非常に多いです。もちろん沖縄にもDの人が多いですが、それ以外に沖縄人は先ほど縄文人に多いといいましたN9bとM7aが多いですね。中国、朝鮮半島、それから本土日本人では、M7aとN9bがかなり少ない。本土日本人ではM7aは大雑把に言って10人に一人ですね。沖縄に行くと3人に一人くらいいます。ちなみに、私も篠田さんに調べてもらったらM7aでした。本土にいる私がその点で縄文に似ているというのは、個人的には嬉しい感じがします。

  • 「日本人になった祖先たち」篠田謙一著(NHKブックス)
  • 徳川将軍親族遺骨の研究における最新技術

     さて、これからお話するのは、この10年、20年で人骨を扱う技術がどう進歩してきたかを示す例です。私は古い人骨を扱うことが多いのですが、新しい人骨も扱います。それは徳川将軍の親族の遺骨です。2008年に上野の寛永寺でお墓の改葬がありました。寛永寺墓地の徳川将軍のお墓は改葬されなかったのですが、ちょっと北の谷中墓地に徳川家御裏方霊廟と言われている正室、側室、生母、お子様の50人ぐらいが埋葬されているお墓があります。25基にまとめられていますが、それらが改葬され寛永寺霊園に再埋葬されました。その遺骨を四年間お預かりして詳細に研究し、今年の三月に膨大な報告書が吉川弘文館から出版されました。A3版で1000ページを超える、値段は157,000円という無茶苦茶な豪華本です。全体としては考古学や歴史学の研究が多く、私たち人類学の部分はそのうちの四分の一くらいですかね、全部で400ページほどを書きました。もちろん私一人だけではないですよ。私自身は骨の形態学的研究ですけれども、他の研究もいろいろしました。それをこれからお目にかけます。何がどうわかったか、ですね。

     まず、国立科学博物館の篠田さんがやったミトコンドリアDNAのハプロタイプです。つまりミトコンドリアDNAがどういうタイプかです。実際にはそのうちの保存が良かった15遺体のDNAが分かりました。もちろん正室も側室もお子様もいらっしゃいます。この中に将軍様の母親が4体いらっしゃいます。ミトコンドリアDNAというのは母親から子供に伝わりますから、母親のミトコンドリアDNAのタイプが分かったということは、その子供である将軍のミトコンドリアDNAのタイプが分かったということで、これは今回が初めてのことですね。やはり全体としてみますとBとDのタイプが多いです。他のタイプも少しずつありますが、特に変わったことはありません。

     この将軍様の親族たちというのは、ある意味で非常に特殊な人々です。正室は京都の貴族出身ですね。側室になる方も、少しは庶民もいらっしゃいますが、大部分はわりと身分の高い方が何らかの縁があって大奥にきて、将軍に認められて側室になった、そういう方々です。しかし、ミトコンドリアDNAのタイプから行く、いわゆる本土日本人、普通の日本人の中から無作為に選ばれている集団であるということがこれでわかりました。

     もう一つは、鉛の濃度の分析です。骨に含まれている鉛ですね。これは東大の米田さんが分析しましたが、平均すると庶民よりも鉛の濃度が高いです。一般に、江戸時代は縄文時代や今に比べると鉛の濃度が少し高いです、庶民全体として。そして今から数十年前、いわゆる大気汚染が盛んだった頃ですね、いわゆるハイオクの有鉛ガソリンの煙を吸っていた人たちもかなり高いです。今はかなり少なくなっています。江戸時代の庶民が縄文時代や今の人たちよりも高いのは、白粉のせいでしょう。白粉の鉛白に鉛が含まれています。そもそも庶民は少し鉛の濃度が高いですが、親族はその何倍も高いのです。特に正室が高いですね。正室の浄観院と澄心院、そしてお嬢様の貞明院が著しく高いです。特に澄心院の場合、ひょっとすると死ぬかも知れないっていうぐらい高いです。実際に26歳で亡くなっています。本当の死因は証明できません。しかし、白粉の鉛の可能性が高いと思います。それ以外にも、例えばフッ素の含有量だとかいろいろな重金属を調べると、住んでいる地域によって含有量が違うことが分かっていますので、例えば京都からお輿入れされた正室では、京都にいたときと江戸にいたときで違うということがわかる可能性もあります。

     それから何を食べているかというのが、最近わかるようになりました。これも米田さんの分析です。詳細は省きますが、親族の方々は基本的に米を主食とする伝統的な食生活をしていたようで、そういった意味では庶民と同じです。非常に特殊なものを食べていたということはありません。だけど全体に窒素同位体比が高いというのは、魚介類の摂取が庶民より多いということになります。これは庶民よりお金があったからでしょうね。だけど個人差があります。実は庶民と同じような人もいます。「あんまり魚は好きじゃないわ、野菜の方が好きよ」という方がいらっしゃったということでしょう。ということで、安祥院と心観院と香淋院は庶民に近い、他の12人に関してはかなりたくさん魚介類を取っています。特に証明院と澄心院は魚介類の摂取が非常に多いです。お二人は正室です。京都の貴族から来ていらっしゃいます。しかも20代で亡くなっているということですから、これは結婚した後の大奥での食生活ではなくて、結婚前の公家の食生活を示しています。なぜなら、骨の中の成分が置き換わるのは少なくとも5年、あるいは10年もかかるからです。

     それから、奈良文化財研究所の松井さんと奈良大学の金原さんが寄生虫卵を分析しました。遺骨は頑丈な木棺に納まっています。その木棺の中に残っている残渣をすくって寄生虫卵を調べました。寄生虫卵がたくさん出てくるだろうと思ったら、ほとんど出ませんでした。非常に衛生的な環境だったと思われます。ご存知のように江戸時代というのは、糞便を便壺からそのままもっていって、それを畑に撒いて作物を収穫して持ってきましたから、生野菜を触ったり食べたりするといっぺんに回虫だとか蟯虫に罹っていたわけです。私も子供のころ回虫がいっぱいいました。小学校で虫下しを飲まされて、「俺は四匹、お前は何匹いた」って自慢しあう、そんな状態でしたから江戸時代はもっとひどかったはずです。ところがほとんど出ないのです。澄心院から回虫卵と鞭虫卵が、香淋院から鞭虫の卵が少し出ています。鞭虫というのは回虫に似た寄生虫です。いずれにしろほかにはほとんどない。生ものを食べないような衛生的な環境にいたのか、あるいは虫下しの漢方薬を大量に飲んでいたのか、そこはわかっていません。いずれにしろ意外に衛生的で寄生虫がほとんどいないという、そんな結果も出ました。

     正直言って私が専門にしているような頭骨あるいはそのほかの骨をいろいろ観察し計測値を用いて所属集団を識別するという手法は、戸山人骨の場合は有効ではありません。大きく人種が違うとか、時代が違うとか、個体数がたくさんあるとか、保存がいいとか、いろいろ条件が良くないと、なかなか簡単にはできません。つまり中国の人と日本の人を比べるというのはかなり難しいということになります。

     たとえば、徳川将軍親族の遺骨の計測値から統計解析をやりまして、これは私ではなくて若い共同研究者がうまくやってくれたのですけれど、この表のように個体を四角や円や×で示し、江戸時代庶民や近代人などを分布させ、それぞれの集団の90パーセント以上が含まれるように楕円形で表すと、江戸時代庶民と近代人はほとんど同じです。それに比べて正室たちというのは非常に特殊な顔形をしていまして、庶民や近代人とは全く違う楕円の中に入ります。側室たちというのは中間で両方にまたがることが分かります。正室というのはみんな貴族の出身ですから、江戸時代以前から非常に恵まれた暮らしをしていて、食べ物が柔らかかったので、顔の形が非常に狭いのです。つまり、正室は特別の家系で特殊な環境で育ってきた人たちだから区別できます。たとえば、正室と庶民の集団の遺骨がそれぞれ10体とか20体とかあれば、これは違うのではないかということは言えます。側室の場合には、両方にまたがっています。ということは、身分の高い所からも庶民からも来ているので、庶民とも正室とも区別するのが困難です。なお、庶民の中にも正室の楕円の中に混ざっている人も二人ぐらいいますね。そういう人たちが特別に選ばれて側室候補として大奥に送られるというのはあったのかも知れません。ですから、たとえば日本人の骨と中国人の骨が混ざって出てきたとしても、形態学的な研究では、きちんと識別することはできないでしょう。

  • 結論として

     人骨が帰属する集団をきちんと判別することは非常に難しいのですが、遺伝学的な手法、食性を分析する手法、重金属を分析する手法などの発展により状況が改善されつつあります。仮の話ですが、発見された人骨の集団が普通の米ではなくて、みんな粟や稗を大量に食べているということが分かったとします。骨に含まれる同位体を調べると、米と粟・稗は確実に分離できるからです。そうすると、これはいくら何でも普通の日本人じゃないなということが分かるでしょう。つまり最近開発されたいろんな手法を総合的に実施していけば、あるいはさらに別の技術が開発されれば、人骨の帰属する集団を識別することもある程度は可能であると考えています。
    ご清聴ありがとうございました。

2010.7.18

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